第2話 春-1

 夜闇を切り裂いて、雨が降り続いていた。


 春の雨は冬の気配を孕んで冷たい。霧雨に近い、小さな水滴ばかりの雨だが、その一粒ひと粒は氷のように肌を打つ。

 太い通りの商店は、未だ灯りを掲げ立ち並んでいる。そこから一歩入っただけで、路地はその闇を色濃くした。そちらこちらで揺れる携帯灯(カンテラ)が、雨滴の向こうでぼやけた橙の輪を広げる。

 拡げた傘の下から、玻璃は細い路地の先を見据えている。小走りのつま先が泥を蹴り上げ、濡れて重く色を変える袴を汚す。歩みのさなか、玻璃の片側だけの視界にしっとりと垂れ下がる金の髪が踊った。

 路地を抜けた先はまた別の路地に繋がっていた。建物と建物の間、暗く沈んだ街の背景に夜が淀んでいる。近くで、遠くで焚かれる携帯灯が、束の間夜を遠ざける。それらを灯すのは、今は雨除け代わりの外套で軍服を隠した、この街の守護者たちだ。

「雪千代」

「玻璃」

 少年は彼らに紛れるようにして立っていた。事実、厚手の二重回しを纏い、学帽を目深に被った彼は軍人のように見えた。黒い縁の眼鏡の向こうの瞳が、少年に似つかわしくない鋭さであるのも、それに一役買っているようだ。しかし、彼の体躯は少年のそれであり、軍人そのものというよりは、それのミニチュア版のようであった。

「風邪引くよ」

 そう言って傘を差し掛ける玻璃へ、雪千代は無言で己の外套を軽く持ち上げて見せた。それがあるから平気である、と言いたいのであろう。だが、細い雨はすでに厚手の外套を重く湿らせるほど、長く降り続いている。常から血色の薄い彼の頬も、透き通るのではないかというほど白くなっている。

 強情な雪千代へ、玻璃は口元で笑いかけた。

「いいから入りな」

 玻璃は、雪千代が少女趣味なフリルで飾られた自身の傘を嫌っていることを知ってはいた。が、気付かないふりで深く差し掛ける。

「雪千代、玻璃。来ていたか」

 橙の灯が二人を照らす。まず目に入ったのは、血と泥で汚れた軍服の膝。刀をはいた腰元から、護帝陸軍第二旅団中央守護隊の尉一位を示す軍服の胸元を辿り、ようやっと彼の人の顔にたどり着く。その頃には、玻璃の視線は自然と上向いていた。

端正な顔に、常には無い緊張感が浮かんでいる。

「実篤さん」

「我々の力が及ばず、このような事態になるとは」残念だ、と苦みばしった声音が雨の中に落ちる。

 実篤の背後。複数の軍人に照らしだされる闇の底に、彼女はいた。その少女は夜の中に四肢を投げ出し倒れ伏している。転げた片方の草履が、少女の傍らに置かれた 携帯灯の光からあと一歩の所に落ちている。赤い鼻緒の輪郭をなぞるように、雨滴が流れ落ちる。

 実篤は呼吸を整えるように、ふと息を吐いた。冷雨の中、吐息が白くけぶる。

「彼女は護帝女子高等学校の五年生。生家は第一城塞都市の方にあるそうだ。今使いを走らせている」

 実篤の手の中には小さな手帳があった。護帝高等学校の生徒に配られる身分証、学徒手帳だ。彼女の身元はそこからわかったのだろう。

 玻璃には彼女の名に覚えがあった。

「……よく夜歩きしてた子だね。何度か先生に警告したことがあった」

「駅前の喫茶店によく出入りしてたな」

「ではそちらからも話を聞こう」

 雪千代の言葉を受け、実篤は傍らを通りすぎようとした若い曹二位を呼び止めた。使いとしてすぐに駆けて行く後ろ姿を見送り、雪千代と玻璃へ向き直る。

「他に、もし何か思い当たることがあったら、なんでもいい。伝えてくれると助かる」

「わかった」

 頷き、雪千代は額に掛かる学帽のつばを押し上げる。そうしながら傍らへと投げかけられる視線を、玻璃は口元を緩め受けた。小さく頷く。

「星薙尉一」実篤の傍ら、黒い外套の男が実篤を呼ぶ。

「彼らが、その……」

 ああ、と実篤は声を上げ、雪千代と玻璃へ差し出すように彼の肩に触れた。

「すまない。円井は初めてだったな」

 二人の間を、円井と呼ばれた男の視線が往復する。

「彼らが護帝高等学校に駐屯する禍津者(まがつもの)だ。雪千代と、玻璃」

「こんばんは」と玻璃は軽く首を傾げた。雪千代は目礼だけを投げかける。

「円井(まどい)、和成(かずなり)尉三位です」

 その位階は、彼が護帝高等学校を卒業したばかりであることを示していた。なるほど、まだ甘さの残る面構えであるのも頷ける。玻璃は微笑みを崩さず、値踏みしていた。玻璃の視線の意味を知ってか、雪千代が学帽の影で口角を下げている。

「まだ子供ではないですか」

 円井の言葉。きょとり、と実篤が瞬く。その問いを、まるで想定していなかったようだ。己が過去、同じような言葉を口に出していた癖に。思わず玻璃は吹き出し、つかの間、雪千代は下げた口角を上向かせた。

「自分は彼らだけに学校の警備を任せるのは反対です。星薙尉一」

 円井の顔に浮かぶ戸惑いを見下ろし、実篤は顎に手を置いた。

「『殺人鬼』は我々の総力を持ってしても捕らえられない悪党です。学徒に被害が出た今、これ以上の被害を抑えるためにも我らの中から学校へ警備を出すのが妥当かと」

「軍の人間の姿は安心感も与えるだろうが、それだけ異質なものでもあるのだ。彼らには学びのためにも日常を送っていてもらいたい」

「街に人を置いても意味はなかったしな」ぼそり、と呟かれた雪千代の声は、どうやら雨と夜陰に紛れたらしい。

「彼らは『禍津者』だ。実力は私が保証する」

「しかし」言い淀み、歯噛みする円井の頬がつかの間こわばった。

「……我々とは違い、知識も経験も足りない」

「学校出たてのアンタなんかよりは、よっぽどあると思うけどね」

 雨粒に紛れ、しかし言葉は明瞭に放たれていた。円井が勢いよく玻璃へと向き直る。おっと、と形だけ声にしながら、玻璃は己の口元を抑えた。その影ではしてやったりと笑みを浮かべているが、正面の円井と実篤からは見えていないだろう。面倒事はよせ、と雄弁に語る雪千代の視線を頬に感じるが、気付かないふりを通す。

 数瞬、微かな雨の音だけが四人を包み込んだ。

「……禍津日(まがつひ)憑(つ)きめ」

 雪千代の学帽と、玻璃の髪を飾る青い薔薇を一瞥し、円井は吐き捨てた。湿り気を帯びた空気が、やにわに張り詰める。

 玻璃はそのはしばみの目を眇めた。

 実篤の表情に咎める色が差し、一喝のためにか短く息を飲む。ひと言だけでも言っておこうか、とでも思ったのか。雪千代の意識が玻璃から円井へと向けられた。

 瞬間。ぐ、と息を詰める呻きが路地に漏れた。雨を吸ってなお軽やかに着物の袖が舞う。鮮やかな蝶の群れの残像が、つかの間夜闇を彩った。

「禍津日憑きじゃなくて、禍津者。次わざと間違えたら」

 突き通すよ? 玻璃は突きつけた傘の石突で円井の喉を小突いた。

「……貴、様ァ」暗がりの中であってさえそれとわかるほど、円井の顔に血の色が浮かぶ。腰の軍刀に手が掛かる。

「円井」

「玻璃」

 実篤と雪千代の声が重なる。

 はぁい。と猫の鳴くような声音で玻璃は応えた。同時、正面にかまえていた傘を開く。柏手を打つような張りのある快音と共に、フリルに彩られた布の花が広がる。

「円井和成尉三位。今の発言は彼らへの侮辱にあたるぞ」

 実篤に正面から見下ろされ、さすがに頭に上っていた血も下りたようだ。円井は顔色を無くし、実篤に頭を下げた。

「すいません、でした」

「忙しない人だね」くすくすと忍び笑いを漏らす玻璃。

「おまえも。やり過ぎだ」雪千代は肘でその脇腹を小突いた。

 くすぐったい、と笑みを深くしながらも。

「ごめんね?」

 一応といった様子で、玻璃は円井へ首を傾げた。さらりと前髪が流れる。

「自分も、言い過ぎました」後半はもごもごと口の中で転がし、円井は戸惑いながらも謝罪を述べた。玻璃の顔をまともに見れないようで、視線が袴とブーツのあたりをさまよっている。

「おれたちは学校に戻る」

「ああ、行ってかまわない」

 道中気をつけるように、と言い残し、実篤は円井を伴い携帯灯の群れの中へ戻っていった。雨はそろそろ上がりそうだ。

 二人と話している間に、遺体は運ばれていったようだった。地面に、雨で洗い流しきれなかった血の跡だけが残されている。

「きみが怒らないから、ぼくが怒ったんだよ?」

 ぱちん、と傘を畳みながら、玻璃が呟いた。拗ねたようにも聞こえる声音。

「ああいう手合いは、いちいち相手してられないだろ」

 新しいのが入ってくる度に問題起こしてられない。吐息混じりに言うと、雪千代は脱いだ学帽を二、三度振った。厚い生地から飛んだ水滴が放物線を描く。

「こういう時真っ先に怒るのがきみだった癖に」

「そういう方が好みなのか?」

「ううん。別に」

 雪千代の湿気でうねり、もつれる髪に細い指が絡む。

「大人になったね」

 犬猫にそうするように、玻璃は雪千代の髪をかき混ぜた。くしゃくしゃになっていた髪が余計に絡まり合う。

 やめろ、と手の甲で避ける雪千代へ、玻璃は幼い満面の笑みを見せた。

 瞬間。雪千代は勢い良く振り返っていた。ふたりの立つ背後、細い道を抜けた先の、今は野次馬が群れを成す表通りの方へ。ひるがえった外套が重い羽ばたきと共に落ちる。

 毛を逆立て警戒する獣の気配。雪千代の纏う空気は、玻璃をも緊張させる。

「どうしたの?」

「……いや」

 気のせいだ。自身の言葉に自身で納得しかねる様子で、雪千代は呟いた。

 学帽を深くかぶり直す表情を横目に、玻璃は首を傾げた。

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