第29話 別れ
人の出会いと別れを映し出すように、満開の桜が美しく舞い、それを照らし出すように、晴れやかな空とあたたかな風が、神代高校を包んでいた。
今日は、神代高校の卒業式である。三年生たちは、はれてこの学校を卒業し、新しい生活へと旅立つ。
正門前の広場では、制服の胸に華やかなコサージュをつけた卒業生たちが、笑い、涙しながら、友人たちとの最後の学校を惜しみ、写真を撮ったり、アルバムにメッセージを書きあったりしている。部活動で集まっていると思われる集団からは、旅立つ先輩たちとの別れを惜しむ後輩たちの声も聞こえる。
そんな、まさに卒業式といった様子の神代高校正門前広場の中央を、人を縫うようにして突っ走る少女がいた。その様子の珍妙さ故に、彼女の方を振りむく人々を気にもせず、ただただ彼女は、息を切らしながら突き進んだ。
艶やかなブラウンの髪をなびかせ、心地よい風に逆らいながら、一点だけを目指す。特別棟に続く外通路を走る際、学校を囲む美しい桜が目に入った。不意に、自身がこの学校に入学したときのことを、なんとなしに思い出す。
特別棟に繋がる外の敷地に飛び出すと、散る桜の花びらが春の日差しに照らされ、心地よい風が彼女の体を包んだ。
その穏やかで暖かな景色に一瞥もくれず、彼女は、ただ懸命に走り続けた。
特別棟に入り、誰も居ない静かな階段を何段か飛ばしながら、無心に駆ける。必死のダッシュで湧き出る汗を、その手で拭う。
そして、特別相談室の扉の前に到着すると、ひざに手をついて、大きく息を切らした。
「はあっ、はあっ」
しばらく体力を回復させ、膝から離した手を扉につけると、今度は大きく深呼吸した。
胸が、破裂しそうな勢いで音を鳴らす。
この感じ、なんだかあの時と似ている。全速力で学校をかけ走った彼女はそう思った。
――初めてこの部室を訪れたあの時も、ものすごく緊張していた。でも、あの時とは、同じ緊張でも、全然違う。
今日は、泣かない。絶対に、泣かない。
特別相談部の部室の前で立ち尽くす少女、姪浜唯子は、自分の胸に手を当てると、もう一度大きく深呼吸をして、そのまま扉を開いた。
「先輩!」
扉をあけると、特別相談部の創設者にして、部長である、周船寺佳一はいた。いつものように愛用のチェアーに腰かけてはおらず、部屋の真ん中に立ち尽くして、自分の家も同然だったこの部屋を、名残惜しむように見渡している。
「……やっぱり、ここですよね……」
まだ息を走らせながらも、予想通りすぎる展開に、唯子は思わず笑ってしまった。
そんな唯子を、穏やかな目で周船寺は見つめる。
「やあ。きたんだ」
「ふふっ……当然ですよ……。これでも一応、たった一人しかいない、あなたのかわいいかわいい後輩なんですよ」
「ふん。よっぽど暇だったんだね。せっかくの春休みなのに」
そっぽをむきながら発した照れ隠しの皮肉に、唯子はまた笑いながらこたえる。
「ふふ。ほんとは嬉しいくせに。どうせ私しか、最後にお話しする人もいないでしょ」
周船寺はまた、ふんと鼻をならすと、いつものチェアに腰かけ、ぐるっと回し、横顔を向けた。
相変わらずの態度に、唯子は安心したようなため息をつくと、腰の後ろに手を回した。
「先輩……卒業、おめでとうございます」
「……そりゃどうも」
あいかわらず、そっけない返事だ。でも、それが先輩らしい。
周船寺はまた椅子を回し、今度は大きく桜の木が映る窓の方を正面に、唯子に背中を向けた。
そしてしばらく沈黙が続くと
「……まあ。いろいろ世話になったね。君は……ポンコツなりにもよく頑張ったほうだと思うよ」
後ろからでも、耳たぶが赤くなっているのが見えた。
「あれ、珍しく褒めてくれるんですか? 先輩って実はツンデレ?」
唯子が茶化すと、周船寺は少し赤くなった顔を少しだけ唯子の方に向け、細めた目で睨みつけた。そしてコホンと照れ隠しのように咳をすると、そっと、椅子から立ち上がった。
「まったく、最後の最後まで無礼な奴だな」
周船寺は立ち上がると、後ろに手を組み、部屋の中をぐるりと見渡しながら、ゆっくりと部屋の中を徘徊した。
「この部屋とも別れの時がくるとはね。なかなか、名残惜しいものだな……」
三年間過ごした部屋との別れに、感慨の言葉を吐きながら周船寺はゆっくりと唯子の背後に回る。
「今だ!」
「甘い!」
唯子は後ろから胸を鷲掴みしようと迫りくる周船寺の気配を察すると、くるりと回り、寸のところでその両手をがっしりと掴んだ。
「ぐっ……」
唯子が両手をつかんだまま、しばらく睨み合いの均衡状態が続き、しばらくして周船寺が観念した表情を見せた。
「ちっ、ケチめ。こういう時は、黙って触られるもんだ」
「いやですよ。それに……触るなんて可愛いものじゃないでしょあなたは。最後の最後まで、ほんとに変わらないんですから」
唯子は、はあと、ため息をつきながらそっと両手を離す。
その瞬間、周船寺の顔つきが一変する。
「ばかめ小娘!」
「どっちが!」
懲りずにまた迫りくる魔の手をもう一度止めると、くるりと周船寺の背後に回りながら、今度は彼の肘をあらぬ方向にひねり、両手で押さえつけた。周船寺対策のために身に着けた、唯子の護身術の一つである。
「……私たち、何年の付き合いだと思ってるんですか?」
完全に腕をからめ取られた周船寺は、悲痛な叫びをあげる。
「ばかばかよせ! 軽いジョークだというのに!」
「よくいいますよ」
唯子が手を離すと、周船寺は恐ろしいものでも見るような顔つきで、後ろを振り返る。
「くそっ、化けものめ。昔はもっとおしとやかだったのに」
「悪いですね。おてんば娘で」
唯子は微かに笑いながら、いたずらっぽく舌を出す。
そんな唯子に、周船寺はわざとらしく肩をすくめた。
「……ところで、本当に君がこの部を引き継ぐのか」
「もちろんです。やっと邪魔な先輩が消えてくれて、部長になれるんですから」
からかうような口調で、唯子は胸を張る。
「ふうん、君がねえ。ま、創設者である僕の名に泥を塗るような醜態だけはさらさないでくれよ」
「心配ご無用です。先輩がいた時より、百倍いい部活にしてみせますよ。先輩と違って、素直でかわいい後輩も、いずれ見つけます」
自信満々の唯子に、周船寺は、珍しくにこりと笑った。
その不意をつく表情に、唯子は胸が締め付けられる。
――やばい……。
「じゃっ、僕はそろそろ行くよ」
周船寺は、愛用のチェアの側に立てかけていた鞄を手に取ると、扉の方に向かった。そして唯子とすれ違う間際、そっと彼女の肩に手を寄せる。
「ありがとう。がんばれよ唯子」
思わず、目頭が熱くなる。
突然押し寄せてくる衝動と、あふれそうになる涙を、唇を噛んでぐっとこらえながら、唯子は枯れた声を絞り出した。
「……はい」
にやりと笑った周船寺は、そっとその手を離すと、そのまま、扉の方へと歩いて行った。
背を向けたままの唯子は、強く拳を握りしめながら、ぐっと、何かをこらえる。
だめよ……唯子。ちゃんと、見送ってあげなきゃ。
私が……これからはもっとしっかりしなきゃいけないんだから。
だめ……絶対に泣いちゃだめ……。
ガチャリと、周船寺が扉の取っ手に手をかけたその時。
「先輩!」
突然の叫びに、思わず周船寺は振り返る。
その瞬間、周船寺の前に飛び込んできた唯子は、離さないという意思表示のように、ぎゅっと、周船寺を強く抱きしめると、涙でもみくちゃになった顔を周船寺の胸にうずめて、涙ながらに訴えた。
「先輩! 嫌です! 卒業なんて嫌です! なんで、なんで行っちゃうんですか! 無理ですよ私! 先輩がいない学校なんて……。胸くらい……いくらでも触らせてあげますから……」
嗚咽を漏らしながら、唯子は感情を吐露させた。瞳からあふれ出る涙に、どうしていいかわからなかった。
――ああ……やっぱり無理だった……。
周船寺はそっと、自分の胸にすがりつく唯子の顔を優しく抱き寄せると、そっと頭をなでた。
唯子は、体があったかくなるのを感じた。
優しく、心がゆっくりと落ち着いていくような、撫で心地だった。
まるで、お母さんみたいだ。
その時間がしばらく続くと、唯子は、周船寺の胸の中で、意を決める。そしてそっと顔を制服から離すと、涙ではれた目で、まっすぐ周船寺を見つめた。
「先輩、わたし、好きなんです。先輩のことが……ずっと、ずっと昔から……」
「そうか……僕もだ」
「ほんとに?」
赤くなった目を、わざとらしく細める。
「ああ。ほんとだ……だが君にはまだ、この学校でやらなければならないことが沢山あるはずだよ」
ぎゅっと胸を締め付けられる感覚をこらえながら、唯子は言葉を発する」
「……はい……私、絶対に、先輩と同じ大学に行きます」
「君で受かるかな?」
周船寺の茶化すような笑みに、唯子は膨れた顔を向ける。
「死ぬ気で勉強しますよ! ……だから、それまで、待っててください」
「ああ。わかった」
穏やかにそう周船寺が答えると、唯子は安心したように、少し涙の乾いた顔を、また周船寺の胸にうずめた。
その時間がまたしばらく続くと、周船寺を抱きしめる唯子の腕が小刻みに揺れ、再び顔を上げると、また、涙で溢れていた。
「絶対に無理だわ! あなたが一年間も待つなんて! 息を吸うように女をたぶらかしまくるに決まってるわ!」
周船寺が驚くほどの大声で叫ぶと、唯子は周船寺の腰から手を離し、その場で膝をついて泣き崩れてしまった。
周船寺は、どうしていいかというような困惑の表情を見せる。
「一年後なんか、絶対! 私のことなんか忘れてるわ!」
胸からあふれ出る感情に押しつぶされそうになった唯子の口からは、その後も、言葉にならない言葉が飛び出す。
「唯子」
唯子の叫びがこだまする中、その静かな声に顔を上げると、すぐ近くに、周船寺の顔があった。唇には、柔らかい感触。体の中を一本の線が突き通るような、激しく、そしてどこか優しい衝撃が、唯子の中に走った。
彼の体温が全て伝わってくるようだった。当然、唯子にとっては初めてだった。
短いようで、永遠にも感じたその時間が終わり、唇が離れる。
「……今までも、こうやって誤魔化して来たんですか?」
赤くはれた目を細めながら、責めるように見つめる。それに、周船寺は困惑したように苦笑いした。
「おいおい」
「ふふっ。冗談ですよ」
唯子も笑って、その場から立ち上がる。
「もう……大丈夫です。一応、先輩の事を信じます。裏切ったら、ただじゃすまないですからね。抜き打ちで、たまに大学にこっそり見に行きますから」
「これは困ったな」
わざとらしく周船寺が肩をすくめると、今度は二人して笑った。
「門まで送りますよ」
校内を歩く途中、自分が卒業するわけでもないのに、なぜだか、窓から見える景色、廊下、通り過ぎていく教室たちが、やけに懐かしく見えた。もうこの景色をこの人と一緒にここから見る事がないんだと思うと、また涙がこみ上げてきそうになったが、もう困らせるわけにはいかないと、こっそり自分の脇腹をつねって、唯子は涙をこらえた。
そして正門前に到着すると、風に運ばれる桜の花びらがとても綺麗だった。この神代高校を囲む桜の木々の全てが、私たちを歓迎している錯覚にとらわれそうになるほど、それは壮観だった。
卒業生たちはもうとっくに、学校を離れてしまったようで、ちょうどよく、ここは唯子と周船寺の貸し切りだった。
「ここまででいいよ」
ちょうど門を出たところで、周船寺はそう言った。
「ええ。お元気で」
「じゃ。グッバイ」
唯子が手を振ると、周船寺は半身になりながら左手を挙げ、そのまま前を向いて歩いて行った。
不思議と、もう涙は出てこなかった。何度も見て来たはずの彼の背中に、なぜだか新鮮さを覚え、なぜだろうと唯子が思っていると、急に強い風が吹き、目の前に舞うたくさんの桜の花びらに、唯子は思わず、目をつむった。
もう一度目を開くと、前には、桜の花びらが、静かに道を彩っているだけだった。
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