第9話 春-8

「これでもう、心配ないよ」

 喜美江へ手を差し出し、宇木那は言った。手を取り、喜美江は立ち上がる。紗夜が立ち上がるのには、喜美江が手を貸した。

 裏庭は、季節外れの氷がそこここに落ち、少しばかり地面がえぐれていた。だが、それ以外にはほとんど変化は無かった。桜が少し、散ってしまったくらいだ。

「あんなに強い風が吹いたのに」

「桜は美しいだけではないんだねぇ」

 ぽつりと呟いた喜美江の隣で、宇木那はしみじみと桜を見上げていた。内側から湧き上がる寒さは、もう感じなくなっていた。

 腰に差した刀を外套で隠し、雪千代は猫のような音のない歩みで玻璃の隣に並ぶ。あるべきものが、あるべき所に収まるように自然な動きだ。

「きみちゃん……」

「さやちゃん、平気?」

「うん」

 手を握ったまま頷くが、紗夜の足元はまだおぼつかない。よろけた紗夜を、喜美江は腰を支えるようにして、抱きとめる。胸元にすがる紗夜の、絹糸のような髪が首をくすぐる。

 温かい、というただそれだけのことに、喜美江はひどく安堵した。

「あの、ほんとにありがとうございました」

「どういたしまして」

「……おまえは、何もしてない」

 にこり、と笑う玻璃に対して、雪千代の声音は不満気だ。そんなふたりを見下ろし、宇木那は愉快そうに口元を緩めた。

「えと、あんまりすごいことはできないですけど、お礼はきっとしますから」

「いや、そう気負わなくったっていいんだよ」

 これが私たちの仕事だから、と宇木那。雪千代が、顎を僅かに引くだけの同意を見せた。

「でも、」と言い募る喜美江を、玻璃が遮る。

「まあ、それは後で。夜も遅いし、紗夜さんも疲れちゃってるみたいだし」

 だいじょうぶ、と紗夜は答えるが、その身体は喜美江に預けられたままだ。少しでも気分がよくなれば、と喜美江はその背を撫でた。

 ふたりとも、と玻璃が呼ばう。身動ぎ、紗夜が顔をもたげた。つられ、喜美江も視線を上げる。

「ぼくの目を見て」

 玻璃は、顔の右半分を覆う金糸を掻き上げていた。そこにあるのは眼帯だ。それが、ゆっくりと捲り上げられた。

 花だ、と喜美江は思った。眼帯の下の右の目は、淡い菫色をしていた。その目を見た途端、喜美江は頭の芯が揺れるのを感じた。不快感は無い。眠りに落ちる、その瞬間に似た、揺らぎ。

「君たちは、裏庭には来ていない。このままお部屋に帰って、眠るんだ。一晩ぐっすり眠ったら、ぼくたちのこと、ぼくたちから聞いたことは全部忘れる。いいね?」

 はい、と口が勝手に返事をしてしまう。遅れて、紗夜の声が聞こえる。喜美江と同じ言葉が、夢を見ている声音で。

 なんのお礼もしていないのに。もっと聴きたいことがあるのに。喜美江は叫ぶ。忘れたくない、と。

 その思いとは裏腹に、意識は徐々に呑まれていく。温かく、暗い淵へ。悲しいのに、ひどく穏やかな心地だった。

 数瞬の抵抗も虚しく、喜美江の意識は夢へと落ちていった。


 昨夜はどうやら風が強かったようで、裏庭には一面に桜の絨毯が敷かれていた。

 喜美江は、紗夜と並んで淡桃色の原を見ている。

「これはこれできれいだね」

「そうね。片付けておかないと、汚くなってしまうけど」

 紗夜が下男に頼んで出してもらったのだというテーブルの上には、紅茶と焼き菓子が並んでいる。できたての焼き菓子は柔らかで甘く、紅茶の匂いは芳しい。

「昨日は気がついたら眠っちゃったね」

「うん。ちょっともったいなかったかな」

 うふふ、と紗夜が笑った。

「でも、今日と明日もあるから」

 何をしようかしら、と紗夜の頬に抑えきれない微笑みが溢れる。喜美江も自然と頬が緩む。

「課題もやらなきゃだけどね」

「ふたりでやればすぐ終わるわ」

「じゃあ、先に片付けてしまおっか」

 そうね、と紗夜が頷いた。

「楽しいことは、後に取っておかないと」

 温かな風が吹き、桜の花がさざめいた。紗夜の黒髪も、わずかになびく。

 桜の香りは、ごく僅かだ。ほとんど、色から想起されるまぼろしの匂いかもしれない。

 視界を埋める、白に近い淡い色彩。喜美江は、以前にも同じように花の中で紗夜と共に過ごした気がしていた。白いテーブルと、紅茶がそこにあったような気がする。

 そして、濃い花の香り。

「……あ」

 ひらり、と落ちた花弁が、喜美江と紗夜のカップに舞い降りた。ゆらり、ゆらりと紅い水面を漂う淡い色。

 記憶の中の花びらは、もっと大きく艶やかだった。カップに落ちることなく、大輪のまま、微笑んでいた。

 黎明の空に似た色が、喜美江の意識をよぎった。だめだよ、と、己のものでも紗夜のものでもない声が聞こえる。

 だれ、と喜美江は記憶の中で声を追おうとする。

 その時紗夜が、カップを手にとった。

「あ」

 回想の中から浮かび上がった喜美江の前で、紗夜が一息に紅茶をあおる。上向いた顎の下、晒された喉は白い。

 喜美江は、ただただ紗夜を見つめていた。

 かつり、とカップが降り立つ。その中身は空だ。紅茶も、小さな花びらも、いない。

 頬に掛かる、一筋の黒髪。

 薄く色付いた唇が、弧を描く。

 手の中で、じんわりと熱を伝える白磁。微笑みに誘われるまま、喜美江は唇を付ける。

 人肌に近い温度は、さらりと喉を滑り落ちていった。

 ふたつのカップは、底に少しの湿り気だけを残して沈黙する。

「ふふっ」

 秘密を共有し合う笑みを、交わす。

 記憶の中の花園は、桜吹雪の向こうへ消えていった。

 空は高く晴れ渡り、日差しは暖かい。氷はすでに水へと変わり、地へ還り。夜は遠くなっていた。

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