第8話 春-7

 永遠に感じるほどの間吹いた風は、つかの間その威力を弱める。そっと視線を上げた喜美江は、跳ね上がる鼓動を覚え動きを止めた。

 視線を、感じた。

 未だに吹き込む颶風の中、裏庭にはふたりの影しか落ちていない。しかし、視線は確実にふたりを捕らえている。

 木々のざわめきの中、喜美江は思い出していた。思い出してしまった。

「これ、」

 夢で見た、と後を続けたのは、喜美江ではなかった。

「さやちゃん……」

「……きみちゃんも?」

 乱れた髪が掛かる表情は、完全に色を無くしていた。

 吹き込む風。舞い踊る桜。流れる雲に見え隠れする三日月。

 そして、見えない視線。

 そのどれもが、昨夜の喜美江の夢に現れたものだった。

「お守り!」

 喜美江は息を呑む。宇木那から預けられたお守り石は、紗夜の寝台の上だ。出歩くのは少しだけのつもりだったふたりは、揃って枕元に置いていた。

 不可視の視線は、少しずつふたりとの距離を縮めているように思われた。狙い定めているかのように、無防備なふたりを嘲笑うかのように。

 視線に背を向ければ、それでおしまいのような気がする。喜美江は見えない何かに向かい合ったまま、凍りついている。息を吸うのですら、ためらってしまう数瞬。

 張り詰めた緊張が弾けるのは、一瞬だった。

 来る、と、見えていないのに喜美江は感じ取っていた。牙か、爪か、そういった獣が持つ鋭さを喜美江は思う。思い、その殺意から隣の温もりを守るように、覆いかぶさる。

 きみちゃん、という悲鳴に近い囁きが、強く閉ざした瞼の裏に響いていた。


「やあ、間に合った」


 いやにのんびりとした声だった。

 身構えていた衝撃が訪れず、恐る恐る顔を上げた喜美江の眼前にあったのは。

「宇木那さん!」

 仕立ての良いウエストコートの背中だった。

 掲げた杖で何かを受け止めた宇木那は、払う動きで杖を振る。喜美江には何も見えていない。だが宇木那は、何かを視線で捕らえている。

「お守りは……部屋かい? まああの石には、『蜘蛛』の目印である以外の効能は無いから構わないよ」

 ちらりとふたりへ視線を寄越し、宇木那は杖を抜き放った。ただの木製の杖に見えていたそれは、中に白刃を潜ませていた。僅かな月明かりを反射し、濡れた光を放つ刃。

「危ないから、そこでおとなしくしておいで」

 微笑みの影を言葉に乗せ、宇木那は跳んだ。

 どう、という轟音と共に、喜美江の目の前の地面がえぐられた。風が吹き付け、桜の花弁が渦を巻く。悲鳴も上げられず、喜美江はただ隣の紗夜の身体を抱きしめる。

 一閃。

 落下の勢いを乗せ振るわれた白刃が、夜を切り裂いた。同時、宇木那は身を翻す。彼を追うように、花弁が風に舞い上げられる。

 聞こえるのは、ただ吹き荒れる風の音だけだ。だが、喜美江には微かに、ほんの微かに、怒り狂う獣の声が聞こえる気がしていた。

 喜美江には到底真似出来ない高さへと跳び、跳び移った木の枝を蹴り、着地。すぐに横へ跳び、かと思えば後ろへ飛び退る。花の嵐が吹き荒れる中、宇木那は白刃を振るい、裏庭を縦横に駆け巡る。

 喜美江には、剣術のことも武道のこともわからない。時たま、男子学生が授業を受けているのを横目に通り過ぎるだけだ。それでも、宇木那の動きが特殊なものに思えていた。

 まずそれは、宇木那の表情にあった。見えない何かと対峙しているというのに、表情に焦りや畏れと言ったものが見えない。宇木那には見えているのかもしれないが、それにしても穏やかだ。汗を散らし、白刃を握っているのは確かに宇木那自身だ。だが、彼は全幅の信頼を置いている誰かが戦うのを見ているような、そんな安らいだ表情をしていた。

 そして、彼は全身から力を抜いているように見えた。確かに、刃を振るう時や走る時、彼の身体は動いている。しかし喜美江には、その行動の全てが宇木那自身の意思によってでは無いように思えた。子供が遊ぶ人形のように、宇木那は何かに身を任せている。

 上段から振りかぶった刃を不可視の獣に弾かれ、しかしその勢いに乗り、宇木那は跳ぶ。落下の勢いは膝で殺し、降り立ったのは喜美江の眼前だった。

 そこで喜美江は見た。まくり上げられた袖の下、晒された宇木那の腕に絡みつく痣。川の流れか、壁に這う蔓か。そういったものを想起させる、流線を描く紋様。それは脈動するように、赤く光っていた。

 血の色に似た不吉な輝き。息を呑み、視線を上げた喜美江は、僅かに覗く宇木那の首元にまで、その痣が広がっているのを見た。今度こそ小さく悲鳴を上げた喜美江へ、宇木那が目を向けた。

「どうした?」

「宇木那さん! それ!」

 喜美江とは対照的に、宇木那はきょとんとした間の抜けた表情をしていた。一瞬、喜美江が何を言っているのか理解できなかったのだろう。

 彼は瞬きの後に、ああ、と自身の腕を見下ろし頷いた。

「力には、対価が必要なんだよ」

「対価、?」

「実を言うと、私はそんなに強くない。というか、こういう手合の事はてんでダメなんだ」

 そう言いながらも、彼の腕は虚空から振り下ろされた力を、刃で弾き返している。顔は喜美江の方へ向けられているというのに、その動きは正確だ。

「だから、力を借りている。私が信じる禍津日に」

「信じる、禍津日に……」

「そう。禍津日については玻璃ちゃんに聞いたね? 人と禍津日は、違う世界のものだと」

 金属と金属がぶつかり合い、火花を散らす音が幾度も響く。風は荒れ狂い、淡桃色の激流が裏庭にとぐろを巻いている。一歩踏み外せば、嵐に巻き取られ八つ裂きにされてしまう。

 その中であってさえ、宇木那の声は優しく響いていた。穏やかな自信に裏打ちされた、こちらを包み込む声。国語か、社会科の先生のようだ、と思いながら喜美江は頷く。

「でも、世の中には禍津日と共に生きる者もいるんだ。ごく少数だけど、私のように」

 跳ね上がり、受け流し、白刃が閃く。その光景を、宇木那はまるで見ていない。見ていなくとも、刃は己と喜美江たちを守ると知っているかのように。

「きっと忘れてしまうだろうから、教えておこう。禍津日と生きることを選んだ私たちは――禍津者(まがつもの)と呼ばれている」


 夜空から一筋の流星が、降った。


 こぼれ落ちた月光に似たきらめきは、不可視の何かを地へと叩きつける。

 轟音。薄紅の花弁が吹き上がる。

「こんばんは、宇木那さん」

 甘い声音が闇から染みだした。驚きと共に振り向く喜美江と紗夜の前を、豊かな色彩の振袖がよぎる。

「やあ。来てくれてよかった」

 そろそろ限界だったんだ、とへにゃりと笑い、宇木那は構えを解いた。鮮血色の紋様が肌へと溶け出し、消える。

 真夜中の裏庭で、玻璃は少女趣味な傘を差していた。淡い色の飾り襞が夜風に揺れる。

「大丈夫だった?」

「……あ」

 ふたりを見下ろし、首を傾げる玻璃。流れる金色の髪に、夜闇にも鮮やかな青い薔薇が飾られている。そのことに、喜美江はその時初めて気付いた。

 青薔薇は、こちらに身体を向けた宇木那の胸元にも飾られている。

「ああ、これ?」

 言葉は無くとも、喜美江の視線で気付いたのだろう。髪を掻き上げる仕草で薔薇に触れ、玻璃は微笑んだ。

「これは、ぼくたちの目印だよ」

「ぼく、たち?」

「そう。ぼくたち禍津者(まがつもの)の」

 風が強く吹いた。短い悲鳴と共に、喜美江は紗夜を固く抱きしめる。風は絶叫に似た音と共に、桜の花弁を巻き込んで吹き荒れる。

 掲げた腕で顔を覆う宇木那とは対照的に、玻璃は涼しい顔で立っていた。風に煽られているはずの傘ですら、震えることは無い。

 玻璃と宇木那が見遣る先へ、喜美江も自然と視線を送っていた。

 豪風が渦巻く裏庭で、黒い外套を羽のように広げる一人の少年。その手には、一振りの刀が握られている。縁の太い眼鏡越しの視線は、もう一振りの刀のように鋭い。

 彼の学帽にも、青い薔薇は飾られていた。吹きすさぶ風の中、その花は損なわれることなく存在し続けている。

 少年――雪千代が、口を開いた。距離と風の音で、喜美江には聞こえない。だが、口の動きで理解した。

 雪千代は、吠えていた。意味のある言葉ではない。しかし意味のある音である。全身全霊の力をぶつけるための、裂帛の気合。

 振りぬかれた一振りは、全てを止めた。

 きん、とした静寂が落ちた。一瞬で、風も、花弁も、何もかもが静止する。

 玻璃が、宇木那が、そして喜美江と紗夜の吐く息が、白くけぶっていた。

 月明かりに照らされ、きらきらと光るのは、獣の形をした氷塊だ。牙を剥く巨大な獣は、よくできた彫像のように凍りついている。

 は、と一つの呼吸。肩で吐き出された息は、透明のまま夜に溶けた。雪千代は、白く凍りついた獣に対峙している。

 両の手と共に、刀が振りかぶられる。


 千々に砕け舞い踊る氷華の中、学帽を飾る一輪の花は、深く青く咲いていた。

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