第9話 唯子、大逆転!
「ん、んん?」
うつろな記憶の中、ベッドの上で周船寺は目を覚ました。自分の体の上には、掛布団がかけられている。そこから上半身だけ起こして辺りを見渡すと、自分が寝ている隣も同じベッドがあり、部屋の中には身長測定器やデスク、壁には健康関連のポスターが張られている。どうやらここは保健室のようだ。
「あ、目が覚めましたか?」
部屋の扉横のソファに腰かけていた唯子が周船寺に声をかけた。そこで初めて周船寺は彼女の存在に気づく。
「ん、ああ。君か。どうして僕はこんな所に? なんだか記憶がぼんやりとしていて」
虚ろな目をした周船寺が惚けた声で言うと、唯子は貧しい子を憐れむ聖母のような顔で
「ああ。可哀そうに……。実はですね、周船寺さん、あなたは帰るときに足を滑らせて階段から転げ落ちて、気を失ってしまったんです。こんな時間ですから保健室もあいてなかったんですけど、私が職員室からなんとか鍵を持ち出して、応急処置をした始末なんです……でもまさか記憶まで失っているとは……ああ、なんて不憫な」
唯子は涙に目を浮かべ、こらえるように両手で顔を抑えた。
「そうだったのか……すまない。世話をかけたね……」
周船寺が礼を述べると、唯子は目をつむったまま首を横に振る。
「いいえ。いいんです。人に優しくしなさいというのが、我が家の教えですから」
「……立派なご家庭なんだね」
「いいえ……当然のことです」
「それはそうと、ちょっと手を貸してくれないか? どうにもひとりで起き上がれそうにないんでね」
「ええ」
そう言って唯子は慈愛の心をもってして、仰向けになっている周船寺に手を貸そうとすると、その唯子の手首にすぐさま魔の手が走り、強い力でベットへ引き寄せられた。
「きゃあ!」
唯子は体まるごと空中に浮き、引っ張られるままに周船寺を覆うようにダイブする。
顔と顔とがかなり至近距離に近づく。唯子は一瞬、その距離の近さにドキリとしたが、両肩をぐっと掴まれ、周船寺の、悪魔のように豹変した顔に驚愕した。
「あ、あなた、私を騙したんですね!? 記憶をなくした振りをして!」
「どの口が言う!」
周船寺の力は思ったより強く、唯子は思うように上半身を動かせなかった。
まずい! 唯子は焦り、自由のきく足を曲げ、渾身の力で自分の下で仰向けに寝ている周船寺の下半身に蹴りを入れた。
「うがあああ」
彼の阿鼻叫喚が響くと同時に、蹴りを入れたひざに、何だか気味の悪い、慣れない感触があった。
唯子が怪訝に思っていると、周船寺は突然自らの下半身の一番大事な部分を抑えだし、苦しそうにもがいている。
……どうやら急所に当たってしまったようだ。腹部をねらったつもりなのだが、布団越しであるため、よく見えなかったのだ。
「あ、ご、ごめんなさい」
そそくさと唯子はベッドから飛び降り、すぐに安全な距離を取った。そして珍しい動物でも観察するかのように、苦痛に悶える目の前の男を見つめていた。
それに気付いた周船寺は、ベッドにうずめていた顔を上げると、血走しった目を唯子へと向けた。
「君ねえ……」
ごくりと、唯子は息を飲んだ。
しばらく、両者が無言で睨み合う時間が続いた、室内の時計の秒針の音がカチッと、明確にこの静かな保健室に時を刻む。
その何度目かも分からない秒針の音が、小さく、そして確かになった時だった。四つん這いになっていた周船寺はベッドの上から向こうの岸へ渡ろうとする猫のように前足を駆けだし、そのまま後ろ足の脚力を使って大きく飛び跳ね、唯子へ飛びつこうとした。
あまりにスピードが速かったため、相当な脚力を要したはずだ。周船寺はそのまま唯子の位置まで飛び移れると計算したのだろう。実際、とびかかった時のスピードからしても、本来だったら、唯子の元まで届いたはずだ。
しかし、周船寺の体は不自然な弧を描いて真っ逆さまに大きな音を立てて落ちる。
ドシンと、体全体が床にぶつかる音と、床がきしむ音が同時になった。またも周船寺は痛みによる雄叫びを上げ、今度は体の前部を抑えている。
そして、自分の足に結ばれている縄を見て、目を丸くする。その縄は、彼が寝ていたベッドの柱に結ばれていた。
無論、周船寺が寝ている隙に唯子が巻き付けたものである。
「な、なんと卑劣な……」
「ふふふ、甘いですね先輩。私はいざという時のために策を打っといたんですよ。卑劣ではなく、周到だと言って下さい」
歯を食いしばって悔しがる周船寺をしり目に、唯子は側にある自分のスクール鞄から、がさごそと一枚の紙とペンを取り出すと、それを床にはいつくばっている周船寺の目の前に突き付けた。
「なんだこの紙切れは?」
「誓約書です」
「誓約書?」
「ええ、ここにサインすれば、縄をほどいて、助けてあげます」
「ああ? そんなことしなくたってこんな縄くらい……」
そう言って周船寺は自分の足に結ばれている縄の結び目を見ると、茫然とした。自分の足と、ベッドに巻き付けられている縄の結び目には、小さな南京錠がかかっていたのだ。
これで、ほどいて脱出するという手は封じられた。残るは、縄を切ると言う手段だが、どうもこの縄は太く、手でちぎるのは到底無理そうだった。
「くそっ……どっからこんなものを……」
周船寺は舌打ちをして、唯子の手から紙を乱暴に奪い取った。そしてその内容を目にするや驚愕し、開いた口がふさがらないようだった。
『 誓約書 私、周船寺佳一は、この度の姪浜唯子との勝負で得た権利を放棄し、上記の者が、特別相談部に入部することを許可する』
と、そこには書かれていた。
「ふ、ふざけるな! なんだこれは! しかも君を入部させるだと?」
「ええ。確かに私は、勝負には負けました。あなたの実力も、不本意ではありますが、認めます……しかし、その……あなたが私にしようとすることは……ど、道徳倫理に反するものです! ですから代わりに、私が特別相談部に入部して、あなたの活動を補助することによって、今回負けた分の債務を果たします」
周船寺はベッドを椅子にして足を組んで座り、呆れた顔をしていた。
「……君が僕を補助するだって? 笑わせるな! 全くもって的外れな推理しかできなかったくせして」
「こ、今回は調子が悪かっただけです! 入部を許可してくれた暁には、必ず、あなたのお役に立ってみせます! それにあなただって、一人でやっていくのは大変だったはずです。そろそろ優秀な相棒が欲しかったところじゃないんですか?」
必死に説得を試みるも、周船寺は首を縦に振る気配はない。
「そんなもんはいらん。いいから縄をほどけ」
「……どうしても、こっちの提案に乗る気はないんですね?」
「当たり前だ」
そうですか。と唯子は小さくつぶやくと、どこか悲し気な顔を浮かべて、鞄から今度はガムテープを取り出した。
その様子を周船寺は訝しむように目を丸めて見つめる。彼の推理力をもってしても、これが何を意味するか分からないようだ。
「そうなると、ずっとこの保健室に閉じ込められたままですよ。しかも今日は金曜日、二日間ここでなにも食べれずに過ごすことになります」
「ふん。やはりバカだな君は。夜になれば警備員が廊下を巡回する。その時呼び止めればいい。そうなれば、今度は君の立場が悪くなるぞ。最悪退学かもな。今縄をほどいて、大人しく言う通りに従えば、とりあえず僕を殴って監禁したことは内密にしてやろう」
くっくっと周船寺は、半ば勝ち誇ったような笑みを浮かべたが、途端、何かに気が付いたように、それが止んだ。段々と周船寺の額から汗が流れ、顔がみるみる青ざめていった。
「ま、まさか君……そのガムテープは……」
小刻みに震える周船寺の指は唯、子が鞄から取り出したガムテープを持つ手を指した。
「ええ。あなたを気絶させて、口をふさぐんです」
あまりに、あまりに冷淡な、氷よりも冷たい声音で唯子は言った。それにより、周船寺の表情にはさらに焦りの色が深まる。
「ど、どうやって気を失わせると言うんだ。力勝負で君に勝ち目があるとは思えないが」
「これを使うんです」
唯子はゆっくりと保健室の端のほうへ行き、デスクの下に隠していた、これまたどこから持ってきたのか見当もつかぬ、金属バットをほいと取り出した。
「な……」
もう、彼の声は声にもなっていなかった。ただただ、目の前の悪魔とも死神とも区別のつかぬ者を、恐ろし気に傍観していた。
「き、君……お、落ち着くんだ」
「落ち着いています」
「い、いいから、その物騒なものを置くんだ」
「いやです。あなたがその紙にサインするまで、一歩も引きません」
その落ち着いてはいるが、力強さがこもった声に、周船寺は彼女の本気を感じ取ったようだ。
そして葛藤に顔を歪めながら、しばらく考え込んだのち、ついに白旗を上げる。
周船寺は渋々誓約書にサインをし、これで晴れて唯子は今日から特別相談部の一員となったのだった。
唯子、大逆転勝利!
続く
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