第4話 隠居魔王様、出立する

 この蔵書室には、実に様々な種類の書物が保管されている。

 一説によると、此処の蔵書は我が一族が地上に国を築く以前から先祖たちの手によって集められていたというが、正確なところは分からない。だが確かに此処には現代では手に入らないような古い書物も数多く存在していた。

 現代では使い手がいないために廃れてしまった古い魔法についてを記した魔法書。

 未曾有の大災害で滅亡してしまった大都市と、その下に栄えていた古代文明についてを記録した歴史書。

 『裏世界ヴォイド』と呼ばれる此処とは異なる次元にある鏡合わせの存在のような世界についてを記した世界書。その書によると、我が一族の祖先は、かつては『裏世界ヴォイド』で繁栄していた異次元の住人だったらしい。

 蔵書室というものは、本棚に囲まれた狭き空間ではあるが──此処で書を開けば、そこに記された知識が、記録が、言葉が、その狭き空間を広き世界へと変える。そうして、余を未知なる世界へと連れ出し歩ませてくれるのだ。

 余は、その感覚が好きだった。長くこの城に留まり続けてきたこの身は、いつも外の世界に対して興味を抱き、刺激のある経験を味わうことを夢見てばかりいた。王位を娘に譲り隠居の身となった今は、あの頃よりかは自由に外の世界を歩くことができるようにはなったが、それでも刺激を欲することをやめはしない。

 余は此処で老いるまで、書を片手に過ごすのだろう。誰からも必要とされなくなっても、此処で、ずっと……


「あの……先代様。御寛ぎ中のところ申し訳ありません。御報告したいことが……」


 扉が控え目にノックされ、なるべく音を立てないように気遣われながら開かれる。

 扉の向こうに立っていたのは、カラスのような漆黒の翼を生やした小柄な少年兵だった。

 彼は、主に国境付近の監視役として哨戒の任に当たっている巡回兵だ。人間と戦うための力には乏しいが、その分異変を察知する能力に優れており、何かを発見した際はその自慢の機動力を生かしてすぐさま報告に来てくれる。

 しかし、普通はその報告は魔王である娘に届けるものだ。もはやただの隠居である余のところに来る必要は全くないのだが……

「……報告ならば余ではなく王の元でするべきなのではないか?」

「は、はいっ、申し訳ありません! ですが……玉座の間に、魔王様がおられないのです……近衛兵たちも、何処にいるか知らないとの一点張りで……それで、やむを得ず……」

 ……玉座の間に娘がいない?

 その一言で、余はぴんと来た。

 娘は……おそらく、またあの場所にいるのだろう。

 余は溜め息をついて、読みかけの書をテーブルの上に置いた。

「……分かった。余が代わりに聞こう。話してみよ」

「はいっ! ありがとうございます!」

 少年兵は深く頭を下げると、その場に片膝をつき、口を開いた──


 国境の外には竜たちが住む山と、凶悪な猛獣たちの棲み処となっている広大な森がある。

 その森を、一人の人間が歩いていたという。

 服装からして、その人間は魔道士。向かっている方向からして、この国を目指しているのであろうということだった。

 人間がこの国を目指す理由はひとつ。魔王である娘を討つためだ。

 こちらには勇者が存在しているから、その人間は少なくとも勇者ではない。しかし単独で行動している辺り、相当の手馴れであろうことは察しがつく。

 国への侵入を許せば厄介なことになる。すぐにでも兵を差し向けて、その人間を排除しなければなるまい。

 しかし、余には兵を動かす権限はない。余はたまに近場の兵を呼びつけて些細な雑用を頼むことはあるが、人間との戦に関わることで命令を下すことはできないのだ。

 面倒でも、娘に人間の目撃情報を上げて魔王の名で兵を動かしてもらうより他にないのである。

 余は、目の前に続く暗くて長い石の階段をゆっくりと下っていく。

 この道を行った先──そこに、娘はいる。


「あぐぅぅぅぅぅ……」

 狭く薄暗いその空間に、亡者の呻きのような声が響いている。

 壁際に押し込まれるように並べられた物々しい鉄の道具たちが、揺れ動く燭台の光を浴びて黄昏色に染まっている。

 壁から垂れ下がった四本の鎖の間に付着した黒い汚れは、一体いつからのものなのだろうか。完全にこびり付いて乾いたそれは、もはやどんなに洗っても落ちそうにはない。

 辺りに漂っている鉄錆に似た臭いと、何とも言い難い刺激臭が目に沁みる。此処は基本的に空気の流れがない場所だから、ひとたび臭いが生じればそれは部屋全体に篭もってしまうのだ。

 此処は、拷問部屋。罪人や戦の折に捕らえた人間などを連れてきて、罪を自白させたり敵陣の情報を吐かせたりするための部屋である。

 基本的に殆ど使われることのない部屋ではあるが、ここ最近になって、此処に頻繁に訪れるようになった者がいた。

「……そちはなかなかにしぶといのぅ。妾の重力結界の中にいながらそこまで耐えた人間なぞ、今までに一人もおらぬぞ。大したものじゃ」

 部屋の中央で、娘が楽しげに笑っている。

 彼女の視線は、目の前にあるものに注がれていた。

 それは、鋼鉄製の置物だった。全体の形は簡素に馬を模したものに見えるが、その最大の特徴は背に当たる部分が鋭利に研がれた刃物になっている点だろう。

 これは、三角木馬というものらしい。元々は人間共が拷問用の道具として作ったもので、尖っている背の部分に人間を乗せて苦痛を与えるために使うものなのだそうだ。

 木製ではないのに何故木馬と呼ぶのかが今ひとつ理解できないが……まあそういうものなのだろうと余は思うことにしている。

「どれ、少し結界を強めてみるかの。耐えてみせるが良い」

 娘が無造作に翳した右手を手首だけ横に払うように動かす。

 三角木馬の真下に、灰色に鈍く光る魔法陣が生まれる。それが光を放ち、みし、と何かが軋んだ音がした。

「あぎっ……!」

 三角木馬の上には、勇者が跨っていた。背中を弓なりに反らして、歯を食いしばりながら全身を前後にゆらゆらと揺らしている。

 彼は相変わらずの全裸で、両手は後ろ手に魔力の枷で拘束されており、左右の足首にそれぞれ太い鉄の枷が填められている。枷には鎖が付いており、それは巨大な鉄球をぶら下げていた。あの鉄球がどの程度の重さなのかは分からないが、それに足を引っ張られているせいで勇者は足を上げることができないらしく、三角木馬の鋭利な背が股間に深々と突き刺さっている。臍の下辺りまで肉が裂けてしまっている、まさに股裂きの状態である。そのせいで三角木馬は真っ赤に染まっており、下には透明な液体と血が斑に混ざり合ったものが広がって大きな水溜まりを作り出していた。

 成程……これが今日の娘の遊びというわけか。勇者を三角木馬に乗せて重力結界を施して押し潰し、股どころか全身が真っ二つに裂けるところを観察しているのである。

 肉を無理矢理左右に引き裂かれる痛みは想像を絶するものだが、勇者はそれすら楽しんでいるらしく、嫌がるどころかむしろ嬉々とした様子で自ら体を三角木馬に押し付けているようだった。先程から全身を揺すっているのは、体に刃が食い込むように仕向けているからか。

 相変わらずの変態っぷりだ……余には、この勇者の嗜好は生涯理解できそうにない。

「ああ、あああ、じわじわと肉が裂けるこの感覚……じれったい、じれったいよ……魔王よ、私はお預けプレイは苦手なんだ……ふぅっ……もう一息にやってくれないか……一気に貫かれないと、満足できそうにない……!」

 全身を揺すりながら勇者が虚ろに呟く。じれったいと言いながらも痛みはしっかりと感じているようで、かなり呼吸が上がっている。

 ふむ、と娘は髪を掻き上げながら首をことりと傾けて、言った。

「そうじゃのう……もう一時間も同じものを見てきて、いい加減飽きたしの。今日はここまでにしておこうかの」

 ふっと短く息を吐き、右手をすっと頭上に掲げる。

 三角木馬の下にある魔法陣が強く輝き、そこだけが一瞬場が揺らめいたように目に映った。

 みちみちっ、と挽き肉を捏ねるような音を立てながら、勇者の体が目に見える速度で床へと引っ張られていく。

 三角木馬の背が、勇者の体を中央から縦に裂いていく。大量の血を撒き散らしながら、勇者は頭上を仰いで絶叫した。

「あがあああああっ! いだいいだいいだいっ、もっと、もっとぉぉぉぉ! 強くしてぇぇぇぇ!」

 引き裂かれずに原型が残っていたそれが、血の混ざった小便を漏らしている。

 さっきから臭っていた刺激臭の正体はこれか……快感を感じると失禁する癖でもあるのだろうか、あの男には。

 余と娘が見つめている前で、勇者は脳天まで綺麗に二つに分かれて床に落ちた。流石にこうなってしまうと喋ることはなくなってしまうが、半分だけになった顔がこれ以上にないくらいに幸福だと物語っているので、さぞかし天にも昇る心地だったのだろうということは何となく伝わってくる。

 まあ、放っておけば幾分もせずに復活する奴だ。これ以上あれを気に掛ける必要はない。

 静かになったところで、余は娘に近付いた。

「ルルーシュよ」

「……おったのか。父上」

 娘の表情が微妙に歪む。

 娘からしてみれば、楽しみを邪魔する輩が現れたといったところなのだろうが……生憎、余は臣下として主君に報告を持参した身だ。睨まれたからといって何もせずに帰るわけにはいかないのである。

「お前が玉座におらぬから、巡回兵が報告が上げられぬと困っておったぞ。今回は余が代わりに報告を受けておいたが、お前も魔王を名乗る身ならばもう少し政は重要なものであるという自覚を持たねばならんぞ」

「……妾にとってはウノと戯れることの方が政よりも重要なのじゃ。妾の父上ならば、それくらい理解してたもれ」

「魔王ならば全てが許されるというわけではない。それだからお前はいつまで経っても余から子供扱いされるのだ。少しはそれを恥と知るべきだ」

 余は溜め息をついた。

 余談だが、ウノというのは娘が勇者に付けた名で、我が一族のみに伝わる古き言葉で『一』という意味を持つ。人間が犬や猫にポチやミケと名を付けるように、魔族にもペットとして飼っている人間に名前を付ける習慣があるのである。

 もちろん勇者には本来の名があるのだろうが、勇者は娘から与えられた名を当たり前のように受け入れて名乗っているので、彼の本来の名については余も特に気にはしていない。わざわざそれを知ったところで無駄な知識がひとつ増えるだけだからだ。

「……では、魔王ルルーシュよ。余が巡回兵より伝えられたことを今より伝える。心して聞くのだ」

 余は、巡回兵からの報告の内容をこと細かに娘に説明した。

 全てを聞き終えた娘が、神妙な顔をして顎に手を当て、唸る。

「ふうむ……国に近付く人間、のぅ。単身此処まで来れるとは、なかなかに骨がありそうじゃの。勇者でないのがちと残念じゃが、それなりに楽しめそうじゃな」

 にぃ、と口の端を上げる。

 ……まさか、娘自ら赴くつもりか? たかが一人の人間のために?

 娘は余の前を通り過ぎ、部屋の出口のところまで行ったところでこちらに振り返ってきた。

「退屈凌ぎに、その人間に直接会ってみることにするでの、父上。城の留守は頼んだのじゃ」

「……魔王ともあろう者がそう安易に城を空けるものではない! お前は玉座の間にいなさい!」

「妾は退屈なのは御免じゃ。ちゃんとその人間とやらを処分してくる故、良いじゃろう? 外に出ても」

「ならん!」

 魔王が城を空けて良いのは、人間共の根城を本格的に攻め落とす時だけだ。それ以外の時は基本的に部下たちに命令を下して自らは玉座を守るものなのである。余が魔王だった頃は、少なくともそうしてきた。

 魔王が代替わりしたからといって、その慣わしまで安易に変えるわけにはいかないのである。

「兵に任せておけぬと申すのなら、余が代わりにその地へ赴く! 魔王たるお前が城の外に出るのは許さぬ!」

「……父上が? 返り討ちにされるのがオチというやつではないか?」

 馬鹿にしてもらっては困る。隠居してそれなりに年月が経っているとはいえ、余の力は現役時代から殆ど衰えてはいない。人間の一人くらい、滅することなど造作もない。

 証明してみせようではないか。余が、ただの耄碌した隠居ではないということを!

 余は小馬鹿にした様子でこちらを見ている娘を押し退けるようにして部屋を出た。

 さあ……首を洗って待っているが良い、娘の命を狙う愚かな人間よ。何が起きたのかすら理解せぬうちに、この世から消滅させてやろう!

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