第24話
「非常識な母だと、お思いでしょうね」
小さな円卓に、唯子と周船寺の二人分のお茶をそっと置いた里美は、沈んだ顔で床に座った。
「い、いえ、そんなことは」
まずいものを見てしまったというような顔つきの唯子は、じんわりと額に汗をにじませながら、誤魔化すようにまだ熱いお茶をすすった。
「この花束も、あの男性からもらったものですね」
周船寺は、箪笥の上に置いてある常盤真一の写真の隣に添えられている、白い菊の花束を横目にそう言った。
これはこの前に唯子と周船寺が来た時にはなかったものだ。しかしこの花には、見覚えがある。
唯子ははっとなった。
そうだ。あの男性は、前に私たちがこの家に訪れた時の帰りにすれ違った、あの花束を抱えながら走っていた人だったのか。
「ええ。そうです」
「なるほど、僕たちはあれから、常盤君の死について調べているんですが、お話を伺えますか」
里美は驚いたような、そうでいてどこかばつの悪そうな表情を一瞬だけ見せ、答えた。
「はい。私に話せることなら」
周船寺は小さく息を吸い込むと、小さく、しかしはっきりとした声音で、里美に告げた。
「僕たちは、彼の死を事故ではなく、殺人だと考えています。学校内に凶器が発見されたことは、もうご存知ですね」
唯子は膝の上で、ぎゅっと拳を握りしめる。
――こんな、こんな報告をするはずじゃなかった。事故だと言う事を明らかにして、少しでも、急に真一さんを失った里美さんの悔しさを、紛らそうと思ったのに……。
里美は目を伏せたまま、一度喉を飲むと、静かに口を開く。
「はい……そう聞きました」
「こういうことをお母さんに聞くのは、非情に不躾なことだとは承知の上なのですが、真一君を恨んでいるような人物に、心当たりはありませんか」
周船寺と唯子の二人の視点とは外れたところを見つめながら里美は答える。
「いいえ。あの子はあまり人間関係の事を話しませんでしたから、私には、わかりません」
「そうですか」
ここで初めて周船寺は出されたお茶に手を出した。
「それともう一つお聞きしたいことがありまして、真一君は、三年生になった頃から、学校を休みがちになったと聞いています。それはいったい何故でしょう?」
里美の視線は、左右に揺れた。唯子はこの時の里美の視線の動きに、既視感を覚えた。
「それは……アルバイトで忙しかったからだと」
「いえ。彼は二か月ほど前に、アルバイトをやめているんです。それ以降も、欠席は続いていました」
里美の言葉を切ってまで答えた周船寺の指摘に、里美は狼狽し、ついに観念を決めたような表情で、言葉を漏らした・
「真一は二年生の末頃に、体調を崩したんです。そこから、学校を休むようになりました」
体調を崩していた。その言葉に唯子は反応した。
この人はなぜ、それをすぐに言わなかったのだろう?
「その際は、病院に行かれましたか?」
ここで唯子が割って入った。その唯子の質問に、里美はドキッとした表情を見せる。
「は、はい」
「それはどこの病院ですか?」
まるで尋問するかのような唯子のきき方に、里美と、そして周船寺も目を見開いている。
「帝都大付属病院というところです」
都内でも有数の大病院の名だ。その名に少し、唯子は意外性を感じた。ここよりもっと近い病院などいくらでもあるはずだ。
「その時、真一君を担当したのが、先ほどの男性ですね」
まるで刃物のような鋭さで、周船寺は聞いた。その目には、獲物を逃がさないような眼光がこもっている。
周船寺の質問内容に、唯子は驚いた。どこからその発想がきたのだろう。ちらりと里美の方を見ると、彼女はもっと驚いた様子だった。
「そ、そうです」
唯子は驚いた。なぜ、先輩はそれが分かったのだろう。
「あの男性とはどういう関係なんですか?」
わざわざここまで来た甲斐はあった。常盤家のアパートの階段を降りる時、期待以上の収穫を得た周船寺は心の中で大きく拳を握った。
里美さんを乗せていた医者は、帝都病院の今野忠行という医者で、帝都病院の院長である今野剛三の実の息子だという。
さらに衝撃の事実だったのは、彼と里美さんは交際をしていたということだ。今野は四十代だが独身で、里美さんも子持ちとはいえ、夫に先立たれた身である。交際したとして、非難されるいわれもない。
里美さんは元々、その帝都病院の受付で三年ほど前からパートとして働いていたらしく、そこで彼と出会い、アプローチを受けて。交際を始めたという。
そして一年ほど前から、今野に結婚を申し込まれ続けていたが、それを今の今まで返事を保留にしてきたという。
わざわざ遠い帝都病院に、二年生の後半に体調を崩した真一を預けたのは、この今野という医師がいたかららしい。今野は、医者としての腕も評判高いようだ。
本来なら帝都病院のような大病院に通えるような財政状況でもないようだが、コネクションの力で一般の病院くらいの値で診察を受ける事ができたらしい。ここからも、あの今野という男性が里美に対してかなり強い好意を持っていることがうかがえる。
里美さんはもう帝都病院でのパートをやめている。この理由ももちろん里美さんに聞いたが、お茶を濁されてしまった。
病院内で今野との交際が発覚し、気まずくなったのだろうか。他の看護師やパートから嫉妬の目にさらされたのかもしれない。
それとも、もっと他の理由が……?
さらに周船寺はもう一つ、疑問に思った。
里美さんはなぜ、今野の求婚を受け入れなかったのだろう。常盤家の暮らしぶりを見るに、相当経済的に圧迫されていることは明白だ。その状況に置いて、帝都病院の医師、しかも、病院の跡取りである男との結婚となれば、相当な魅力だ。暮らしぶりもいっそう豊かになるだろう。
勿論、金のためだけに結婚することに抵抗があるという線も考えられたが、二年以上交際を続けていることを見ると、今野という男の人間性に欠点があったとも到底考えられない。そこはまあ、実際に今野に会ってみなければ分からないことだが。
だとすると、やはり息子の真一に、里美さんが気を遣ったのだろうか。母親が再婚するとなって、心から喜ぶ息子はそうはいないはず。むしろ積極的に反対するケースも多い。だが、常盤家の経済的状況を考えるに、あの真一が今野氏との結婚を反対するとはかんがえにくいが……。それに、体調を崩して、アルバイトまで辞めている。その時の担当医があの今野という男。
あの男なら、何かを知っているはず。
これは、探ってみる価値がありそうだ。
駅を向かう途中、唯子は周船寺に聞いた。
「先輩、どうしてあの人が常盤さんを担当した医者だと分かったんですか?」
「帝都病院と聞いた時、不思議に思わなかったか?」
「え、は、はい」
「わざわざここからそんな遠い病院に通うのもおかしいし、常盤家の経済事情も鑑みるとそんな大病院に通うのは不自然だ。いくらパートで働いていたとはいえ、割引がきくわけもない。これはたぶん、病院内に彼女をよくしている人物がいると思った」
「それが、あの男の人……」
たったそれだけで、今野さんという医者のことまで聞き出すなんて。唯子は思わず感嘆した。
「そうだ。院長の実の息子にして、次期院長を確約されている男、里美さんはそのコネで一般の病院と同等の値段にしてもらっていたと言っていたが、本当のところは、診察代もあの男が出していたと思うよ。あれは相当ほれ込んでるね。まあ美人だから無理もないが」
それは唯子も同感だった。
――でも、いくら好きだからって、真一さんが死んだ直後に、会いに行かなくても……。
唯子は、どこか複雑な心境になった。
「里美さんも、病気のことは言いたくなさそうだったね」
唯子は我に返った。
そうだ。欠席のことを聞いたとき、彼女はどこか答えるのを避けている様子だった。その時の反応が、今日の学校の教師たちとどこか似ていたことを、唯子は思い出した。
「そうなんです。学校の先生たちも、欠席が続いていた話を、あまりしたくなさそうでした」
「そうか」
周船寺は顎に手を当て、しばらく考え込むように唸った。
「いいか、唯子。こういう調査をしている時、人はよく嘘をつくことがある。犯人でなくてもだ。その嘘は常に僕たちを混乱させる。しかしね、これはチャンスでもある。嘘をつくということは、そこに必ず何か大事なことが隠されているということなんだ。僕たちは、そこを突くしかない」
「はい」
はっきりとした声で、唯子は答えた。
そのまま二人は一言も交わさず駅へ向かったが、周船寺はうつむき、考え込んだまま歩いていたため、どこか危なっかしくて、時折唯子は周船寺の腕を引っ張って、道を進んでいった。
「やあ。こんにちは」
「突然お尋ねしてすいません」
周船寺は、例の医師、今野に会うため、帝都病院の今野の医務室を訪れた。帝都病院は世田谷区の中枢部、区内で最も乗降者数が多い駅から徒歩五分という好立地にあった。
大病院の医師ということもあって、なかなか時間が取れず、仕事の終わったこの九時という時間に、やっと面会までこぎつけることができた。
実は、先日常盤里美を訪ねた時、彼の連絡先を聞いていたのだ。
部屋に入ると、さすが院長の息子というだけあって、豪華な一室が彼専用の部屋としてあてがわれていた。我が特別相談部の部室より遥かに広い。しかし、部屋を見渡すと、部屋の豪壮さの割には、どうにも備品の数が少ないなと、周船寺は怪訝に思う。
今野は、前にアパートで偶然見た時とは違い、今は白衣を身にまとっているが、その姿も様になっている。180を超える長身に、きれいに整えられた黒い短髪、凛とした顔と佇まいは、ファッション雑誌の表紙を飾っても違和感はないだろう。
それに、細かな所作や立ち振る舞いから、彼の聡明さが満ち溢れていた。
周船寺は、今回の事件には、真一の病状が関係していると踏んでいた。病気のことを隠していた常盤里美、そして唯子が言うには、神代の教師たちも、話すのを避けていたと感じたという。
なぜ彼女たちが真一の病気について隠すのか、真一の病気がどう今回の事件につながるのかは今は見当もつかない。しかし、それを隠しているということは、そこに事件を解く鍵があるはずなのだ。それを探るためには、この今野から話を聞くのは避けて通れぬ道だろう。
すなわち、この今野という医師が事件解決にとって敵なのか味方なのかが肝になる。もし敵であるならば、そうとう手強い相手であろうことを、周船寺は初めて今野をみた時から察知していた。
「里美さんから、話は聞いているよ。真一君のことについて、聞きたいんだったね」
今野の眼に、鋭い光が宿る。
「どうして彼の病気について知りたいんだい?」
そうすんなりと教えてくれそうにはない。やはり敵だ。周船寺は、心の中でため息をついた。
「彼は二年生の後期から学校を欠席がちだったんです。そのことはあなたも当然ご存じだとは思いますが、そんなに重い病気だったのかなと」
「なるほど」
今野ははにかみながら、相槌を打った。
「インフルエンザだよ。ちょっと特殊なね。かなり長引くものだったから、休みがちになるのは仕方なかった」
眉をピクリとも動かさず、真っ直ぐな瞳を周船寺に向けて答えた。
やはりこれは手ごわいな。周船寺は改めて気を引き締めた。
「しかし、彼は三つものアルバイトをやめているんですよ? いくら長引いたとはいえ、そんなことをするでしょうか」
「うーん。バイトをやめたのは、インフルエンザだけが原因じゃないと思うよ。彼はもう三年生だ。受験を視野に入れていたんじゃないかな」
――常盤家の経済状況を考慮すると、それだけでバイトをやめるとは思えない。そのことは今野にだってわかるはずだ。それに常盤の成績ならば、バイトをしたままでも受験は難なく乗り越えられる。この今野も、間違いなく何かを隠している。
そう考えた周船寺は、質問の方向を変えた。
「なるほど、次に、プライベートに関する質問で大変恐縮なのですが、真一くんのお母さんとは、どういう関係で?」
今野の口元が緩む。その微かな笑みに、周船寺は、もう答えをしっているくせにという言葉が含まれている気がした。
「あはは。面と向かっていうのも恥ずかしいんだけどね。お付き合いさせてもらってるよ」
白い歯を見せ、笑いながら今野は答えた。
「結婚を保留されたそうですが、それはなぜなんでしょう」
周船寺は間髪いれず、突っ込んだ質問を入れた。
「はは。そこまでばれちゃってるのか。恥ずかしいな。うーん。その質問は、僕が彼女にしたいくらいなんだけどね。まあ、僕がまだまだ男として未熟ってことかな」
「里美さんは、ここのパートもやめています。その原因に心当たりは?」
「うーん。やっぱり、僕のせいで気まずくなってしまったのかな」
「でも、結婚を断られただけで、まだ交際は続いているんですよね」
「一応ね。でも、病院内で噂をされたりとかは、やっぱりあるだろう。彼女には、申し訳ないことをしたと思っているよ」
――やはり、こう答えるか。
「なるほど。では、最後の質問なんですが、真一君の死について、どう思っていますか」
途端、今野の視線が鋭くなり、周船寺の瞳をとらえる。それが一番の目的だろうといわんばかりに、瞳の深層で、周船寺を威嚇した。
しかし周船寺も負けず、そこから目を逸らすことなく、眼光を向けた。
その後、今野はゆっくりとその瞳を鎮めると、悲しげな声でつぶやいた。
「……本当に、残念に思っているよ。母親思いのいい子だったからね。僕も、もっと彼といろんな話がしたかった。一刻も早く、事件の真相が晴れることを願っているよ。君は、そのために行動してるんだろ?」
その言葉に、嘘はないように思われた。
「はい」
「その心意気は立派だ。けど、学生の君にできることは限られている。黙ってプロの警察に任せるのも、手なんじゃないかな。君は真相解明のために真一君のプライベートを探っているらしいけど、それは真一君にとって、いいことではないと思うよ。中途半端な詮索は、里美さんと、死んだ真一君を傷つけるだけだよ」
今までにない鋭い声音に、周船寺の耳はピクリと動く。彼は暗に、余計なことをするなと告げているのだ。
「心配しなくても、半端には終わらせません。必ず、真相を突き止めます」
射止めるような目つきで今野を一瞥すると、周船寺は医務室を後にした。
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