第14話 夏-5

 足の向くままぶらぶらと、駅前から道を下っていく。この辺りはもう何度か歩いているので、店の並びは頭に入っている。宿の並びを過ぎて、日常的なものを扱う町屋が増えてくる。菓子屋、肉屋、八百屋に干物屋、雑貨屋――。

 ふと目に入ったのは、抜け道にしては大きい脇道だった。商店と商店の間にぽっかりと口を開いている。今まで数度、前を通ったことはあったが、気付かなかった。首を傾げ覗きこむ。日の陰る道の向こう側には、鳥居のような赤い門が立っている。引き寄せられるように、玻璃はそちらへ足を向けた。

 朱塗りの門は、一定の間隔をあけて五本立っていた。ちらちらと落ちる日差しと、鳥居の下をくぐり抜け、玻璃は進んでいく。

 最後の門のその先には、『赤門屋』というひねりの無い屋号が書かれた木製看板が掲げられていた。横に広い造りの建物は、しっかりとした石垣から瓦屋根だけを覗かせている。

 ますます首を傾ける玻璃は、石垣に沿うように建てられた「湯」というのぼりに目を留めた。

「お風呂屋さん?」

 門から中を覗いて見れば、さっぱりとした表情の人々が三々五々、前庭に出された長椅子や籐椅子でくつろいでいる。開け放たれた引き戸には、看板と同じ名前が染め抜かれた暖簾が掛けられ、その向こうで気ぜわしげに行き交うのは、前掛けを纏った従業員らしき男女だ。

「ぼくは、別に」

 人がたくさん居る湯屋に用事は無いのだが。足はふらふらと門をくぐっている。なぜだろう、と思いながらも、初めて見る湯屋の光景に好奇心が掻き立てられる。

 湯屋の中に入らずにいる玻璃を、客も従業員も見咎めることはない。皆、それぞれのしたいこと、するべきことをしている。それぞれ、別個の世界にいるように。

 石垣で囲われた前庭には、濃い緑の葉をつけた木がいくらか植わっていた。背の低いもの、高いものが入り混じっている。緑の効果か、目隠しのための石で囲われていても圧迫感は無い。空気がいくらか温かく湿っている気がするのは、そこに居る人々が湯上がりだからだろうか。

 石壁に沿って歩みを進めた玻璃は、気がつけば人々の喧騒から離れていた。先ほどまでは耳についていたはずの声が、遠い。樹木の数も心なしか、少なくなっている。おそらく、普段は従業員しか立ち入らない領域に入ってしまっているのだろう。

 ああ、戻らなければ。と玻璃は思う。思うが、同時に「進んだ先には何があるのだろう」とも思っている。あるのは湯を沸かすための機械くらいで、居るのはそれを動かす従業員くらいだろう。彼らのための住居があるかもしれない。その程度だろう。とはわかっているのだが。歩みは止まらない。

 漆喰の白い壁と石垣の間の、狭い空間を進んでいく。

 目が眩む。足を進める。

 唐突に開けた視界の中に、家があった。

 小さな家だ。人がひとり住むので丁度よいくらいであろうか。開け放たれた障子戸の向こうに座敷がある。

 半歩踏み出した足が草を踏んだ。淡い緑の下草だ。その中に、浮島のように丸い石が埋め込まれている。そこを通れば、草を踏まず家にまでたどり着けるようになっている。

 横へ移動させた視線は、更に濃い緑を見る。玻璃の腰の高さ程度の大きさの木だ。よく見ると蕾らしき塊がついている。細い枝の奥には、更に背の高い木が立っている。今は葉を広げるその木が、以前は薄紅の花をつけていただろうことは、そういった知識に疎い玻璃にもわかった。

 玻璃は、庭に立っている。

「よう、来たな」

 投げ渡すような言葉だった。見上げていた視線を再び座敷へ向けた玻璃は、そこに一人の人物を見出した。

「まあ上がれ。座布団はその辺にあるから、勝手に出しな」

 飛石伝いに縁側へ。沓脱ぎ石に上ると、玻璃は言われるがままに半長靴を脱いだ。

 狭くも広くもない座敷は、玻璃が入ってきた縁側から見て右手に襖、左手に床の間があった。座布団は、襖の前に雑然と積まれている。床の間には、流れるような山水画が掛けられている。そしてその床の間から床へ、雪崩を起こすように幾束もの紙と、本が積み上げられていた。

「あなた、だれ?」

 紙束に埋もれるように座すのは、玻璃を招き入れた男だった。

「まずは自分から名乗るのが道理だろうがよ」

 その髪は、あたり一面に散らかされた紙よりもなお白い。

 その腕は、纏った着流しに色を吸われたように白い。

 その指先は、握った万年筆から色を流しだしたように白い。

 男には、およそ色といったものが存在しなかった。

 真っ白な男に相対する位置に座布団を敷き、玻璃は傘を傍らに座った。

 男は、高速で何かを書きつける手元から顔を上げない。

「つってもまあ、オレはお前についてだいたいのことは知っているがな。その妙な目についても」

 玻璃、と男は玻璃を呼ぶ。告げていない名を呼ばれても、不思議と玻璃は驚かなかった。男の言葉には、確固たる自信が付与されていた。知っている、ということは、全て知っているのだろう。

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