第2話 隠居魔王様、悪い虫は見逃さない

 勇者を倒してから三日が過ぎた。

 余は普段通りに、蔵書室に篭もって読書を楽しむゆったりとした時間を過ごしている。

 あれから、勇者が現れたという話は聞かない。

 人間共はどういうわけか、前の勇者が生存している限りは新たな勇者を用意しようとはしない。勇者を二人以上存在させてはならないという掟でもあるのか何なのかは知らないが、我々の手を煩わせる存在が矢継ぎ早に現れないというのはこちらにとっても有難いことである。

 あの勇者はどうなっただろうか。山の竜たちに食われただろうか。武器どころか荷物を何ひとつ持っていない状態で山に捨ててきたから、あれには生き延びる術など残っていないはずだ。あの山に棲む竜たちは余ですら手を焼くほどの力を持った存在だから、丸腰の勇者などもはや木っ端にも等しき脆弱な存在である、と思いたい。

 まあ……こうして何事もないのだから、あの勇者は今頃山の何処かで死んだのだろう。

 勇者が死んだことを人間共が知り、新たな勇者を用意するまでにはそれなりの時間を要する。人間共との戦は変わらず続いているとはいえ、表立ってそれらと戦うのは娘や娘の部下たちだ。少なくとも此処に勇者が攻めてくるまでの間は、余は此処で静かに過ごすことができる。

 読破した書を無造作にその辺に放り投げ、目の前に置かれたティーカップを手に取る。放り投げられた書は勝手に宙を飛んでいき、元の保管場所へと戻っていった。

 今日の茶は……ユメール草を煮出したものか。熟れた果実のような甘い芳香がふわりと顔の前に広がる。良い香りだ。

 余はティーカップを傾けて、茶を一口啜った。


「先代様! 例の勇者です! 奴がまた現れました!」


 ぶほっ。

 扉を蹴破らんばかりの勢いで開いた兵士の言葉に、余は飲み込もうとしていた口内の茶を盛大に吹き出してしまった。


 転移魔法で娘がいる玉座の間に向かうと、そこにはいつも通りに玉座に悠然と腰掛けた娘と、件の勇者がいた。

 勇者の周囲には、娘の護衛役である近衛兵たちが物言わぬ姿で転がっている。どうやら勇者を何とかしようとして返り討ちに遭ったらしく、顔面が元の形が分からないほどに陥没してしまっている──あれではおそらく脳も潰れてしまっているだろう。もはや生きてはいまい。勇者を排除したら、新しい近衛兵を用意するように娘に言わねばな。

 勇者は謎の巨大な骨付き肉を担いでいた。棍棒のように肉の片側から突き出た骨を柄代わりにして握り締めながら、まっすぐに娘のことを見据えている。注意深く見てみると、肉のあちこちに赤い鱗と小さな歯型らしきものが幾つも付いているのが分かる……ひょっとしてあれは、山に棲んでいた赤竜の肉なのだろうか?

 まさか、竜を素手で殺してその肉を食らって生き延びるとは……余は勇者のことを甘く見ていたのかもしれない。勇者にあんな雑草のような野生的な逞しさがあるとは思っていなかった。

「ほほほ……よくぞ参られたの、勇者。妾はそちのことを待っておったのじゃぞ」

「やっと、此処に戻ってくることができた……私もお前に会いたかったぞ、魔王」

 勇者は遠い目をして、何処かあさっての方向を見つめた。まるで過去の記憶を思い返しているかのように。

「目覚めた時に見知らぬ山の中にいた私は……手元に武器がないことに愕然となった。だがそれならばこの拳を武器にすればいいと己を鼓舞し、この城に続く道を探して山を彷徨い続けたのだ。道中遭遇した竜と熾烈な戦いを繰り広げ、熱い血と精をこの身から流し続けながら歩むこと三日……遂に、私は山を下りることができたのだ! 竜の爪に引き裂かれ炎に焼かれる痛みに絶頂することができなくなるのは惜しいとも思ったが……今の私にとってはお前の元に行くことの方が何よりも重要だったからな。泣く泣くそのことは諦めた」

 何やら不穏なワードが混じった言葉を呟きながら、勇者は小さく溜め息をつく。

 担いでいた骨付き肉をその場に下ろし、娘との距離をじりじりと詰めつつあった。

「さあ……魔王よ。今こそ私をお前の下僕にしてくれ! あの時の快感を、もう一度私に与えてくれ!」

 恍惚に染まった異様な笑顔を浮かべながら、抱擁を求めるように両腕を広げて娘へと近付いていく。

「娘に近付くな、この汚らわしい俗物めが!」

 それを、余は額に青筋を浮かべながら渾身の力を込めて殴り飛ばした。

「おぶぅ!?」

 勇者は宙を吹っ飛んで、扉の脇の壁に背中から激突した。

 壁にびしりと蜘蛛の巣のような形の罅が入り、勇者がずるずると壁を伝いながら床へと落ちていく。

 それを見ていた娘が不満そうに余を見た。

「父上……妾はあれを飼いたいと申しておるに。殺してしまっては飼えぬではないか」

「だから、変態を飼っちゃいけませんって言ったでしょうが! あれはばっちいの、触ったら変態がうつるの、だから駄目っ!」

 むぅ、と唇を尖らせる娘を一喝して、余は床に座り込んだままの勇者を見据えた。

 勇者は肩で息をしながら、ふるふると身震いしていた。口から垂れる涎、紅潮した頬、伏せ加減ながらもしっかりと余を見つめてくる眼差し……その瞳の奥に隠れた光は、何処となく婀娜あだ色の雰囲気を纏っている。

「うふぅ……いいぞ、いい……魔王よりかは劣るが、お前から感じる気も十分すぎるほどに禍々しい。間近にいるだけで心が侵蝕されてしまいそうだよ……! あぁっ、此処は、まさしく楽園だ……私が追い求めていた究極の桃源郷が、此処にある……!」

「…………!」

 熱い吐息を吐く勇者を見た瞬間、ぞぞぞぞぞぞっ、と背筋を百足が這い登ったかのような寒気が駆け抜けた。

 こいつは……どんなに痛めつけてもそれを全て快楽へと変換してしまう。そればかりか、四肢を落とそうが内臓を爆砕させようがすぐに復活してしまうのだから余計にタチが悪い。

 もはや、余の力でこの変態を駆除するのは不可能なのか……?

 いや、まだだ。幾ら優れた再生能力を持っているとしても、あれは紛れもなく生きた人間。細胞レベルで消滅させてしまえば、流石に復活などできないはず!

「さあ、魔王よ! 私を甚振ってくれ! そして最高の快感を、この手にっ……!」

「だから娘に近付くなと申したであろうが、この変態がぁぁぁッ!」

 がばっと立ち上がって再度娘に駆け寄ろうとする勇者を、余は怒号と共に放った業火で焼き払った!

「ぎゃぁあああああっ!」

 勇者は火達磨になり、その場に転がってのた打ち回った。

 余の操る火魔法が生むのは灼熱の業火。標的が完全に燃え尽きるまで決して消えることのない地獄の炎だ。

 じゅうっと肉が焦げる音を発しながら、勇者が半ば狂乱したように絶叫する。

「あつい! あついあついあづいあづいあづいぃぃぃっ! あぁぁぁ、いいよぉぉぉぉっ! 意識がっ、意識が、飛ぶっ……あぁっ、駄目だ、我慢できない、出……」

 びくんびくんと激しい痙攣を起こしながら、勇者はそれきり動かなくなる。

 すっかり服が燃え尽きて全裸となった勇者の下半身の中心から、夥しい量の液体が流れ出ている。それすらもすっかり蒸発させ、炎は、勇者を完全に焼き尽くした。

「……立派じゃのぉ」

「年頃の娘がじろじろと見るものじゃありません」

 目を輝かせている娘を叱って、余は床に残った勇者だった黒いものへと近付いた。

 完全に、燃え尽きている……これはただの炭だ。ここまですれば、流石にもう復活はできまい。

 しかし、念には念を入れるとしよう。

 余は思念波テレパシーを飛ばし、近くにいた兵士を呼び寄せて、適当な入れ物を持ってくるように命令した。

 兵士が何処からか用意してくれた小さな壺に床に散らばった炭を残らず詰め込んで、厳重に蓋をして、それを小脇に抱えて余は城を出た。

 空を飛んで国を抜け出し、遥か遠くにある、小さいながらも未だに活動を続けている火山──その火口付近へと降り立つ。

 崖から足下を覗くと、溶岩がぼこぼこと音を立てながら煮立っているのが見える。

 そこめがけて、持ってきた壺を投げ入れる。

 壺は白い煙を立てながら、溶岩の中へと飲み込まれて消えていった。

 ……ふと背後に気配がしたので振り返ると、いつの間にか、余の後ろに全身を炎に包まれた人型のようなものが立っていた。

 あれは、火の一族だ。魔族と精霊の中間のような存在で、我が一族とは友好的な関係にある。こういう高温の土地に棲んでおり、高等な火の魔法を操る能力を持った者たちである。

「これはこれは、アレクサンドロス様ではございませんか。このような何もない場所に、何か御用で?」

「うむ……少々野暮用があってな。用はもう済んだ。せっかく平穏に暮らしていたところを邪魔してすまなかったな」

「我々のことはお気遣いなく。アレクサンドロス様こそ、このような辺境の地までお勤めお疲れ様です」

 深々と余に頭を下げて去っていく火の一族を見送って、余は天を仰いだ。

 これで、娘に近付く悪しき虫は駆除された……余の戦いは、ようやく終わりを告げたのだ。

 全く、勇者というものはいつの時代もろくでもないものだ。今回のあれは、特に歴史に記録を残すことすら憚られるほどのものであった。

 一刻も早く、人間共を根絶やしにしてこのような下らぬ戦など終結させねばな。

 余は溜め息をついて、翼を広げて城を目指し飛び立ったのだった。


 その日の夜、火口から何かが這い出てきたのを火の一族の一人が目撃したらしいが、無論そのようなことなど我らは知る由もない。

 這い出てきたそれは、全身真っ赤で繊維質のようなものが絡み合ったような見てくれをしていたという。

 それは彷徨うように火山を離れ、何処へともなく姿を消したらしい。その後の行方は、誰も知らない──

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