第26話

 唯子と周船寺が再び常盤宅を訪れ、今野医師のことを聞き出してから、約一週間が経過した。

 その間、調査はほとんど別行動だった。唯子は、いつまでこの別行動を続けるのか知らされていなかったので、今日の朝、急に帝都病院に行き、今野医師と会うと言われた時は驚いたものだった。

 ――先輩は、この一週間、なにを調べていたのだろう? 部室にも、まったく顔を出していなかった。ずっと外で、調査を行っていたのだろうか。

 そんな疑問を抱えたまま、夜の九時、唯子は周船寺と共に、約束通り帝都病院の受付に訪れた。

「すいません。今野忠行さんという医師の方にお会いしたいのですけれども」

 唯子が慇懃にそう尋ねると、受付の女性はどこかに電話をかけた後

「もうすぐいらっしゃいますので、こちらで少々お持ちください」と告げた。

 今野氏の登場をロビーで待つ間、周船寺は、一言も口を開かなかった。

 その周船寺の横顔から、ただならぬ覚悟を、唯子は感じ取っていた。いや、今日初めて彼と顔を合わせた時からだ。こんな表情は、もう一年の付き合いになるが、今までに一度も見たことがない。

 今日、何かが起こる。唯子はそう確信していた。

 そして数分待った後、人影が現れた。

「またせたね。久しぶり。あれ、今日はガールフレンドも一緒なんだね」

 冗談交じりにはにかみながら、ベンチに座っていた唯子と周船寺に声をかけたのは、唯子からすると久しぶりに見る、どこか高貴な雰囲気を纏った長身の紳士、今野忠行だった。この間の背広姿とはうってかわり、真っ白な白衣を身にまとっている。この医師の恰好も、彼によく似合っていた。唯子は、周船寺と同じ感想を抱く。

 唯子は立ち上がると、ぺこりと頭を下げて挨拶をする。

「初めまして。私、姪浜唯子と申します。本日は、よろしくお願いいたします」

「こちらこそ初めまして。なかなかお似合いじゃないか」

 ほほえみながら今野が茶化すと、唯子は少し顔を赤らめて恥ずかしそうにうつむく。

「い、いえ。私たちはそういうんじゃ」

「あはは。そうなのか。それは失礼」

 そんなやり取りの後、二人は今野に連れられ、病院内に併設されているカフェに入ると、唯子と周船寺の正面に今野という形で、一番奥の窓際の席に腰かけた。

 こうして正面に向き合うと、その端正な顔立ちがよく分かる。切れ長の目に、すっと高く通った鼻筋、サイドを刈り上げた爽やかな髪形も、見る者に好印象を与えるだろうと、唯子は思った。年は四十代前半くらいだろうが、かなり若々しく見える。

「今日はお忙しい中、またしてもこのような時間を設けていただきありがとうございます」

「いいえ。僕で力になれるなら、いつでも」

 すうっと、小さく周船寺が呼吸をするのが聞こえた。

「今回は、真一君の病気の件について、聞きに来ました」

 穏やかだった今野の眼に、険しさがこもる。

「……それは前もいったはずだよ。彼はインフルエンザだったんだ」

 今までとは違う、覇気のこもった低い今野の声に、思わず唯子は胸がどきりとした。

「……と、言って、彼を洗脳したんですか?」

 その声に負けぬ鋭い周船寺の語気と、彼の口から出た単語に、唯子は焦りと驚きを感じる。 

「……何を言っているのか。さっぱりわからないな」

「わかりませんかね。あなたは里美さんと結婚することを望んでいた。しかし、里美さんには連れ子がいる。真一君というね。あなたにとっては、彼は邪魔な存在だったのではないのですか? 真一君は、あなたたちの結婚に反対していた。そこであなたは、彼が病気にかかったのをいいことに、診察と称して、彼を洗脳していたんじゃないですか? あなたと、真一君のお母さんである里美さんとの結婚を認めさせるように。あれだけ経済的に苦しかった家庭だ。診察代免除となれば、喜んで飛びつくでしょうね。里美さんにとっても、あなたは都合のいい存在だった」

 今野の形相が、鬼のように一変した。

「おい、君、ふざけたことを言うのもいい加減にしろよ。君の言っていることは支離滅裂だし、何より彼女を馬鹿にすることは絶対に許さん」

 声を低く抑えながら、そう発する今野声には、怒気が満ち溢れていた。

 静かだったカフェの中に、殺伐とした異様な空気が流れる。今にも、獣と獣はぶつかろうとしているような、鬼気迫る雰囲気だ。

 唯子はこの刺々しい空気に、そして周船寺の発言内容に完全に気おされ、ただあたふたとするだけだった。


……先輩、いったい何を言っているの? まさか、まさか、先輩は、今野さんが常盤さんを殺したと思っているの? 結婚したい相手の連れ子だからという理由で? まさか。ありえない。

 でも、でも、先輩が真剣な表情で推理を口にした時、それが真実と反していたことは、私が知る中ではただの一度もない。だとすると、ほんとうに、この今野さんが……。

 そんなことはありないという一般観念と、周船寺への絶対的信頼の狭間に、唯子は揺れていた。

「君は……僕が彼を殺したとでもいいたいのか?」

 先ほどまでにはなかった、すさまじい怒気が、その声には込められていた。

「違うんですか? 筋は通っていると思いますが」

 その怒気にまるで怯む気配もなく、淡々と周船寺は答える。

「ふざけるな! そんなこと、僕がするはずないだろう!」

 今野は物凄い剣幕で立ち上がり、目の前のテーブルを叩いた。置かれているグラスが衝撃に揺れる音と、周囲の客の驚く声が入り混じる。

 この二人の間に、物々しい空気が流れていた。いまや、カフェ内の客だけでなく、病院の方からも、何事かと入り口を覗く人の姿が見られた。

「どうですかね? あなたは、里美さんに結婚を認めさせるよう、結婚に反対していた真一君を洗脳しようとしたが、失敗した。そこであなたは、どうやったかは知りませんが、うまく彼を誘導して、殺したんじゃないんですか。そうすれば、邪魔な存在もなくなり、結婚も上手く行く。新しく幸せな家庭を築けるというわけだ」

 今日の周船寺はおかしい。そのことに唯子は気付いた。

今日の周船寺が語る推理は、あまりにも非論理的で飛躍し過ぎている。こんな推理は、周船寺らしくない。それに何より、周船寺が犯人を追い詰めるとき、必ず、事件の顛末を詳細に語る。

「どうやったかは知らないが」なんて言葉は、絶対に発しないはずだ。

「ちょっと、先輩!」

 異変に気付いた唯子も思わず立ち上がり、暴走する周船寺を止めようと試みた。が、唯子に目も合わせようとしない周船寺は、左手だけで唯子の肩を押さえつけ、強引に引き離した。

「貴様……なんと言った」

「あなたが殺人犯だと言ったんです」

 今野がテーブルを突き飛ばして、周船寺の胸元に激しい勢いで掴みかかる。

 瞬間、床に落ちたグラス割れる音とが甲高い悲鳴がカフェを通り越して、病院館内まで響き渡った。

そして、今野の右腕が周船寺の顔を焦点にとらえ、宙に振りかざされていた。

「おおっと、僕まで殺す気ですか」

 今野の拳が、まさに周船寺に降りかかりそうになった瞬間、騒ぎを聞きつけ様子を見に来た他の男性医師たちが、寸のところで今野を取り押さえた。

「だって、おかしいでしょう。たかだかインフルエンザ程度でそんなに長く学校を休むわけがない。入院までしてる。病気が長引くとかなんとか嘘を言って、真一を説得しようとしたが、失敗したから、やけになったあんたが殺したんだ!」

 これはただ単に、今野という医者を、ただ侮辱しているにすぎない。

 暴走する周船寺を止めようと、唯子が周船寺の頬をはたこうとした瞬間、羽交い締めにされている今野が顔を真っ赤にして叫んだ。

「彼は、彼はれい病だったんだ!」

 その一言で、周囲の喧騒は急に静まった。今野の荒い息遣いだけが、静かに聞こえ、周囲の人間は呆然としている。

 そんな中、周船寺一人だけ、どこか悲哀に満ちた、悲しい顔をしていた。

 そして、苦しみに耐えるように拳を握りしめ、その手から血が流れているのを、唯子は見てしまった。



 

 あの騒動の後、唯子との帰り道、周船寺は終始、まるで感情を失ったような、冷たい顔つきで一言も発せずにいた。

 その近寄りがたい雰囲気に、唯子も声をかけるのはためらわれたが、さすがに心配であったため、にこやかに笑って気まずさをごまかしながら、そっと尋ねた。

「先輩……いったい、どうしたんですか? あんなの……先輩らしくないですよ」

 唯子が振り絞った声にも、周船寺は反応しない。ただ機械的に、歩みを進めるだけ。唯子も仕方なく、無言で後に続くと、数歩歩いたところで、周船寺は急に歩みを止めた。

 手で顔を抑え、小刻みに震わせている。そうしてそのまま、すぐ近くにあった家の塀に腰を預け、その場に無気力に座り込んだ。

「せ、先輩!? どうしたんですか!?」

 唯子は驚き、すぐにしゃがみこんで、周船寺の顔色を窺おうとしたが、手に隠されたその精悍な顔立ちは、唯子の目には映らない。

「僕は……最低だ……」

 無気力に何かを悔いるような、儚い声だった。こんな周船寺の声を聴くのは初めてで、唯子に、激しい動揺が走る。

「先輩、どうしてあんなことを?」

 周船寺は手を抑えたまま、その問いには答えなかった。二人とも路上にしゃがみこんだまま、長い時間が過ぎると、周船寺がぼそっと、唯子に告げた。

「今日はもう、帰ってくれ。明日また、部室に集合だ」

「でも……先輩は」

「いいから帰れ!」

 その激しい怒号に、唯子の背筋は飛び跳ねた。顔を抑え、自らの感情を悟られまいとする周船寺に、言葉にできない困惑を抱えたまま、唯子はそっと立ち上がる。

「わ、分かりました。もし、なにかあったら、すぐに電話してください。絶対ですよ」

 そう言って、唯子は周船寺を背にして、駅の方向へ歩いた。

 一人にしてしまって、本当に大丈夫だろうか。でも、今は、そっとしておいた方がいい気がする……。

 結局、唯子はどうしても気になって、角を曲がると、駅には向かわず、そのままぐるっと一周して、周船寺がへたり込んだ家の反対側の塀の陰からそっと顔をのぞかせると、周船寺はいまだにうなだれたままだった。

 その後、三十分ほど経過し、やっと周船寺が立ち上がり、足を進め出すまでずっと、唯子は、隠れて周船寺をそっと見守っていた。



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