透明な海

鳥見風夫

第1話

 この透き通った海が、僕たちのこれまでも、これからも。全てを見ているのだろうか。

 いつもの防波堤の上、見慣れた穏やかな海を眺めながら僕は、そんな益体もないことを、ただぼんやりと考えていた。

 そんな僕の頭上にふと影が差し、優しい声がかけられる。

 「どうしたの、春斗?」

 「何でもないよ、葵姉ちゃん」

 僕の家の近所に住む、一つ年上の幼馴染である葵だ。何故か分からないが、小さいころから「葵姉ちゃん」と呼ばされている。その姉貴分の声に、僕は振り向くことすらせずに返事をした。

 「へぇ、そっか。じゃあ、そんな素直じゃない弟分には……こうだっ!」

 「うわっ⁉」

 ドン、と背に走った衝撃。不意打ちで来たそれに耐えきれず、僕の身体は青い海の中へと落下した。非難がましい視線を海中から葵姉ちゃんに向けると、当の本人は高校三年生にしては幼い、頭上で燦々と輝いている太陽のような笑みを浮かべ、こちらを見つめている。

 「それで、何考えてたの?」

 「………葵姉ちゃんが、遠くに行っちゃうんだなってことだよ」

 渋々、僕は白状する。あの笑顔にはいつも敵わない。高鳴る鼓動と、赤く染まる頬を誤魔化すように、僕は海の中まで顔を沈めた。

 「可愛いなぁ、私の弟分は。そんなに離れたくないなら、来年、私と同じ大学を目指せばいいじゃん」

 「それは、そうだけど……」

 葵姉ちゃんが今年から通う大学は、この島から遠く離れた本土にある。僕が目指そうと思えば普通に通えるくらいの大学ではあるが、それでも、その間に空く一年という期間は、どうしようもなく長い。

 「そんな悲しそうな顔しなくても、たまには遊びに来るよ」

 「そういうことじゃないんだよ」

 プイ、と顔を背ける僕に、葵姉ちゃんは苦笑いを向ける。

 「私だって、春斗と離れるのは辛いよ」

 葵姉ちゃんはそう言うが、多分、僕と葵姉ちゃんがお互いに向ける気持ちのベクトルは、違う。葵姉ちゃんにとっての僕は、近所に住むただの弟分。だけど、僕にとっての葵姉ちゃんは──

 「ほら、早く上がって! まだ寒いんだから、風邪ひくよ」

 「葵姉ちゃんが突き落としたくせに」

 「はいはい、ごめんね」

 僕は葵姉ちゃんが差し出した手のひらを取って、引っ張る。すると、葵姉ちゃんは一瞬踏ん張ったものの、僕の重さに耐えきれず、途中まで引っ張り上げた僕もろとも、海の中へ引きずり込まれた。

 「キャッ⁉……げほっ、ゴホッゴホッ」

 海水が気道に入ったのか、葵姉ちゃんは激しくむせた。そして、葵姉ちゃんが一通りむせた後、僕たちはお互い、何が楽しいのか分からないが、とにかく笑った。海の中、二人きり、子供の時みたいに、涙が出るくらいひとしきり笑った。

 「春斗もおっきくなったね。昔は私よりも小さかったのに」

 「そうだね、いつの間にか葵姉ちゃんの背も超えたし」

 「春斗は泣き虫だったから、陽が暮れるまで泣いて、私におんぶされて帰ったよね」

 「そうだね、いつの間にか泣かなくなったけど」

 「それはどうだろうなぁ? 今でもたまに泣いてない?」

 否定しようとして、改めて葵姉ちゃんの顔を見て、僕は驚いた。

 「私が向こうに言っても泣いたりしない? もう私はおんぶできないよ?」

 葵姉ちゃんの顔は海水やら涙やら鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。

 「大丈夫だよ。そう言う葵姉ちゃんだって、僕と離れて泣いたりしない?」

 「私は、春斗の、グスッ、お姉ちゃんだよ? 大丈夫に、グスッ、決まってるでしょ!」

 「僕と葵姉ちゃんの血は繋がってないし、そんな顔で言われても説得力ゼロだし」

 「大丈夫なんだからッ!」

 葵姉ちゃんは腕で乱暴に顔の涙を落とし、僕をしっかりと見据える。葵姉ちゃんの両目は赤くなっている。

 「今のは、海水が目に入っただけ! 姉は弟の前で弱いところを見せたりなんか、しないんだから!」

 「はいはい、そうですね」

 小さいころから言ってる、葵姉ちゃんが強がる時のセリフだ。僕はそれを聞いて、適当に同意する。こうすれば葵姉ちゃんは、いつも一人で立ち直ってしまう。僕が何か手助けしようとしても、全部、一人で。

 しかし、今日だけはちょっと違かった。葵姉ちゃんはゆっくりと、僕のすぐ近くにまで泳いできて、コンと僕の肩にその額を乗せた。

 「だけど、本当の姉弟じゃないのなら、今だけ、今だけはちょっと、甘えさせて」

 「はいはい、そうですね」

 さっきと同じセリフを、しかし幾分か優しく、葵姉ちゃんにかける。海水を吸ったシャツ越しに、ゆっくりと葵姉ちゃんの体温が染み込んでくる。

 そのまま十分ほど、僕と葵姉ちゃんは海の上をプカプカと浮いていた




 それから数日後、葵姉ちゃんが本土へと向かう日となった。

 海での一件以来、僕と葵姉ちゃんは一言も言葉を交わしていない。

 「……春斗」

 「なに、葵姉ちゃん」

 今までにないほどか細い声で、僕の背中越しに葵姉ちゃんが話しかけてきた。

 「お別れ、だね」

 「そんなことないだろ。葵姉ちゃんだって、たまには戻って来るんだし。僕だって行こうと思えばそっちに行ける」

 「でも、さ……」

 そこから続く言葉は無かった。しかし、僕にはなんて言おうとしたのか分かった。

 「葵姉ちゃんがこの島から離れれば、毎日のように話しかけてくる、うるさい声はなくなる。防波堤から突き落とされることもなくなる。二つに分けるアイスをどっちも取られることだって無くなる」

 僕はそこで言葉に詰まり、葵姉ちゃんの方を振り向いた。きっと僕の顔は既に、見るにも堪えない惨状になっているだろう。

 「だけど、葵姉ちゃんはこの島からいなくなる」

 その顔を見て、葵姉ちゃんはしばらくポカンとした表情で固まり、少し経つと思いっきり吹き出した。

 「やっぱり、私がいないとダメなんだね」

 「そんなことは、ない」

 僕は葵姉ちゃんに優しく抱きしめられた。

 「ほら、思いっきり泣きな。大丈夫、大丈夫」

 僕はそれから、静かに泣いていた。

時間は数分だろうか、それとも数十分だろうか。正確には覚えていない。だけど、その間、葵姉ちゃんはずっと優しく、僕を抱き締めていてくれた。

 「これで、どっちも泣いた。恥ずかしいことは何もない!」

 それは、僕に掛けた言葉だろうか、自分自身に言ったことだろうか。葵姉ちゃんはいつも通り、少し幼い笑みを浮かべて言った。その眼が微かに充血していることは、きっと僕の気のせいではないだろう。

 「じゃあ、私……そろそろ行くね」

 「待って!」

 立ち去ろうとする葵姉ちゃんの背中に、僕は思わず叫んで呼び止めた。葵姉ちゃんがクルリとこちらを向く。

 「どうしたの、春斗?」

 「葵姉ちゃんに、一つだけ、伝えたいことがあるんだ」

 僕の心臓は、もう破裂しそうなほどに波打っている。じっとりと、嫌な汗が浮かび、口の中がカラカラと乾燥する。それでも葵姉ちゃんは、じっと僕の言葉を待っていてくれた。

 「葵姉ちゃん……好きだ」

 言った。これまで一度も言ったことのない、その本心を。それに対して、葵姉ちゃんはどこか照れくさそうな微笑を浮かべる。

 「私も」

 「葵姉ちゃんが思ってる意味と、僕が考えてる意味は」

 「一緒だよ」

 僕の言葉を遮り、葵姉ちゃんは力強く言い放った。

 「あんな露骨に態度で示されたら、嫌でも気付くよ」

 葵姉ちゃんは笑っている。その頬は熟れたリンゴのように赤い。

 「そんなに、バレバレだった?」

 「うん、少なくとも、私から見ればね。どれくらい春斗のお姉ちゃんしてきたと思ってるの」

 気付かれていた、という事実に、今すぐにでも海の底に潜りたいほど恥ずかしくなる。

 だけど、ここで逃げちゃだめだと、自分を叱咤し、葵姉ちゃんの目を、しっかりと見る。

 「ずっと、ずっと、大好きだった。葵姉ちゃんのこと。本当なら、高校なんて放り出してでも、一緒に行きたい。だけど、一年間。一年間だけ、待ってて」

 その言葉に、葵姉ちゃんは軽く肩を竦め、苦笑した。

 「まぁ、何度か帰ってくるだろうけど……あっちで待ってるよ」

 「ありがとう、葵姉ちゃん」

 僕は葵姉ちゃんに抱きしめられた。僕もギュッと抱き締め返す。先ほどのように、優しくではなく、力強く、お互いの存在を確かめるように。

 「お礼なんていらない。私だって春斗のこと、大好きなんだから」

 海が、静かにさざ波を立てる。

 きっとこの透き通った海は、これからもずっと、僕たちを見ているのだろう。

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