第25話

 病院を出ると、夜風が周船寺を包んだ。

 

 あの医師は、この事件における重要な何かを知っている。この事件の鍵を握っている。それは間違いない。しかし、彼からそれを聞き出すのは、至難の業だ。周船寺は今日初めて今野と話し、それを痛感した。

 

 ――いくら母親のパート先の交際相手とはいえ、ただの風邪程度で、わざわざこんな大病院まで通うはずがない。真一は何か特別な病気を抱えていたはずなのだ。

 里美さんと今野が病気についてお茶を濁していることからも、その可能性は高い。

 だが……なぜそれを隠す。病名を明らかにしたところで、彼らに不都合なことなどあるのだろうか。

 しかも、その病気が、事件にかかわっているとまでは断言できない。何か特別な病気だったとして、それが原因で誰かに殺されるとは考えにくい。

 あるいは事件とは全く関係のない理由で、病気の実態を隠しているかもしれないのだ。もしそうだったとすれば、それを何とか探り当てたとして、何の意味もない。

 考えれば考えるほど、泥沼に入っていく。こんな事件は初めてだ。


 「ねえねえ。坊や」

 

 周船寺が頭を悩ませながら駅までの道を進んでいると、後ろから甲高い声が聞こえた。それが自分にかけられたものだと気づいた周船寺が振り向くと、四十代後半くらいの中年の小太りな女性が、興味津々な顔で周船寺の顔を見つめていた。

 その大きな顔に周船寺がぎょっとすると、その女性は大きな口を開いて、手でこまねきした。

「ちょっとちょっと、そんなに驚かないでよ。ねえねえ。さっき今野さんと何を話してたの。私? 帝都病院でパートしてんのよ」

 よくある噂好きのおばさんか。周船寺は気が重くなった。こういうパートのおばさんは職場での人間関係について無性に興味を持つ。そして大抵、相手の事情など無視して、自分の気が済むまで、他人のことを詮索して話し込んでしまう。


――人が真剣に考え込んでいる時にこんなのにつかまってしまうとは。関わると、長くなりそうだ。どうにか適当にあしらって早く撒こう。

「今野さんねえ。さいきん、あの人のうわさが多いのよ。なんでも、あの病院やめちゃうんじゃないかって」

「なんですって!?」

 周船寺の表情が一変した。

「それは、どういうことです?」

「いやね。なんかあの人、お父さんとうまくいってないみたいで、あの病院やめて、自分で開業するって噂があるのよ。実はあの人ね。ちょっと前までこの病院で働いていた女の人と交際してたんだけど、お父さんから大反対されて親子の縁を切るか切らないかのとこまでいっちゃったらしいのよ。それが原因じゃないかって」

 周船寺の目がぎらぎらと光る。

馬鹿が……なぜ思いつかなかった……。

今野と常盤里美から聞き出せないなら、こういう同じ職場のお喋りな職員から聞き出せばよかったのだ。

周船寺は自分の愚かさを省みると同時に、大きくガッツポーズをした。

「麗しきマダム! そのことについて、もっと詳しく教えてくれませんか。美味しい紅茶でもおごりますよ!」

「もう、口がうまいんだから! しかもあなた結構美少年じゃない! 仕方ないわね、私が言ったっていうのは内緒よ」

「ええ。もちろん! なぜ、今野さんのお父さんは結婚に反対を?」

「やっぱりバツイチの子持ちってのが大きいんじゃない。なにせ院長の息子だからね~。そういう所はやっぱり世間体を気にするのよ。でもね、それだけじゃないらしいのよ。私の予想ではね、あの里美さんの息子さんに何か問題があったみたいね」

 周船寺の目にさらに深い光が宿る。

先ほどまで鬱陶しく思っていたこのおばさ……いや、マダムが、今や女神にすら見える。

「と、というと?」

「なんかね。里美さんの息子さんは、専用の個室で診察を行っていたみたいなの。今野さん一人で。看護師すらいれてなかったのよ。まるで周りに隠すみたいだったから、病院内でもちょっとした噂になってたのよ」

「ほうほう。真一君は、どんな病気だったんですか」

「それがわからないのよ。今野さん。真一君がどんな病気かも、周囲の人には教えてないし、だれにも情報を漏らさないように徹底していたから。でもね。実は私、今野さんの医務室であの人が院長と怒鳴りあってるのを立ち聞きしちゃったのよ。そこで偶然、その病気の名前みたいなのも聞いちゃったの」

 周船寺がマダムに詰め寄る。

「なんていう病気だったんですか!?」

「うーん。それがよくちゃんと聞き取れなかったのよね。ドア越しだったから。でも確か……ネイ……病だったかしら。院長がネイ病の奴なんか! って怒鳴ってるのが聞こえたのよね。私もここに長いこと務めてるけどねえ。そんな病気聞いたこともなくて、チンプンカンプンだったわ。やっぱり私の聞き間違いなのかしらねえ」

……ね……い病? なんだそれは。そんな病気があるのか?

……いや、だが、どことなく聞き覚えがある気がする……。

ね……い…………れ……い……!

 周船寺の顔が、徐々に青ざめていった。

 周囲の音が聞こえなくなり、視界がどんどん狭くなる。そしてついに、周船寺の目の前から光が消えた。

 真っ暗闇の中、今までの調査で得た情報、自らの目で見たもの全てが、走馬燈のように、頭の中に映し出される。


 周船寺の脳裏に、一本の閃光が走った。


 全ての思考が停まったかのように、周船寺の目は見開かれ、その頭には、縦横無尽に、混沌とした何かが駆け巡った。

 導き出されたのは、一つの仮説。それが真実だとするならば、それはとても信じがたいものだ。

 ――まさか、まさか……こんなことがありえるのか?

 いや、ありえない。だが、だが、もしこれが本当に真実だとすれば……この事件は……あまりにも、悲しすぎる。

 この仮説を真実と裏付けるには、あの今野から、真相を聞き出さねばならない。今野は相当手ごわい男だ。一筋縄ではいかないだろう。

 だが、やるしかない。全ての矜持とポリシーを投げ捨てでも、この謎は、絶対に俺が解かねばならない。

 

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