雨が通る,雨を通る

終電のブザーを聞きながら地下鉄の出口を出ると、雨に当たった。辺りが暗くてよく見えないが、傘を差すと小気味の良い音が聞こえるくらいの、きちんとした大きさの雨粒である。地面はまだほとんどが乾いていたから、ちょうど降り始めたばかりのようだった。1週間ほど前から雨雲が日本をゆっくりと縦断しており、今夜から明日にかけて、私の住む地域を通っていくらしい。歩き始めて1分しないうちに、雨は寸断なく降るようになった。


雨は好きだ。髪が纏まらないなどと煩わしく思うこともあるが、嫌なのはそのくらいだ。予報が雨の日は、傘を腕に提げ、いつ、降り始めの一滴に当たるかと、雲を眺めながら歩くのも楽しい。最近は防水のリュックサックを通勤用に買った。あとは雨靴を見繕えば、ごくごく普通程度の雨の日を楽しむ準備はできたと言える。休みの日に雨が降れば、家の中から窓の外を眺め、除湿機が満杯になるたびにタンクを空にする。電気代がやや気になるので、適度なところで除湿機を止める。季節毎のセールを狙いながら、数日干したとしても、なんとかローテーションできるくらいの衣料品を集めているところである。


街灯や車のヘッドライトに雨が照らし出される。雨は思っていたよりも降っているようだった。私はふと、今から随分前、高校からの帰り道、同じように街灯の下の雨を眺めながら歩いたことを思い出す。その時携えていた不安定な何かが、薄い膜に包まれて胸に落ちてくる。少し隔たりを感じる、けれど質感と温度は感じられる。あの頃は、今なら冷静に片付けるような失敗に怯え、焦りや怠惰を繰り返し、慢性的な不機嫌にとりつかれていた。帰り道の憂鬱は、多分雨によるものではなかったのだと、今更になって気づく。具体的に、何をそんなに悲観していたのだっけ。いくつかの情景がフラッシュバックするけれど、それらは一瞬照らされた雨粒が夜に溶け込むのと同じくらいの速さで過ぎていき、仔細をつかむことはできない。

気がつくと、私は自分のアパートの前までたどり着いていた。私は玄関下で傘の雨粒をふるい落としながら、帰り道で考えていたことを思い出そうとした。けれど連なったその記憶は、もうどこかへいってしまったようだった。


翌日、午前10時頃にアパートを出ると、縫い針のような細い雨が降っていた。遠くに連なる山のあたりは空から続く白に覆われて、まるで何もないかのように見える。目を凝らせば、雨煙が見えるのかもしれない。家から5分ほどのバスターミナルに向かう途中で、雨脚は次第に強さを増してきた。バスの時間に合わせて出なかったためか、サーキット状の道路、屋根とベンチだけでできた簡易なターミナルには誰もいなかった。私は傘を閉じて屋根の下に入り、ベンチに座った。ターミナルから続く上り坂の先の街は、降る雨で煙っていた。そこに並ぶマンション群は、もうその白に消されそうであった。

夏の盛りを過ぎたとはいえ、まだ辺りの空気は生温さを残している。屋根の下は、風通りを遮るものは何もないにもかかわらず、湿気の膜に覆われたように熱が篭っている。屋根が光を遮ってやや暗いせいもあるのかもしれない。数歩先の屋根のない場所はしとしとと雨が降っていて涼しげで、その場所が僅かに遠く感じた。ふと目の前を、水滴が落ちていく。それは頭上の屋根から地面まで、規則正しい音を刻みながら落ちていく。水たまりに広がる波紋をぼんやりと眺めながらその音に耳を澄ませるうち、私は次第に眠りに落ちていたようだった。

突然何かに叩かれた気がして、意識が戻る。瞬間、何も見えないと思った。聞こえないとも思った。そして急に、屋根と地面から響く鮮烈な音を浴びた。しぶきが巻き上がるほどの雨が辺りを覆っていた。どこからが空かはもうわからない。坂の街はおろか、坂すらもほとんど消えかかっていた。山から下ってきた雨が、ターミナルへ到達したのであった。大粒の雨が、地面に激しく当たっては跳ね返る。雨水は地面の緩い傾斜に沿って、滔々と流れ下っていた。私は、一枚の屋根の下で、耳と目を塞がれたようで、身動きが取れなかった。あたりには誰も見当たらない。たぶん見つけられないのだ、と思う。ターミナルの屋根の下で、私は白いしぶきの中に取り残されていた。


坂の下の方からバスが一台現れたとき、私は高い周波数の音と鼓動が耳の奥で響くのを感じた。嘘のように青いバスが、ゆっくりとターミナルを周回している。私は、今しか動くことができない気がして、バスが扉を開くと同時に立ち上がった。大粒の雨が跳ね返り、ふくらはぎを濡らす。屋根の下を出る一瞬、さっきまでいた場所を覆う膜が揺らいで、身体を撫でていくのを感じた。そしてすぐに、全身を叩きつける雨に、息を吸い込むことができなくなる。私は、ほとんど目をつぶりながら、駆け込むようにバスへ向かった。


猛然と降る雨の中を、バスは悠然と発車した。過剰なほどに冷房の効いた車内から、私は窓の外を眺める。数分も走ると、雲の中心から外れたのか、外はすぐに糸のような弱々しい雨が降るばかりとなった。私は息を吐き、目を閉じる。バスのドアが開く音と乗客が何人か乗り込んで来る振動を感じる。中学生か高校生か、若い女の子たちが話している。次の停車場では、小さな子供と母親が乗ってくる。その母親は多分私とそこまで変わらない歳だろう、と思う。先ほど拭き損ねた水滴が、首すじを伝って背中へ流れ落ちていった。私はあの雨が過去になっていくのを感じた。


最終駅でバスを降りると、雨はもう上がっていた。雲に覆われながらも、日が街に淡い影を作る。地面から蒸した空気が湧き上がってくる。大勢の人が、湿気に包まれた駅前を交差して、銘々の方向へ向かっていく。すれ違うたびに、何か柔らかいものが肌を撫でていった。明日か来月か、数年先かわからないけれど、今とは違う自分が、どこかで今日の雨を通る日が来たらいいと思った。



2018.08.19

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