第3話 隠居魔王様、屈する

「やめで、もうやめでぇぇぇぇぇ!」

 かつての魔王とて、老化には抗えない。読書に熱中すれば目が疲れもする。

 気分転換に運動がてら城の中庭を散歩していると、何処からか誰かの泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

 何となく興味を引かれて声の出所を探りつつ歩みを進めていくと、すぐにそれは見つかった。

 柔らかな芝生が生えた地面の上に、全裸にされた人間の女が四つん這いになっている。足を開かされ、手足を紫色に発光する輪っかのようなもので縛られて地面に固定されている状態だ。あの紫色の輪は魔力で作られた拘束具で、物理的な力では決して外すことのできない代物である。それのせいで身動きが取れないらしく、恥部を含めた全てが丸出しになっている有様だった。

 それを傍らで笑みを浮かべながら見下ろしているのは、我が愛娘。右手に、握り拳ほどの大きさの青味を帯びた透明な物体を持っている。

「何を申しておる。妾はまだそちにこれを三匹しか孕ませておらぬぞ? 女子おなごならば多少腹が膨れたところでどうということはあるまい。聞いたところによると、そちら人間は時に己よりも大きなオーガやオークの仔を産むこともあると申すではないか。それと比較すれば、ほれ、このようなバルーンジェリーなど粒のようなものではないか」

 バルーンジェリーとは、主に海域に生息するクラゲの一種である。普段は海中を漂っているだけの無害な生物だが、身の危険を感じるとその名の通り風船のように巨大に膨らんで外敵を威嚇し、追い払おうとする習性があるのだ。

 成程、それであの人間はあんな腹をしているのか……

 女の腹は、丸々と膨れ上がっていた。ぱんぱんになったその様子は、まるで蛙が喉を膨らませている姿を思い起こさせる。鋭いものでちょっと刺激を加えれば、そこから破れて弾けてしまいそうだ。

 おそらく、あれは娘の戯れなのだろう。何処からか女とバルーンジェリーを調達してきて、女の腹に無理矢理それを詰め込んで、腹が膨れていく様を観察しているのだ。

 全く……次から次へとよく新しい遊びを考え付くものだな、我が娘は。

「おねっ……お願いしまずっ……わだし、魔王様の下僕になりまず……何でも言うごと聞きまずがらぁ……もう、許して……」

「ほう、何でも妾の言うことを聞くとな。ならば……妾を目一杯楽しませるのじゃ。それがそちの存在意義じゃ」

「嫌ぁ……これ以上、入らない、お腹、壊れぢゃうがらぁ……やめでぇ……」

 尻側に立ち位置を移動させる娘に、女が涙と涎をだらだらと垂らしながら必死に訴える。

 その訴えも何処吹く風、娘は上機嫌に笑いながら、手にしたバルーンジェリーを女の股間へと押し当てた。

「ほれ、四匹目じゃ。何処まで腹が大きく育つかのう? 見せてたもれ」

「嫌だっ、入って、入っできちゃうぅぅ! やだぁぁぁぁぁぁっ!」

 絶叫して体を揺する女の体内に、腕力で無理矢理バルーンジェリーが押し込まれていく。小さな通り道をあの大きさのものが何の抵抗もなく通っていく様子は真に不思議なものだ。

 新たな異物を腹に孕んだ女は、目を見開き、大口を開けて喚き始めた。

「……あぁ、痛い、痛い痛いいだいいだいいだい! お腹裂けるっ、ごわれるっ、大きくならないでっ、増えないでぇぇぇ! あああああああ!」

 ぶつ、と何かが切れる音がした。

 女の腹が大きく震え、波打ち、臍の辺りが縦に大きく裂けて血にまみれた大きなゼリー状の物体が中から飛び出してきた。全部で四つ、そのひとつひとつが人間の頭ほどの大きさを持っている。

 ほう、ここまで大きく膨らむのか、バルーンジェリーとは。初めて見たが、見事なものだな。

 中身をすっかり吐き出して萎んだ肉の袋が、はらわたと共に女の体内から零れ落ちる。女の方も完全に意識を失ってしまったらしく、己の腹の中身を下敷きにしてその場に突っ伏すように崩れ落ち、動かなくなった。

 娘はその様子を見て、落胆したように溜め息をついた。

「……何じゃ、たった四匹しか入らぬのか。つまらぬのう。十匹ほど孕ませてから産ませようと思っておったのに。人間とは脆いものじゃ」

「……ルルーシュよ」

「おや、父上。おったのか」

 血肉にまみれた女に向けて掌を翳す娘に呼びかけると、彼女は今初めて余の存在に気付いたとでも言うかのように、言った。

 娘の掌から放たれた炎が、周囲に散らばる血まみれのバルーンジェリーごと事切れた女の体を焼き尽くしていく。クラゲというものは元々体の殆どが水分でできているため、燃えづらいのだろう。炎に炙られてぶじゅじゅじゅ、と奇妙な音を立てていた。

 それを観察しながら、余は彼女に問いかけた。

「お前は人間を飼いたいと騒いでいたではないか。それをこうもあっさり殺してしまうのか? 捕らえてすぐに殺すのは、飼うとは言わぬのだぞ」

「妾が飼いたいのはあの勇者だけじゃ。他のひ弱な人間なぞ、興味などありはせぬ。妾はあれでなければ飼うのは嫌じゃ」

「……だから変態だけはやめなさいって散々言ったであろうが」

 余はふーっと息を吐いた。

「それに、あの勇者はもう二度と此処には来ぬ。完全に焼き尽くした上に、残った炭を壺に入れて、溶岩の中に捨てたのだ。幾ら並外れた再生能力を持っていようと、あそこまですれば流石に復活はできまいよ──」

「……此処にいたか、魔王! 私は帰ってきたぞ!」

「…………」

 もう二度と聞くことがないであろうと思っていた声の再登場に、余は言いかけていた言葉の続きを飲み込んでしまった。

 声のした方に振り向くと、そこには例の勇者が立っていた。

 あれだけ完膚なきまでに焼き尽くした上に残った炭を壺に詰めて溶岩の中に叩き込んでやったというのに、その痕跡などすっかり残ってはおらず、完全な無傷状態へと戻っている。

 あれだけやっても再生してのけるとは……もはや、こいつは不死身なのではなかろうか。今代の勇者は何と厄介な特性を持っているのだと、天に向かって呪いを吐きたくなった。

 勇者は相変わらず武器を持たない丸腰の状態だ。そればかりか今回は服すら着ておらず、服の代わりなのか、何処かで調達してきたらしい大きな植物の葉を一枚股間に貼り付けている。

 まあ、服は前回余が燃やしてしまったからな……服を着ていないことに関しては、別に不思議だとは思わない。何故代わりの服を探す努力をしなかったのかという疑念は感じるが。ひょっとして、恥部さえ隠せれば十分だとでも思っているのか? あの男は。

 勇者はハアハアと肩を上下させながら、しっかりとした足取りで、こちらへと近付いてきた。

「さあ、魔王よ……今日こそ私を下僕にしてくれ! そして私をまだ見ぬ桃源郷の彼方へと導いてくれ!」

 勇者が伸ばした右手が、娘の肩を掴もうとする。

 余は咄嗟に勇者と娘の間に己の体を滑り込ませると、無言のまま、魔力を纏わせた拳で勇者の顔面を殴りつけた。

 ぼぐっ!

「ぶはっ!?」

 鼻に拳がクリーンヒットした勇者は、鼻血を噴きながらその場にひっくり返った。

 のたのたと上体を起こそうとするその体を、余は無造作に右足で踏みつける。ぐりっと捻りを加えると、起き上がることができないのか、勇者は動きを止めた。

「……性懲りもなく娘の前に現れおって……貴様のような害悪などすぐにでも消し去りたいところではあるが、余は貴様に少しばかり尋ねたいことがある。答えてもらおうか」

 足の裏に、小刻みな震えを感じる。勇者が身震いしているのだろうか……足の裏に力を入れたまま、余は言葉を続けた。

「何故、貴様はそうも容易く蘇る? 先日など炭と化すまで焼き尽くした上に溶岩の中に叩き込んでやったのだぞ。強靭な生命力と肉体再生能力を有するトロールですら、そこまでされれば生きてはおれぬ。何故貴様は死なぬのだ」

 これは、純粋に余が興味を持ったことであった。

 例え、その要因が勇者が神より授けられた特別な能力にあるものだったとしても、そんな非常識な能力が現実に存在している理由を解明しておきたかったのだ。

 余の問いかけに、勇者はしばしの間を置き。答えた。

 拭おうとすらしていない鼻血が、肌を伝ってぼたぼたと顎から滴り落ちている。

「私の体には……輪廻の力が宿っている。どんなに体を損傷させても、命を絶っても、それが寿命が齎した死でない限り体の状態が巻き戻る、神の呪いだ。これのせいで、私は数多くの仲間の死を目にしながら自分だけが生き残るという苦しみを嫌と言うほどに味わわされてきた……」

 ……どうやらこの男は、余が想像していたよりも、遥かに多く重たい絶望を経験してきたようである。

 ただの変態だと思っていたが……その辺りは、流石勇者と讃えられるだけのことはあるということか。

 はあ、と深く息を吐く勇者。

「私は、この呪いを破って私を殺してくれる存在を求めて長いこと旅をしてきた。爪で引き裂かれ、炎に焼かれ、時には原型も残らないほどに微塵にされたことすらあった。……だが、結局私を殺せる者は一人も存在しなかった。いたずらに殺され、すぐに蘇る日々……そんな生活を長いこと続けているうちに、私は、あることに気付いたのだ」

 勇者の目が、余を見据える。

 その瞳の奥には、静かながらも力強く、意志の炎が燃えていた。

「私が、殺される瞬間の苦痛を、この上なく気持ちいいと感じていることに! 私が殺されたいのは死にたいからではなく、苦痛によって感じる究極の快感を味わいたいが故のことなのだと、知ったのだ!」

「…………」

 余が勇者に僅かながらに抱いた敬意は、今の一言で綺麗に吹っ飛んだ。

 やはり、こいつ……ただの変態だったわ。

 余はふんと鼻を鳴らして、勇者を踏みつけている足に更に力を入れた。

「お陰でひとつだけ、理解したぞ。勇者よ。貴様を完全に殺すのは不可能に近いが、目の前から永久的に排除することはそう難しいことではない。……身動きが取れぬように完全に全身を拘束した後、生きたまま海底にでも沈めてやることにしようか。それで全ての片は付くであろう」

「……ぁああああああ」

 勇者の全身がぶるぶると震え始める。

 目尻から涙が浮かんで零れ、半開きになった口から涎が糸を引いて垂れる。

 今更、恐怖を感じてでもいるのだろうか? 死ぬのは恐ろしくなくても、脱出もできぬ場所に永久に閉じ込められるのは怖いのか……

 まあ、無理もないことかもしれん。何の変化も起きない空間に長時間閉じ込められた生き物は、正気を保っていられないと昔から言うからな。

「……そ」

 余が勇者を悠然と見下ろしていると、勇者が震えた声で言った。

「……そこを、そんな風に、されたらっ……ああっ、いいっ、いいよぉっ、もっと、強く踏み潰してぇっ……!」

 ──そのようなことを言われて、思わず勇者を踏み潰している自分の足先に目を向ける。

 余の爪先は、薄い葉一枚で覆われているだけの勇者の股間の中心を、ものの見事に抉っていた。

「…………ぅっ」

 爪先に感じる奇妙な圧力の存在に、余は全身の毛という毛が逆立つのを感じた。

 慌てて勇者から足をどかし、勇者を全力で蹴飛ばす!

「あうぅぅぅぅっ!」

 尻に一撃を食らった勇者は悲鳴なのか嬌声なのかもはや判断の付かない声を上げながら、遠くへと転がっていった。たまたま転がっていた先に生えていた木の根元にぶつかって、こちらに背を向けた格好で動きを止めた。

「……このような身の毛もよだつようなおぞましい変態を娘の前に置き続けるのは我慢がならん。今すぐこの場から排除してくれる!」

「待ってたもれ、父上」

 全身全霊の魔力弾を掌に生み出した余の腕を、横から伸びてきた細い手が優しく掴んだ。

 そちらに振り向くと、娘が薄い笑みを浮かべた顔で余を見上げている様子が視界の中央に映った。

「あれは妾が頂く。父上は今すぐに此処から立ち去るのじゃ」

 娘の言う「頂く」とは余の代わりに仕留めるという意味ではない。あの勇者を飼いたがっている娘は、余の言いつけを無視して、この場で勇者を手に入れるつもりなのだろう。

 そのようなことなど、到底容認できるわけがない。

 あの勇者を娘の手に渡したら──娘が汚されてしまうではないか!

 父として、それだけは断固として認められん!

「ならん、ならんぞルルーシュ! 父である余が駄目だと言ったのだから、お前はそれに従いなさい! あんな変態を手元に置いて愛でるなど、許されることではない!」

「妾は父上の娘である以前に、一族の頂点に立つ魔王じゃ。魔族にとって王の命令は絶対に従わねばならぬもの。それは父上とて例外ではない故な。……これはお願いではない、命令じゃ。魔王としての、な」

「…………ッ」

 ──確かに、娘の言う通りだ。

 我ら一族にとって、王というのは絶対的な存在である。王の意志が国を作り、王の命令が政を決める。王が死ねと命じれば何の疑念も抱かずに死に、戦えと命じればその相手が例え神であろうが武器を手に取り、命を懸けて戦う。それが魔族なのである。

 その掟は、余にとっても同じもの。余は魔王の実の父として唯一魔王に対等に接することができる存在ではあるが、立場的には魔王である娘の方が上なのだ。

 命令だ、と明確に形にして言われれば、それには従わなければならない。もしも背けば、王に楯突いた罪で余はその場で処刑されるだろう。例え先代の魔王であろうが関係はないのだ。

 余は思わず言いかけた色々な言葉をもやもやとした胸中に無理矢理押し込み、黙ったままその場を立ち去った。

 その足で蔵書室に戻り、扉を閉め切って愛用の椅子に腰掛けて──長く伸ばした銀の髪をぐしゃりと握り潰しながら、苦い顔をしたのだった。


 かくして、勇者は奴の望み通りに娘の下僕としてこの城へと迎え入れられた。

 下僕、というよりは、愛玩用のペットだな。娘からしてみれば。

 娘は暇さえあれば勇者を何処へともなく連れ出して、自分が満足するまで甚振り、蔑んで、殺しているという。

 勇者の方も、それを嬉々として受け入れているらしい。全身に傷を負い、殺されることを極上の楽しみとして満喫しているという。その度に膨らませている男としての象徴を娘の目に晒すんじゃないと最初はまともな服を勇者に与えていたのだが、毎回燃やされぼろぼろにされてしまうので、次第に服を用意すること自体が面倒になってしまい、そのうちに余は勇者に服を与えることをやめてしまった。

 勇者が娘の下僕となってから、二十日も過ぎた頃。

 この頃になると、余は娘の様子を見に行くことはなくなっていた。

 娘は勇者の世話を焼くことに夢中で、余が近付くとあからさまに迷惑そうな顔をするようになったからだ。

 これが、世間で言う反抗期と言うやつなのだろうか──

 娘に相手にされることがなくなったことにほんの少しばかり淋しさのようなものを感じながら、今日も余は蔵書室で書を読み耽っている。

 ……天に召された我が妻よ。もしも今でもお前が生きて余の隣にいたとしたら、お前は今の余を見て何と言ったであろうか?

 今の余は、何と弱き存在なのであろうな。

 自嘲気味に独りごちて、余は茶の入ったティーカップを口へと運んだのだった。

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