第7話 春-6

 それから二日間は何事もなく過ぎた。変わったことと言えば、学内で時折学徒たちの中に金色の髪や眼鏡越しの鋭い視線を見るようになったくらいだ。声をかけようとすると、人波に紛れて居なくなってしまう。他の生徒にそれとなく話を振ってみたが、誰も玻璃と雪千代らしき学徒を知っている者は居なかった。あの温室についても同様で、あれからもう一度行ってみようとしたが、辿りつけなかった。

 彼女らとあの温室は、喜美江の世界から存在感を無くしていた。まるで捲られたページの向こう側へ行ってしまったかのように。

 それでも時折僅かに感じられる存在は、喜美江に「見られている」という安心感を与えていた。


 護帝高等学校に籍をおく学徒たちのほとんどは、寮に暮らしている。喜美江もまたその一人だ。日中を校舎で過ごし、日が暮れれば寮へ帰る。一日を学校の敷地内で始め、終わらせる。

「なるべく紗夜と一緒にいるように」と玻璃には言われたものの、喜美江と紗夜にはそうできない理由があった。

 紗夜は、寮では無く彼女の実家が建てた別宅で暮らしている。喜美江は数度、彼女が休んだ時に課題やお知らせの手紙を届けに行ったことがあった。紗夜と、彼女の世話をする者が数人住むだけという家は、喜美江の実家ほどの大きさがあった。中は豪奢ではないものの、落ち着きのある調度でまとめられた上品な造りをしていた。しかし人の気配の希薄なそこは、大勢での暮らしに慣れた喜美江には静かすぎた。

 その暮らしは、彼女の実家の意向であるらしいが、詳しくは聞かされていない。ただ儚げな紗夜の微笑みだけが喜美江の脳裏に刻まれていた。


 だから。

「うちに泊まりに来ない?」

 そう言われた時、喜美江は一も二もなく頷いていた。


 帰省する時以外での外泊許可の申請は初めてだったものの、存外にあっさりと認められた。喜美江は肩透かしをくらいながらも、内心ではほっと息を吐いていた。

 もしかすると、玻璃の援護があったのかもしれない。とは思ったが、確かめる術はなかった。

「よかった。これで一安心ね」

 許可、という赤の判子を押された許可証を見た紗夜は、花開くような笑みを見せた。つられ、喜美江も頬を染める。

「さやちゃんのお家は、大丈夫?」

「大丈夫。私しか居ないもの」

 返す紗夜の表情は明るいが、喜美江は胸を締め付けられる思いを持った。

 何はともあれ、これで週末の二日間は紗夜と過ごせるのだ。喜美江は紗夜の手を取る。

「着替えとか、色々取りに行くから。行こう」

「うん」

 寮生でなくとも、護帝高等学校の生徒であれば出入りは自由だ。喜美江はいつもの通学用の鞄にあれこれと荷物を詰め、また手を取り合って外へと出て行った。


「お嬢様。そちらの方は」

「お友達の喜美江さんよ。今日は泊まっていかれるから、よろしくお願いしますね」

 紗夜と喜美江を迎えた男は、鋭い一瞥を喜美江に送った。射るような視線の先で、喜美江は身を縮める。

「こんにちは……」

 男――一砂は、喜美江に会う度に紗夜へ名前を尋ねる。

「あの人、人の名前だけ覚えられないのよ」と困ったように紗夜は笑っていたが。まさか本当に忘れているわけではないだろう、と喜美江は思う。しかし嫌がらせにしては地味だ。それに大の大人がそんなことをするものだろうか。

 疑問は尽きないが、一砂は慇懃に一礼するとどこかへと去っていった。代わりに現れた年かさの女性が、彼とは真逆の笑顔で喜美江の鞄を預かろうとする。それを丁寧に断り、紗夜に導かれるまま絨毯の敷かれた廊下を進んだ。家の中を土足のまま歩くのは、何度経験しても不思議な感覚だった。

「きみちゃんが来てくれて、本当に嬉しい」

 二人きりの広すぎる食卓で、紗夜の笑顔は絶えなかった。十人程度ならば余裕を持って座れるだろうテーブルで、紗夜はいつも一人で食事を摂っているのだと言う。生家でも、寮ででも、隣と肩がぶつかりそうな程の喧騒の中に居る喜美江には想像できない生活だ。

 食事を供する女性や、それこそ一砂が共に食卓につけばいいものを。そう喜美江は思ったが、できない理由があるのだろう。口には出さず、己の中で結論付ける。

「きみちゃんが、ずっと一緒に居てくれたらいいのに」

 喜美江と紗夜が二人で横になっても、まだ余裕のある寝台の上。色とりどりの服飾雑誌や文芸誌を並べ、とりとめのない話をしていた時のことだった。

「お父様にお願いしてみようかしら。きみちゃんと一緒に暮らしたいって」

「さやちゃん、お父さん困っちゃうよ」

「困るくらいでちょうどいいんだわ」

 唇を尖らせ、紗夜は呟く。紗夜の両親は、喜美江にとっては馴染みが薄い。紗夜の話に上ることも無く、ましてや会ったことも無いのだ。彼女の口ぶりからすると、あまり良くは思っていないのだろう。

「でも……さやちゃんも寮で暮らせたらいいのにね」

「それは、きっとできないわ」

「どうして?」

「……一砂さんが、きっと一番反対する」

「あの人が……?」

 両親が反対するのならば、まだ理解はできる。しかしなぜ、言うなれば他人である一砂の反対を紗夜は危惧しているのだろう。喜美江は首を傾げる。

 疑問をそのまま口に出せるほど、喜美江は他人の心の機微に鈍感ではなかった。ただ黙って、紗夜の頬に掛かるまつげの影を見つめていた。

「ねえ、ちょっとお外に行ってみない?」

 ぱっと顔を上げ、紗夜が言った。その声音は明るい。

「えっ?」

「ちょっとだけ、おさんぽしましょ?」

 いいでしょう? とねだるように腕を取り、身体を寄せる紗夜を、喜美江は拒絶できない。喜美江は、きっと気分を変えたいのだろう、と思う。彼女が贈ってくれた寝間着のワンピースのまま、ふたりでそっと部屋を出る。

 春とはいえ、夜半近くの空気は冷えていた。思わず身体を震わせる。

「桜が綺麗なのよ」

 そっと囁いた紗夜は、そのまま喜美江に寄り添った。触れ合った部分から伝わる体温に、喜美江はほっと息を吐く。

 家屋の裏手にある勝手口から出て、すぐ。裏庭には、目隠しのためにか植えられた樹木が茂る。

 三日月の、僅かな光に照らされ、薄紅色の花弁がさざめいていた。

「きれいでしょう?」

 わあ、と感嘆の声を上げ、それきり何も言えなくなった喜美江を、紗夜は嬉しそうに見やった。返事の代わりに、喜美江は絡めた腕に力を込める。

「きれい……」

 桜に魅入られたかのように、ふたりはゆっくりと木の下へと歩み寄った。風は少なく、花びらが時折数枚、舞い踊るだけだ。月の青白い光の中、それでもうっすらと色付いた仄かな赤。

「朝になったら、この下でお茶にしましょう」

「うん」

 頷きを返した喜美江へ、紗夜は微笑む。月明かりの中では、彼女の肌はひときわ白く輝いていた。陶器のようなつるりとした色合いは、この世のものではない美しさだ。夜闇から溶け出してきたかのような髪が、その頬に掛かる。

 どうしてか、喜美江は彼女がこのままどこかへ消えてしまいそうな気がした。腕を離せば、ふわりと闇に消えてしまう。妄想のまま、喜美江は身体ごとすがるように、紗夜に寄り添う。

「寒い?」

「……少しだけ」

「戻りましょうか」

 喜美江の行動を、寒さによるものだと思ったのだろう。紗夜はそっと促した。

 その時、先ほどまでとは比べ物にならない、強い風が吹いた。ざ、と裏庭に群れる木々が、身体を震わせる。桜の花弁が、身を竦ませるふたりへ雨のように降り注ぐ。

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