骸(むくろ)かぶりて恋する禍津(まがつ)

こばやしぺれこ

第1話 病室にて

 医師が臨終を告げるのも待たず、彼女の両親は病室を去っていった。

 曇天から祝福のように静かな雪が落ちる朝のことだった。年月を経た木材は、しんしんと冷えた空気を矩形に切り取り、二つの病床を囲う病室として存在している。後に残されたのは、空の寝台と医師の寄り添う寝台、一人の看護師と一人の男だった。

 医師は視線を彷徨わせる。逡巡の後、もはや少女が二度と目覚めることはないと男に告げた。残念です、と形式通りに呟き、足早に病室を去る。

 両親へ掛けられるはずの言葉を聞いた男は、ぼうとした表情のまま壁際に立ち尽くしている。

 看護師は手早く点滴を外し、少女の病院着を整える。その間、男がいっそ彼自身も死者であるかのような表情で立っているのを咎めることはなかった。看護師は、ただの使用人である男が、両親よりも献身的に少女へ仕えていたことを知っている。

 病に侵され、やつれ果ててなお美しい少女の顔に白い布が掛けられる。看護師は見舞い客用の小さな椅子を、少女の横たわる寝台の脇に置いた。未だ立ち尽くす男へ小さく一礼し、 静かに病室を出ていく。

 病室には、窓枠に積もる雪の音だけが満ちている。

「お嬢さま」

 男がぽつりと呟いた。看護師が無言で勧めた椅子にも座らず、寝台の足元に立っている。

 男の表情は抜け落ちていた。尖った印象のある顔立ちは、普段からあまり表情を変えないのであろうことを伺わせる。今そこに浮かぶのは、あり余るほどの虚ろだった。

 己の人生を、希望を、感情を、全てを奪われた男が、そこに居た。

「お嬢さま」

 雪の落ちる音よりも微かで、その一粒よりもなお透き通った声だった。男の言葉に応える者はない。

「起きてください」

 何もない床に蹴躓きながら、男は少女の眠る寝台に歩み寄る。その歩みは夢を見ているかのようにおぼつかないものだった。

「お嬢さま、朝ですよ」

 日頃から少女にそうしていたのだろうか。男が発したのは優しい声だった。おそらく、男の出す中で唯一の柔らかな音。

 応える声は無い。

「……起きて、ください」

 ごとん、という重い音が響いた。それは男の膝が、木製の床へ落ちた音だった。力の抜けた足が、男の身体を支えきれなくなったのだ。

 男は寝台に縋り付くことで、かろうじて倒れずに済んでいた。長い年月を掛け硬質化したのであろう男の指先が、清潔なシーツに食い込んでいる。その指は震え、白く血色を失っていた。

 男の視線は少女へ固定されていた。かつて少女だった、今は物言わぬ布の膨らみとなっている寝台の上へ。そうして見つめていれば、いずれ起き上がるとでも言うかのように。

 それが叶わぬことだと悟りきっているというのに。

 ゆっくりと雪の落ちる窓の外には、風一つ吹かない。微かに鳴るのは、男の乱れた呼吸の音だけだ。

 男はうつむく。

「お願いだ……誰でも良い」

 短くささくれだった爪が、シーツを掻く。小さな悲鳴。それは布の上を滑る指先が立てた音だ。指先は白い海を渡り、やがて男の手のひらへと消えていく。

「お嬢さまを、起こしてくれ」

 男の手が、握りしめられる。静寂が満ちる病室に、縄目が軋むのに似た音が落ちた。それは男の拳から放たれている。握られた拳が、男の絶望の深さに泣いている。

「なんだってする。何を失ったっていい。だから」

 だから。男は繰り返す。叶わぬ願いを。


 叶わぬはずだった願いを。


「それ、ほんとう?」

 男は目を見開いた。


 寝台に起き上がる少女の、黒檀の瞳が男を射抜いている。

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