つきみみち

 学校祭の放課後練習の後、終わったら来るように言われていた進路相談へ行った。理科準備室へ入ると、先生はそれぞれ机におり、その中の担任が僕に気づき手をあげた。

 部屋の中は普段よりコーヒーの匂いがするような気がした。担任が、すでに帰宅した先生の机から椅子を出し、そこへ座るよう僕に言う。机上に薄いオレンジ色をした紙の束を置く。紙をめくる指が僕の名前のところでとまり、それをひき抜いた後、渡される。そしてまた、ファイルに収まっている僕の成績表や進路希望調査などを探し、担任はそれらを見ながら差し障りのない話をした。

 失礼しました、と言い廊下へ出ると、涼しい空気が顔に当たる。ぼんやりとした頭に数字がいくつか浮かぶ。手に持っていた紙のグラフは資料集に載っている温度変化のようだ。その下には考察、ではなくチェックポイント、と書かれ手織り、今回できなかった箇所が羅列されていた。


 彼女のクラスの明かりはついていなかった。近頃はお互いのクラスで学校祭の準備があるため、時間が合えば帰る、というようになっていた。今日も事前に伝えてはあったけれど、準備に区切りがついてもう帰ったか、そう思いながら後ろ側のドアから中をのぞく。

 夜を前にした空気の中に机や椅子が沈んでいる。列の曲がっているところや椅子が出たままの席も、今は静かだ。彼女は後ろから2番目の窓際の席に座り、頬杖をついて窓の外を眺めていた。僕はドアに手を掛けたが、開くことができなかった。暗くて見えづらくはあったが、彼女は本を読む時と同じ顔をしている。

 遠くでガラガラと音がした。誰かが廊下の奥の教室から出てくるのが視界に入った。僕はあわてて取っ手に力を入れる。彼女はこちらを向き、来た、と声をあげて目を細くした。それからこっち、こっち、と手招きをする。

 窓へ近寄るにつれ先程の場所からは見えなかった景色が広がっていく。いつも歩く通学路が伸びていき、やがて街路樹に覆われる。両脇には街灯がぽつぽつと並んでいる。彼女はあっち、あっち、そう言いながら空の方を指さした。

 月だ。まだ、街並みからやや目線を上げたくらいの場所にある。僕は久しぶりにまるい月を見たような気がした。

「今夜は満月でしょう!夕方以降にお帰りになる方は、上着をお持ちになりましょう」

 そう言いながら彼女は肩にかけていたカーディガンを持ちあげて僕の方を向く。それから教室を見回し、

「ああもうこんなに暗かったのね」


 彼女が机に広げていた数学の問題集とノートを片付けている間、どこをということもなく辺りを見ていると、暗がりでびいん、と音がして時計の針が揺れた。それのさす数字と外の街の時間が同じ気にはなれない。ついこの間までこれくらいの時間の教室には西日が射していたのに。掲示板のカレンダーはめくられておらず、ひと月前の日々がマスに収まって並んでいた。時計もしいんと止まってしまった。よし、いいよ。彼女が鞄を提げ、僕らは出口へ向かう。廊下へ出たとき、小さく針の音が聞こえた。僕は暗い教室を眺め、ドアを閉めた。


 校門を出る。先ほどまで見ていた景色に自分が入り込む。振り向くと誰もいない教室の窓が並んでいる。

「わたしの教室はあそこだよー」

 手すりにかかった雑巾でわかるらしい。そう言われてみると自分の教室がどこか判然としない。彼女の教室から数えてその位置を確かめる。そういえば、あの花が窓際の棚にあったかもしれない。

「月、どこかに行っちゃったねえ」

 歩き始めた彼女が空を見上げる。両脇に並ぶアパートとマンションの間に切り取られた空は細長い。それに街灯がまぶしくて、まるで照明のあたるステージから観客席を見ている時のようだ。教室から見えた空のどの部分かなんてことはわからないから、月がどの建物に隠れているかも見当がつかない。

 そうだ、彼女が鞄の小さなポケットから小さな箱を取り出した。それは、限定ものや新商品などではなく、昔遠足の時に買っていたようなよく見知ったお菓子だ。彼女の手に隠れてデザインがよく見えず、何味?と聞くと、よし当てなさい、そう言って彼女は銀色の箔をパリッと破り、一円玉くらいの大きさの、円いタブレット菓子を僕の口へ放り込む。

 粉っぽい舌触りが広がったあと、奥歯でそれを割ると、しばらく食べていなかった甘酸っぱい味が広がる。薄くすうっとぬけていくような懐かしい香りだ。あーレモンかあ。彼女は簡単過ぎたねえといって自分の分を手のひらに出す。わ、嬉しそうな顔をして、彼女はそれを指でつまみ空へ向けた。

「お月さま見つけた」

 そのままそれを口の中に入れ、彼女も月をコリッと割った。 

 僕のぶん、彼女のぶん、それから昼にあげた彼女の友達のぶん。銀箔のついたプラスチックに円い穴があき、残りは一つ。ほんとは箱にまだ入っていたけど、実は昨日食べちゃった、そういいながら彼女は最後の一つを押し出す。その時、手のひらに当たったそれが跳んで、アスファルトに落ちてしまった。

 僕らは立ち止まり、それをはっと見つめた。それは暗くてよく見えない地面を転がっていき、マンションの壁に当たる前にふ、と消えた。排水溝に落ちたのだった。彼女はしゃがみ込んでその中をのぞいたが、

「ううん、逃げられたり」

立ち上がって石ころを蹴った。


 お菓子を食べてしまったから、彼女は今日あったことなどを話しはじめた。今日の昼休みに進路相談をした、と言った。僕もさっきしてきた、と返す。数枚の落ち葉が風に吹かれて道路を渡っていった。木の葉はまだ色づいてはいないけれど、今夜あたりの寒気がそうさせるかもしれない。その先に来る冬を越えたら受験生だ。でも僕の頭には何を目指すとかそういうものはまだなくて、薄オレンジの紙に模擬試験の結果が印刷されたものを見るだけだ。順位が上がれば少し嬉しいし、下がれば少し焦ったりする。ただそれだけだ。先生がいう、方向を決めなさいという言葉の意味はわかる。方向を決めれば、進み方を考えられて、今することもはっきりとする。けれど、先をよく知らない僕らが向きを決めるのは、少し難しいと感じてしまう。

 歩きながら彼女は黙っていた。そういえば彼女はどうなのだろうと思った。そ、の音が口から出たときに、僕は先を続けるのをやめてしまった。高校を出てどこへ行くのかわからないけれど、確実に僕らは高校を卒業する。この道を歩かなくなるのだなあと思うと、成績や進路の不安がぺらりとめくれていって、僕はもうすぐの曲がり角まで、視界の右下に映る彼女の靴先を感じながら歩いた。

 彼女は左で、僕は右だから、曲がり角で立ち止まると、彼女は僕の方を向く。そして、わ、といって指をさす。

 振り返ると、少し輪郭のぼやけた月が建物の間に浮かんでいる。形のない雲が淡く覆っているようだ。湿気ったねえ。薄くすうっとぬけるような香りがして、彼女が僕の横に並んでいるのがわかった。





2011.11.01

Thanks! 那波さん企画 「色彩だより 名月2」より

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