第11話 夏-2

 春というには遅すぎて、夏というには早過ぎる。ただ空は青く、日差しは日増しに強まる、うつろう季節のある一日。

 若い緑の海を、鉄の蛇が渡っていた。

 たなびく煙を目印に、まっすぐに敷かれた道を行く海蛇は、汽車と呼ばれる乗り物だ。水田のそこここで、作業の手を止め見遣る人々がいる。腰に手をあて、遠い目で。もう珍しくも無いが、休憩の口実としてはよい見物だろう。

 ガラス越しに見るともなく、彼らや水田を眺めながら、運ばれていく人物がいる。西方の地域特有の、金の髪をした少女だ。そこだけ長い前髪で、顔の右半分を覆っている。線の細い、華奢な骨格の透けて見える体躯は、淡い色の辻が花の着物に包まれている。

「もう長いこと乗ってる気がするけど、まだつかないのかな」

「そうねぇ。まだお昼にもなってないじゃない?」

 つくのは夕方頃と言っていたわぁ、と少々間延びした声で答える女がいる。

 女は、少女よりも濃い色の髪を持っていた。豊かで長く、少女とは違いゆるやかにうねっている。

 少女と女は、個室の客車にいる。横開きの扉で区切られた、向かい合う四人掛けの客室だ。二人掛けの座席を、少女と女はそれぞれ一人で使っている。少女は行儀よく膝に手を置き、隣に風呂敷包みと日傘を置いている。女はしどけなく、横ざまに座って窓に肘をついていた。

「あっちには、ぼくと同じ人っているかな」

「同じ人は居ないと思うわぁ」

「うん。まったく同じっていうのじゃなくて」

 まがつもの? と口に乗せ、少女は首を傾げる。

「禍津者」

 女ははっきりとした口調で言い直す。

「それなら、きっといるわぁ。だって帝都ですもの」

「会えるかな」

「会えるわよぉ。こういうのって、惹かれあうものですもの」

 うふふ、と女は笑う。それに合わせて形の良い乳房が揺れた。女の胸は、垂らした長い髪だけで隠されている。少女はそれを気にかけることはない。

「ねえママ。それじゃあナントカ階位の禍津日は?」

「千階位」

 そうそれ。頷く少女へ、女は形の良い唇に浮かぶ笑みを深くする。

「千階位の禍津日は、とぉっても強い子たちだから。近くにいればわかるわぁ」

「ママ、いるかいないか、わからない?」

「ママにだってわからないことあるわよぉ」

 唇をとがらせる少女。ごめんねぇ、と緩やかに謝りながら、女は唇に指先を当てる。

「玻璃ちゃん。あなたならきっと大丈夫だと思うけど、禍津者以外の禍津日関係で、危ないものを教えておくわね」

「なあに?」

 玻璃、と呼ばれた少女は瞳を輝かせる。これから忠告されるというのに、まるで緊張感の無い表情。それでも女は気分を害した様子もなく、話を続けた。

「まずは禍津日憑き。これは、禍津日を怒らせちゃった人ね。禍津日憑きには近付かなければ特に害はないわ。でも少しでも関わると、その人に憑いた禍津日があなたに害を与えるわ」

「見た目でわかるの?」

「そうねぇ。とっても不幸そうだなぁ、って人かしら」

「不幸そうだなぁって」

 わかるかなぁ、と首をひねる玻璃。

「わかるわよぉ。禍津日を怒らせると、とっても怖いんだからぁ」

「ママは優しいよ?」

 うふふ、と女は口元を柔らかく溶かし、微笑む。

「ありがとぉ。でもね、強い禍津日にはね、人の生き死にすら自由にできる子もいるのよ。苦しくて、辛くて、死にたい。それなのに、どうやっても死ねない。怒りの原因である人間を、そういう風にしちゃえるの」

 細い糸を、ぴんと張ったような声音。女は柔和に笑みながら、玻璃へ告げる。若草と琥珀の交じり合う左の瞳で、玻璃は女を見つめている。

「でも玻璃ちゃんはいい子だから、心配ないわぁ」

「ママの教育が良かったからね」

「ありがとぉ」

 再び緩む口調。玻璃もおどけたように肩を竦めた。

「ほかには何かあるの?」

「そうねぇ。禍津宿(まがつやどし)のことも、教えておくわぁ」

「まがつやどし」

 ものまね鳥のように繰り返す玻璃。できの良い生徒を見る瞳で、女は玻璃を見ている。

「そう。禍津者は、禍津日を信仰して力を借りている、っていうのは知ってるわよね」

 うん。と玻璃はこっくりと頷く。

 あなたはとっても頭がいいわ、と女は笑み混じりに言う。

「禍津宿は、禍津日の力そのものを取り込んだ人間よ」

 ちからそのもの、と繰り返し。

「そんなこと、できるの?」

 眉根を寄せる玻璃へ、女は唇に浮かべる笑みを深める。

「とぉっても難しいけど、できるわぁ」

「どうするの?」

「禍津日を、殺すのよ」

「殺す……」

 でも、と困惑を声音に乗せ、玻璃は言う。

「禍津日は、形も命も無いものだって、ママ言ってたじゃない」

 そうよぉ、と女。

「それなのに、どうやって」

「玻璃ちゃん」

 唐突に、女は玻璃の髪に触れた。女の口調と同じ柔らかな手付き。首をすくめるでもなく、玻璃はおとなしく頭を撫でられている。

「どうしたの?」

「禍津日は、こうして人と関わるために、殻を纏って現れるわ」

 弱い禍津日にはできないことだけど、と続け、傷も染みひとつすら無い指先で、髪を梳く。

「この時の禍津日はね、人と同じ。殻を壊されたら、死んでしまうの」

 ぱたん、と女の尾が床を叩いた。女の下半身を覆う、細かでなめらかな鱗で出来た尾。足の代わりに女の身体を支える太い尾の先は、しなやかで細い。

 玻璃がママと呼ぶ女は、美しい女の上半身と巨大な蛇の下半身で構成されていた。

「殻は、禍津日の力そのものに近いわ。壊されたら、私たちは途端に形をなくしてしまう」

「そうなると、どうなるの?」

「殻を壊した人間が、禍津日の代わりに力を得るの」

 それが禍津宿。そう言い、女は身体を起こした。木製の床を女の蛇の尾が擦り、ざらりとした音が立つ。

「禍津宿は、禍津日を殺せる程に強くて、狡猾。だから玻璃ちゃん、できるだけ禍津宿にはかかわらないこと」

 細い腕が玻璃を抱き寄せた。されるがままに腕の中へ収まり、玻璃は女の白い背に腕を回した。女のまとう、みずみずしく甘い香りに抱かれる。

「ママがあげたお目々と傘、それから『引力』。それがあれば大抵のことは大丈夫。でもママと同じ禍津日を屠った人間には、効かないかもしれない」

 少しだけ身体を離し、女は指先で玻璃の前髪を退ける。玻璃の隠された右目が覗く。女と同じ、薄紫の瞳。向かい合う女の右目は、玻璃の左目と同じはしばみの瞳をしていた。

「気をつけてちょうだい」

「うん。わかったよ、ママ」

 いい子、と女は再び強く、玻璃を抱きしめた。

 線路の継ぎ目が刻む拍子の合間に、こんこん、と異質な音が混ざった。木製の引き戸が叩かれたのだ。はぁい、と玻璃は返答する。

「切符を拝見しに参りました」

「えっと、はい」

 現れた恰幅の良い車掌へ、玻璃は窓辺に置いていた切符を手渡す。

 記された文字を目線で追い、車掌は切符を返却した。

「はい、結構です」

 よい旅を、と言って笑顔と共に、車掌は丁寧に引き戸を閉めた。

 個室の中とは違い、廊下は客車の軋む音や、線路の刻む拍子の音が響く。窓の外を、飛ぶように流れていく風景。

「おかしいな」と車掌は首を傾げる。傾げながらも革靴を鳴らし、次の客室へと足を向ける。

「一人旅か。誰かいたと思ったんだけどな」

 車掌の独り言は軋む線路へ吸い込まれ、回る車輪に踏み砕かれていった。

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