第5話 春-4
季節外れの白い薔薇が咲き乱れる温室は、夢を見ているかのように温もった空気が満ちていた。咲く数に対して控えめな芳香の向こう、薔薇の木立に囲まれた煉瓦敷の空間には、白い猫足の丸テーブルが用意されている。
「こんにちは。どうぞ座って」
微笑む女学生は、金の髪をさらりと流し、立ち尽くす喜美江と紗夜に花咲くような笑みを向けた。
喜美江がそれを見つけたのは、ほんの気まぐれからだった。
いつも通り、昼時を紗夜と食堂で過ごした後、またいつも通りに連れ立って教室へと戻る途中のことだ。喜美江は会話の途切れ目で、ふと窓の外を見下ろした。
そこには、喜美江たちの教室がある新館と、化学室や図書室がある旧館に挟まれた中庭が存在する。中庭、と呼ばれてはいるものの、あるのは小さな林だけだ。冬でも葉を落とさない木々で構成された、いつでも鬱蒼とした空気が漂う林。好んで近づく者はいない。
この林には、ちょっとしたご利益があった。
「思い出したいことがある時は、この林を見ると良い」というものだ。どういう理由かは定かでは無いが、思い出したいと思っている物事が、この林を見るとするりと頭の中に現れるのだ。それは忘れたことすら忘れていることでも有効で、忘れっぽい生徒などは廊下を通る度にこの林に目をやっているほどだ。
だがその時の喜美江は、特に何か思い出したい本の題名があったわけではなかった。意識せず、何気なく林を見やっただけだった。
そして林の中にあるものを見つけた。
なぜ今まで気付かなかったのだろうか、と思うほどにそれは目立っていた。日差しを吸い込む濃い色の葉群の中、春の陽をきらきらと反射する、屋根。何か光沢のある材質でできているのだろうか。思わず喜美江は窓に張り付いた。
「きみちゃん?」
「さやちゃん、あれ見える?」
目を離したその瞬間に消えてしまうのではないか、とばかりに林の中の建物を見つめながら、喜美江は紗夜を呼ばう。ふたりが立っているのは、新館の二階の中ほど。ふたりが普段授業を受けている教室の前だ。そこから見えるのは、暗い色の樹木の頭だけであったはずだ。だが今は、その中にひときわ目を引く屋根がある。木立よりも少し低い位置にあることから、その建物は平屋建てであろうことが伺える。
「あれ……なあに?」
「わかんない。けど、昨日はなかったよね」
「うん。朝も、なかった気がする」
あれほど目立つものが突然に現れて、何の騒ぎにもなっていないことなどありえるだろうか。林を見下ろす生徒は、一日に何人もいる。教師ですら、何も言っていない。
ふたりは言葉もなく、見つめ合う。そんなふたりを意に介さず、数人の女学生たちが笑い合いながら通りすぎて行った。
「行こう」どちらともなく、言った。
昼でも薄暗い林は、まるでふたりを招き入れるかのように細い小道をその腹に用意していた。占い師の下へ向かった時と同様、手を取り合い、進む。道はさほどの長さもなく途切れ、果たしてふたりはそこにきらめく遺物を発見した。
それはガラスで作られた小さな家に見えた。屋根も、壁もガラス張りで、薄曇りのその向こうには濃い緑色が覗いている。
片開きの扉は微かな軋みと共に、たやすく開いた。ふたりを出迎えたのは、肩ほどの高さの濃い緑の木立。競い合うように咲き乱れる白い薔薇。春の日差しに温もった空気。
そして金の髪の少女だった。
座って、と言われるがまま、ふたりは並んで空いた椅子に掛けた。
「よかった。ちょうどお茶を用意したところだったんだ」
口にあうと良いけど、という言葉と共に、煮詰めた紅色に満ちたカップが提供された。薔薇の芳香と混ざり合う、豊かな香りが鼻先をくすぐる。
白磁のカップと見間違う指先、傷ひとつ見当たらない手の甲。桜の散る着物を纏った少女を、少し年上だろうか、と喜美江は見当を付けた。彼女の金色の髪は、帝都からはるか西方の出身であることを示している。黒か濃い茶色が常である帝都でも珍しい色ではあるが、そちらの方でも珍しい色であると喜美江は聞いたことがあった。
しかし、このような珍しい髪の少女がいるということが、校内で少しも噂になっていないとは。喜美江や紗夜と同じ制服の袴を着けてはいるが、本当にこの学校の生徒なのだろうか。
茶器を小さな丸盆の上に下げていた少女の瞳が、喜美江の視線とかち合った。髪と同じ、薄い色の瞳だ。同時、顔の右半分を隠すように流された前髪の影に、眼帯が覗く。痛々しくも見えるそれが、少女の神秘的な存在感を増している。喜美江はその裏に隠された瞳の色を思った。
「どうしたの?」
首を傾げられ、喜美江はハッとした。随分不躾に見つめてしまっていたようだ。しかし少女は気に障った様子もなく、ああ、と微笑んだ。
「彼は気にしないで。うるさくしなければ何も言わないから」
そこで喜美江は初めて、喜美江と紗夜の向かい側に少女以外の人物が居ることに気付いた。
少年はテーブルに突っ伏していた。頭には学帽と、太い縁の眼鏡が乗っている。組んだ腕に乗せられた顔はしかめられ、それでも寝息は安らかだ。半ば頭からずり落ちた学帽の影から、柔らかそうな髪が覗いている。喜美江はくしゃくしゃと渦を巻くその髪から、冬に咲く青い花を思い出す。置物のように静かで動きも少ないが、密やかな寝息が控えめすぎる存在を主張していた。
「ぼくは玻璃。こっちの寝てるのが雪千代」
「紗夜です」「あ、喜美江、です」
名字を名乗らない玻璃に倣ってか、紗夜が名前だけを名乗る。喜美江も同様に名前だけを告げた。
「青薔薇じゃないのね」
それ、と紗夜が玻璃の髪を指す。細い指の先には、金糸を飾る白い花がある。顔の造作ばかりに気を取られ、喜美江は気付かなかった。見れば、雪千代の学帽にも白薔薇が添えられている。
「がっかりさせちゃった?」微笑む玻璃は指先だけで八重咲きの薔薇に触れる。
「青薔薇は天帝(あまのみかど)さまだけのものだから、ぼくらは身につけられないよ」
だからこそ、青薔薇生徒会の噂は神秘性を持っていたのだが。喜美江は胸の内でこっそりとため息をつく。紗夜も同様にがっかりしたのだろうか。横目で伺った表情からは判別できない。
「でも安心して。ぼくらは概ね、君たちが思っているようなものだから」
「青薔薇生徒会なの?」
「うん。正式な名前は違うけど」
次いで告げられた名称は、喜美江には聞き覚えの無いものだった。
「ぼくらは学徒警察とか言われてる。――宇木那さんから話は聞いてるよ。ぼくらが君たちの力になれる」
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