第3話 春-2
夜闇が朝の清浄な光に追いやられ、空が青く澄み渡る。薄雲が一刷けだけ青を飾り、目覚めた小鳥がさえずり、遊ぶ。
学び舎へと向かう学徒たちの中を、少女が一人駆け抜けていった。肩に掛けた帆布の鞄と矢絣の着物の袖は一緒くたに抱えられ、濃い色の袴がはしたなく蹴り上げられる。三つ編みの髪が背に広がり、跳ねまわる。雀の忙しないはばたきに似たリズム。教師が見れば、すぐさま厳しい指導が入る行動だが、彼女にとって幸いなことに教師の姿は見えない。ただ足音も姦しく駆けて行く彼女に、眉をひそめたり愉快そうな笑みを浮かべたり、学徒の視線が向けられるだけだ。
「おはようきみちゃん」
「おはようさやちゃん!」
皮の半長靴(ショートブーツ)の靴底を鳴らし、教室へ飛び込んだ彼女に微笑みが向けられる。今しがた来たばかりの様子で、窓際の席に鞄を置いた少女。さやちゃん、と呼ばれた彼女は、夜よりもなお暗く艷やかな髪を耳にかける。
「窓から見ていたけど、随分とお急ぎのようでしたわね。堀口(ほりぐち)喜美江(きみえ)さん」
「失礼しました穹岸(そらぎし)紗夜(さや)先生。見苦しい行い、以後気をつけます」
弾む息を整えぴしりと背筋を伸ばす喜美江。ふたりは数瞬真顔で見つめ合い、示し合わせたように笑いあった。
「本当にどうしたの? いつもはもっと遅く来るじゃない」
「どうしてもさやちゃんに一番に話したくって」
紗夜のひとつ前の席に鞄を放り出し、喜美江は椅子へと横ざまに座り込む。話の続きを促す紗夜の視線に、うふふ、と堪え切れない笑みを漏らした。
「見ちゃったの! 青薔薇生徒会!」
「青薔薇……?」
「前言ったじゃない! わたしたちを助けてくれるかもしれないって」
首を傾ける紗夜に、喜美江は拳を握り熱弁した。
青薔薇生徒会は、ここ護帝軍高等学校の学徒たちの間で噂になっている存在だ。天帝(あまのみかど)の印である青い薔薇を身につけ、超常の力をもって秘密裏に学徒たちを守護すると言われている。
「昨日ね、ちょっと帰りが遅くなっちゃったの」
「また本屋さん?」
それはいいから。と眉を寄せる紗夜に手のひらを向けながら、喜美江。
「そしたら何か事件があったみたいで、軍人さんがいっぱいいて。ちょっとだけ覗いてみたの」
「そこにいたの?」
「いたの! 一人は男の子で、もう一人は女の子。帽子と、髪に青い薔薇さして!」
喜美江は抑えた悲鳴を上げ、朱に染まる頬を押さえて足をばたつかせる。やにわに興奮し始めた喜美江に、級友の好奇に満ちた視線が向けられる。紗夜は彼らになんでもないという風に手を振ってみせた。
未だに頬を染め興奮に身を捩る喜美江を、馬にでもするかのようにどうどうと落ち着かせ、紗夜は問いかける。
「顔は覚えているの?」
「あ、うんとね……あれ?」
途端に、喜美江の花が咲いた空気がしぼんでいく。
覚えてないのね、と紗夜は苦笑した。
「でもほんとにいたの! 青い薔薇の!」
「わかったから。顔がわかれば探せるのだけど……」
「ごめん……」
一転してしょんぼりとする喜美江を、紗夜はよしよしと撫で、慰める。
「でももう一度見たらわかると思う。かわいい男の子と、キレーな女の子」
「じゃあそれとなく探してみてね、きみちゃん」
はい! と喜美江は仲の良い教師にそうするように、元気の良い挙手で応えた。うふふ、と紗夜は口元を押さえ笑う。
誰が開いたのか、開け放たれた窓から風が柔らかく吹き込んだ。目の前でさらさらと流れる髪に、喜美江は数瞬見惚れる。気付いているのかいないのか、紗夜はほころび始めた桜の木へと視線を向けていた。
「……きみちゃん、昨日は夢、見た?」
「……うん」
憂いに染まった声音。喜美江は頷き、俯いた。
「あのね、落ち着いて聞いてね。昨日……」
昨晩見た光景が脳裏に浮かび、喜美江の鼓動が跳ね上がる。紗夜の続ける言葉を待ちながら、頭の中ではすでに予想がついてしまっている。
「夢見さまをやった子が、死んじゃったみたいなの」
「じゃあ、わたしが見たのって……」
「たぶん、そう」
騒ぎ出す鼓動を閉じ込めるように、喜美江は胸元で手を握りしめる。そうすれば、悪い何かから隠れられるとでもいうかのように。それでも鼓動は収まらず、悪い何かは影も形も見えないが、確実に喜美江と紗夜を脅かしている。
どうしよう、と誰に言うとでもなく、喜美江は呟く。思考を占めるのは、彼女を苛む夢の光景。一筋の光も無い暗闇と、背後に迫る何かの気配、そして焦り。首筋を炙る恐怖に突き動かされるまま走る。しかし足はもつれ、焦燥とは裏腹にうまく走れない。己の身体のままならなさに苛立つ。そして悲鳴を上げる間も無く、恐怖は具体的な形を持って襲いかかる。
「あのね、今日占い師さんのとこに行ってみようと思って」
目覚めながらにして悪夢にのまれていた喜美江の意識を掬い上げる声。俯いていた顔をはっと上げ、瞬く。
「占い師さん、ってあのお菓子屋さんの裏の?」
「そう」
柔らかな曲線を描く眉を寄せ、それでも頷く紗夜。喜美江はううん、と唸りながら首をひねる。
「占いで助けてくれるのかしら」
「わからないけど……でも、何もしないよりはいいかと思って」
どうかな、と紗夜は喜美江の表情を伺っている。紗夜の顔は、凛とした美しさを持ちながら、子猫のような愛らしさも持ち合わせている。男ならば十人中十人が恋に落ち、女ですらも悪い感情は持てない花のかんばせだ。そんな彼女に見つめられ、お願いされれば誰だって持てる力の全てを惜しみなく貸し出したくなるだろう。
喜美江ももちろんそうだ。
「……そうだよね。占いで何かわかるかもしれないし」
私も行く、と喜美江は大きく頷いた。途端、紗夜の表情が和らぐ。微笑みと共に「ありがとう」と言われれば、自然と喜美江の心も甘くほころぶ。
喜美江が照れ笑いで紗夜に応えたのを見計らったかのように、髪を結い上げた女教師が教室へと入ってくる。三々五々散っていた学徒たちが割り当てられた席へと座り、喜美江も慌てて前へと向き直る。
女教師が点呼を始める傍ら、喜美江はそっと背後を伺う。すると通じあっていたかのように、紗夜の黒曜石の瞳と視線がかち合った。ひそめた笑みを描くまろい瞳。微笑みを返し、女教師の叱責が飛ぶ前に素早く教壇の方を向く。不思議と熱くなる頬を押さえながら、喜美江は授業が始まる前から夕刻を待ちわびていた。
占い師は、学徒たちの間で評判の男だ。いつ頃から囁かれ始めたのかは定かでは無いが、占いはよく当たり、話を聞いてもらうだけでも気持ちが楽になれるらしい。必ず居る、というわけでは無いが、第二城塞都市中央駅前の菓子屋と肉屋の間の脇道を入っていった奥、袋小路に居るのだと言われている。
ふたりがこわごわと薄暗い小道を進むと、奥から笑い声が漏れ聞こえてきた。
「占い師さん?」
「違うお客さんがいるのかしら」
喜美江は曲がり角からそっと向こう側を伺った。その背中に手を添え、紗夜もまた覗きこむ。
周囲を建物に囲まれたそこは、確かに狭い。しかし閉塞感は無く、むしろ閉じられているという安心感を与えられる。それはそこにだけ刺す陽の光がもたらすのかもしれない。中天を過ぎた日光は、背の高い建物に阻まれ、ふたりが辿ってきた路地には届かない。しかし不思議と、この袋小路には暖かな光が満ち溢れていた。
笑い声は、占い師らしき男とその向かいに座る男から上がっていた。占い師の向かいに座る男が何者かは、喜美江には判別できない。しかしその背中を包むしっかりとした生地には見覚えがあった。
「軍人さん…?」
軍人はこちらに背を向けて座っているが、占い師は路地の方を向いている。どうやらふたりに気付いたようだ。
「ああお客さんかな。ほら、サボってないでもういけよ」
占い師は、親しげに軍人の肩の当たりを拳で小突き、ふたりに手招きする。招き寄せられるまま、ふたりは手を取り合いながら歩み寄った。
「すまない。ゆっくり話すと良い」
小さな卓の前に置かれた椅子から立ち上がった軍人は、ふたりが見上げる程の大男だった。しかし丹精な顔立ちとそこに浮かべた柔和な表情のせいか、威圧感は少ない。
「では」
浅く一礼する軍人に、ふたりは道を譲った。柔らかな微笑を口の端に乗せ、軍人は軍帽を被る。
「またな、実篤」
去っていく軍人へ、占い師はひらひらと手を振っていた。
「さて。今日はどうしたのかな」
ふたりの前には、鼠色に近い濃い緑の布が掛けられた木製の卓がある。その上には、占い師が扱うような筮竹(ぜいちく)や、水晶といったものはなく、一輪だけの白い薔薇が活けられた花瓶と菓子鉢だけがある。
軍人が座っていたものと、それとは別に背後からもう一つ椅子を取り出し、占い師はふたりへ座るように勧めた。ひっそりと目配せし合い、占い師から見て喜美江は左に、紗夜は右に掛ける。
「私は鴻池(こういけ)宇木那(うきな)。君たちが知っての通り、占い師という奴だ」
よろしく、と言いながら占い師――宇木那はふたりへ名前の書かれた小さなカードを差し出した。受け取り、喜美江は改めてまじまじと宇木那を見つめた。彼は、全く占い師らしくない装いをしていた。顔つきはそれなりに若々しく見えるが、後ろになでつけた髪と立ち居振る舞いからは積み重ねられた年齢を感じる。装いは革靴にウエストコートと、新聞記者か銀行員か、そういった職を想起させる。傍らに杖が置かれているが、足が悪そうな様子は無い。
「……なんだか詐欺師みたい」
「さやちゃん!」
悪気の無い様子でぽつりと呟く紗夜。喜美江はすぐそこにある彼女の膝を強めに突いた。
紗夜は生まれのせいか、世間知らずのきらいがある。普段は礼儀正しく、少々ものを知らない程度なのだが、時折こうして悪気なく人を怒らせるようなひと言を言ってしまうのだ。
宇木那は特に気分を害した様子もなく、ハハと笑っただけだった。
「今はそうじゃないよ。まあ、そうとも言えるかもしれないけど」
「詐欺師なの?」
瞳を輝かせる紗夜と、彼女へ不安げな視線を送る喜美江。ふたりへ交互に視線を流し、宇木那は微笑んだ。
「似たようなものかな。占い、と言っても私のは本物では無いからね」
そして唐突に、狙い定めるかのように。しかし柔らかく、喜美江を見つめた。瞳の色は見慣れた色だ。だが喜美江はそこから目が離せない。
「君は帝都の出身ではないね。地方……帝都からそんなに離れてはいない。東の方だね。失礼だけど実家はそれほど裕福ではない。農家の人かな。お兄さんが一人以上いる。実家はお兄さんが継いでいるね。だから五つ以上は年が離れている。妹弟は居ない。地元の学校では一番頭が良かったんじゃないかな」
滔々と語られる宇木那の推測。その全てが喜美江の正しい出自を描き、喜美江は目を見張った。
続けて、宇木那は紗夜へと視線を向ける。
「君は帝都の出身だね。でも第二城塞都市ではない。中央の方だ。実家はとても裕福だ。兄も姉も、弟も妹も居ない。一人っ子だね。隣の彼女とは友達同士だが、年は君のほうが一つ上。というのも君は病気でしばらく休学していたから。でも勉学に遅れは無い。隣の彼女がよく教えてくれるし、君自身もとても賢いからだ」
わあ、と紗夜は驚きと喜びの入り混じった声を上げた。喜美江が知る限り、宇木那の語る紗夜のことは全て当たっている。
「……とまあ、ここまで色々わかっても、私には君たちの名前はわからない。君が『さやちゃん』と呼ばれているのはわかったけどね」
宇木那はふにゃりと眉を下げ、表情を和らげた。喜美江は慌てて名乗る。
「ごめんなさい。わたし、堀口喜美江って言います」
「私は穹岸、紗夜」
「うん。よろしく。堀口さんに、穹岸さん」
「あの、名前でいいです」
確認するかのように二人の苗字を呼ぶ宇木那へ、紗夜は告げた。彼女は、あまり自分の苗字を名乗りたがらない。
「穹岸の苗字が嫌いなのかな」
良い家柄じゃないか、と何気なく口に出す宇木那を前に、喜美江はうつむき拳を握った。宇木那が流す視線を感じるが、顔を上げることができない。
「……二人には、あまり良い家ではないのかな」
「きみちゃんも?」
喜美江の視界の端に、さらりと流れる黒髪が映る。紗夜が、喜美江の表情を伺おうとして首を傾げたのだろう。顔を上げて、何か言わなければ、と喜美江は思う。思うが、行動に移すことができない。
「喜美江さんにとっても、のようだね。……紗夜さんとの関係に何か言われたのかい?」
なんでもない、と言おうとして、諭すような宇木那の言葉に口をつぐんだ。言うべきではない、と自身では思いながらも、宇木那の言葉が耳に染みるにつれ、言ってしまったほうが良いのではないか、と思い始める。このまま、ずっとわだかまりを抱えたまま、親友と過ごすのか。
「……お金を、」
そう思ってしまった喜美江には、口をついて出る言葉を止めることができなかった。
「さよちゃんと友達でいてくれたら、あげるって」
「……一砂(いっさ)さん、やめてって言ったのに」
小さく、悲鳴のような声。泣きそうに歪んだその声は、硬直した思考に絡め取られた喜美江を動かした。うつむいた視界の中、喜美江の手は紗夜の手と重ねられている。
紗夜が呟いた名前は、彼女の付き人のものだ。喜美江はもう何度もあったことがあるが、目つきの冷たい怖い人、としか思えていない。紗夜自身は、良いところもあるのよ、と言ってはいるのだが。
「でも、君は受け取らなかったんだね」
「はい。きみちゃんとは、そういうんじゃないから」
ぱっと顔を上げ、喜美江はそう訴えた。目の前にいる男に認められれば、自分と紗夜との関係が認められる、とでも言うかのように。唐突に開けた視界、橙に染まる傾いた日差しの中、宇木那は目元に柔らかな笑みを浮かべている。彼を見た瞬間、喜美江は今まで胸の奥につかえていた罪悪感や、これでよかったのだろうかという後悔が、ゆるゆるとほどけていくのを感じた。
「安心するといい。彼女はあなたの本当の友人だよ、紗夜さん」
宇木那の言葉に背中を押されるように視線を移した喜美江は、目尻に涙を浮かべながらも微笑む紗夜を見た。罪悪感が抜けた胸の奥に、温かな感情が満ちる。それは胸の中いっぱいに溢れ、喜美江の頬を薔薇色に染めた。
「落ち着いたら、本題に入ろうか」
食べるかい? と宇木那ははにかみ合う二人へ、卓の上の菓子鉢を押し出した。中には表通りの菓子屋の最中が入っている。紗夜がいただきます、のひと言と共に手に取る。おいしいと評判で、喜美江も好きなものなので紗夜につられ手に取るが、しかし開かずそのまま手の中で弄んだ。
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