明日Ⅰ

 森林の上を、自動操縦の白いエアカー滑るように走り抜ける。大きさは普通乗用車一台くらいので、大きさな翼が左右に付けられている。知識では知っていたが、乗るのは初めてだ。そもそも外の世界に出るのが初めてで、エレウシスを離れてからは驚きの連続だった。これも例外ではなく、ぐるぐると周囲の景色が移り変わっていく様は壮観だ。乗ってからしばらく、未恵みえは子どものように目を輝かせていた。何より、時速数百キロで動いているのにも関わらず、中に座っている自分たちが心地よささえ感じていることが意外だった。

 ふと、未恵は隣に目をやる。

 父親譲りの癖毛に小柄な身体、こんのロンTに白い半ズボンを着た男の子――彼女の息子である天月あまつき双太そうたは無言で、携帯ハイブリッド電話フォンをいじっていた。ゲームをしているのかと上から覗き込んでみれば、魔術について調べている様子だった。

 エレウシスを脱走してから、一ヶ月が経っている。

 元々未恵と重は数名の協力者と共に脱走を計画していた。しかし、その計画がどこからか漏れ、未恵は拷問ごうもんの末に両脚を切断され、数日間監禁された。その後、外界で任務に臨んでいたはずの重に救出され、数名の協力者とともに脱走、アタラクシアの東京支部に流れ着いた。アタラクシアはエレウシスと同じ魔術組織であるが、穏健派とも言われている。結果的に、快く受け入れてもらえた。

 治療のため、アタラクシアの大学病院に身を寄せてからは状況の把握に時間をとられた。

 まず、自分のこと。切断された両脚には最新の義脚が移植された。見た目も感覚も殆ど変わらず、今ではかつてと同じように歩くことが出来る。また、何らかの薬物処理を受けていたようだが、こちらも問題なく除去できたと担当医師から聞いている。今のところ、彼女だけは万全の状態だ。

 次に、天月しげるのこと。脱走から3週間の間、彼は生死の境を彷徨っていた。脱走に関して様々な状況をシミュレートしていた二人は、脱走が強行突破になる可能性、Sランクの魔術師とぶつかる可能性も考えていた。そのため、未恵は通常の数倍の濃度を持つ魔術用のドーピング、「ハイ・ブースター」を独自に開発し、それを持たせていた。結果、重はSランクの魔術師を含む追っ手を退けるも、副作用による昏睡状態に陥っていた。丁度一週間前に意識が回復し、今はアタラクシアの大学病院で治療を受けつつ、リハビリを始めている。もっとも、「ハイ・ブースター」によって全身の神経がズタズタに切り裂かれており、二度と昔のように戦えないだろうとの見解だ。重は「ありがとう」と言ってくれたが、未恵の心中は複雑だ。「ハイ・ブースター」があったからこそ家族三人で脱走できたのは確かだが、未恵が重の未来を台無しにした事実は変わらない。

 最後に、双太のこと。

 ここに来てから2週間、彼は悲惨な状態だった。初めの3日は昏睡していたが、一度意識を取り戻すと一転、金切り声を上げながら暴れ、病室を破壊し始めた。ミユ・アーベルを殺したショックによるものだろう。このままでは危険だと別室に隔離され、興奮状態に陥る度に薬で眠らせ、あとは必要な栄養だけを点滴で与えられる生活が続いた。やめてくれと未恵は必死に訴えたが、落ち着くまでこうするしかないと言われ、聞き入れられなかった。現に未恵がガラス越しにいくら呼びかけても呻き声を返すだけで、彼女を認識しなかった。

 そうして2週間後、徐々に容態が落ち着き、未恵を認識するようになってから、ようやく解放された。未恵はたまらず双太を抱きしめた。五年間分の思いと、今度こそ幸せにすると、思いを込めての抱擁だった。

 双太がここ一ヶ月間の記憶を忘れていること、つまりミユ・アーベルを忘れていることに気づいたのは、数日後だった。


「双太ちゃん、何見てるの?」


 何を見ているか分かっていながらも、未恵はあえて双太に向かって問いを投げた。


「まじゅつ」


 素っ気ない言葉は残酷で、理解のできないものだった。

 双太が忘れてしまったこと、以前よりも魔術に依存していることに対して、未恵は未だどう向き合えば良いか分からない。親としての感情は魔術を忘れて欲しいと訴えているし、一人の魔術師としての理性は、それしかないのだから仕方ないと断じ、二つの思いがせめぎ合っている。


「でも、悲しいことがあったでしょ?」


「かなしいこと?」と双太は小首を傾げる。未恵が何を言っているか分からない様子だ。

 焦燥のまま、次の言葉を紡ぐ。


「ミユちゃんのこととか」


 対し、双太は再度首を捻り、困った顔で言葉を返す。


「なに? それ」

「ううん……」


 分かりきっていた言葉。けれども胸はズキリと痛み、その場で泣き出し、喚き出したい衝動に駆られる。医師の話では、ミユのことを忘れているのは一種の自衛行動だろうとの見解だ。ミユのことを考えてしまえば壊れてしまうから、だから無意識的に辛い記憶を封じ込めたのだろう。けれど、未恵は知っている。失われた1ヶ月の断片で、双太が笑っていたことを、明るかったことを知っている。きっとそれは双太にとって、生まれて初めての幸せな記憶だったのに、エレウシスは容赦なく奪った。未恵も重も、守ることが出来なかった。


「なんでもない」


 だからこそ、双太の前でだけは泣けないと、未恵は気丈に、言葉を絞り出す。重がいない今、双太を守れるのは未恵だけだ。強くなければならない。支えなければならない。


「双太ちゃんは、向こうでしたいことってあるの?」


 だから無理に笑顔を形作る。普通らしく、子どもの願いを聞く。


「わかんない」


 対し、双太は携帯ハイブリツド電話フォンに視線を戻し、素っ気なく答える。


「でも、まじゅつはやると思う」

「どうして?」

「これしか、できることないから」


 予想通りだった双太の言葉に、未恵は小さく頷き、彼の頭をでた。何度も何度も、自分の動揺をごまかすように、決して悟られぬように、子どもを褒める親を精一杯演じた。そうしながらも、未恵は思った。双立都市で、双太が魔術以外の生き甲斐を見つけられますように、と。自分や重と同じように、人としての幸せを掴めますようにと。その願いさえ果たされれば、魔術師として生きようが、人間として生きようが関係ない。双太が幸せにさえなってくれれば良い。そのためにも魔術師であること、人間であること、どちらも選べる双立都市は最適の地だった。


 …

 

 双立都市に来てから、半年が経った。

 ここでの生活は、極めて退屈だった。

 エレウシスにいたときのように模擬戦がなければ、怪我をすることもない。決められた時間に母が食事を作り、暇な時間は魔術の訓練をするか、茫洋ぼうようと過ごす日々だった。

 今日も双太はベッドで横になり、何を考えるでもなく、天井を見つめていた。

 生まれて初めて自室を与えられ、ベッドや勉強机、本棚や衣装タンスを買ってもらった。しかし、ずっとカプセルの中で寝るだけだったせいか、初めの1週間は全然寝れなかったし、本棚は使い道が分からず、衣装タンスについては収容以前に、服が何かも分からなかった。エレウシス時代はずっと戦闘用のスーツだったから仕方ないことだが、素直にそう伝えた時の未恵は本当に困ったという顔をしていた。


(……いらないのに)


 しかし、困っているのは双太も同じだ。未恵が与えてくれた環境は要らないものだった。双太と未恵が引っ越したのは一軒家で、この部屋ですら、ずっとカプセルの中で休息をとっていた双太にとっては規格外の広さだ。大体、こんなに広くても使い道がないと思う。だから、引っ越した当初の双太は苛々いらいらし、未恵と口をきかないようにしていた。それが精一杯の抵抗だった。それでも、未恵は鬱陶しく、双太に関わってきた。料理の味はどうだったとか、この服はどうだったとか、しきりに外に連れ出したりとか、家庭用のARゲームやVRゲームを購入し、一緒に遊ばせたりだとか、頼んでもないのに童話を読み聞かせたり、挙げ句にはトランプやボードゲームなどレトロなものを持ち込んだりした。最近は仕事に行き始めたが、それでも時間さえあれば双太に関わろうとしてきた。まるで何かを埋めるように、何かを恐れているように。


(かぞく、か……)


 自分が重と未恵の子どもであることは、知識としては知っている。しかし実感がない。だから、二人が自分のために離反したのだと知った時も、何故そんなことをしたのか理解できなかった。むしろ、恨む気持ちさえある。記憶に齟齬そごはないはずなのに、ここで目覚める前のことを思い出そうとすると、弱い頭痛が起きる。何か忘れてはいけないこと、取りこぼしてはいけない何かがあったはずなのに、それが思い出せない。気持ち悪い。苦痛だ。こんな気持ちになるくらいなら一生エレウシスに閉じこもって、そのまま死んでしまえば良かったのだ。


 …


 携帯ハイブリツド電話フォンのアラーム音で目を覚ます。

 時刻は7時。最近になって、ようやくまともな睡眠がとれるようになってきた。欠伸をしながら身体を起こし、ベッドから下りる。慣れた動作で自室のドアを開け、階段を下りる途中で未恵と出くわした。ジーンズにロンTといつも通りの格好だ。未恵は一度驚いた表情を浮かべた後、次の瞬間には少しだけ寂しそうに笑い、双太の頭を撫でる。


「えらいね、おはよう」


 鬱陶しさと気恥ずかしさが入り交じり、双太はなんとも言えない表情でコクリと頷き、「おはよう」と返した。毎朝自分を起こしにくる計画を阻止できた。むしろショックを受けて欲しいところで、それはおそらく半分は達成できたが、何故褒められたかは理解出来ない。

 疑問に思いつつ、踵を返した未恵の後を追う形で階段を下り、リビングに入る。


「双太ちゃん、手洗おう」


 彼女の言葉に渋々頷き、二人共々台所の水洗場で手を洗ってから、席に着く。

 今日のメニューはハムとレタスのサンドイッチに、綺麗に切られたりんごとバナナだった。初めてはなんて不細工なものを食わせるんだと思っていたが、最近になって少しずつ美味しく感じられるようになってきた。


「いただきます」

「うん、いただきます」


 教え通りに食事前の挨拶を済ますと、未恵が笑顔で言葉を被せてくる。居心地の悪さを感じつつも、双太は自分の皿に乗せられたサンドイッチを手に取り、口を含む。


「双太ちゃん」


 そんな双太を見ながら、未恵が話しかけてくる。


「今日、出かけるよ」


 それもまた、頻りに振られてくる話題だった。


「どこ?」


 どうせ映画館やゲームセンターだろうと思いつつも、いつも通り、興味なさそうな表情で双太は言葉を返す。

 対して、何故だか未恵はニコニコとした表情を浮かべる。最近、未恵の表情も変化してきた。始めはいつも切羽詰まっていて、悲しそうで、寂しそうな表情を浮かべていた。最近はいつもどこか満ち足りた、幸せそうな表情を浮かべている。双太の一挙一動を見られているようで、恥ずかしい。そして、それを嫌だと思わなくなっていることは、少しだけ怖かった。 


「孤児院」

「こじいん?」


 訳が分からず小首を傾げると、未恵も一度考え込むような仕草を見せてから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「お母さんやお父さんがいない子どもたちがいるところ、かな」

「おれとおなじなの?」


 反射的に返したら「こら」と言われ、コツンと叩かれた。未恵は泣きそうな表情を浮かべていて、少し罪悪感を感じた。


「どうして、そこ、いくの?」


 だから、それを抑えつけるために、無理矢理言葉を絞り出した。


「うん。魔術師の子どもが、たくさんいるところなの」


 実際、双立都市の孤児院に集められる子どもは、ほとんどが魔術師だ。アタラクシアはエレウシスから捨てられた魔術師の確保にも力を注いでいる。その中でも、年端のいかない子どもは孤児院に預けられ、基礎的な教養を身につけてから里親を待つ運びとなっている。大半は魔術師であることを選択して都市を出て行くが、少しでも同年代の人間と関わって欲しいと思っての親心だ。


「もぎせんやるの?」

「やりません」


 今度は苦笑しながら頭を撫でられた。安心させようとする気持ちが伝わってくる。よく分からない。模擬戦は、魔術師が力を示す上で当然の手段だと考えている。当然、未恵にそういった意図ははなく、同じ境遇の子ども達と仲良くなって欲しい気持ちが理解されないことも、織り込み済みだ。せめて、一つのきっかけになればと思っている。


「お母さんね」


 だからか、強がるように未恵は笑い、言葉を紡ぐ。


「双太ちゃんに、お友だちができてほしいなって思うの」


「友だちってなに?」と聞き返した。初めて聞くのに、不思議と好ましい感じがしたから、興味が沸いた。


「一緒に、楽しく過ごせる人のことだよ」


 よく分からないと頬を膨らませる。それがおかしかったのか、少しだけ吹き出した未恵は双太の頭を撫でつつ、たおやかに言葉をかける。


「味方だよ」

「てきじゃないの?」

「うん、敵じゃない」


 ますます分からないと、双太は眉をひそめた。エレウシスでは敵しかいなかった。周りの魔術師は全て競争相手で、蹴り落とす障害で、自分を痛み付ける存在だった。そんなものと楽しく過ごせる道理が分からない。


「よく、わからない」

「そうだね、難しいよね」


 首を傾げる双太に対し、未恵も苦笑を浮かべる。


「お母さんも、そう思ってたよ」


 また馴れ初めかと思わず嫌な顔をした。

 未恵は「違うよ」と一度頭を振り、ゆっくりと、一つ一つ噛みしめるように、双太に語りかけた。


「エレウシスを出たとき、お母さんも双太ちゃんと同じ気持ちだったの」


 意外だった。当てがあるから裏切ってまで連れ出したのかと思っていた。


「脱走した時、エレウシスにも、アタラクシアにも協力者はいたけど、みんな利害だけの関係だって思ってたの。重ちゃんもあんなことになって、もう、お母さん一人の力でみんなを守るしかないと思ってた」


「でもね」と、誇らしく、嬉しそうに未恵は言葉を紡ぐ。


「アタラクシアの人たちは、家族を大切にしなさいと言って、双立都市を紹介してくれたの。それでも、まだ信じられなくて」


 それは当たり前のことじゃないかと、双太は思った。人間なんて、みんな人を蹴落として生き残るだけの存在だ。信用出来るはずがない。


「そしたら、ここの人たちも同じように言ってくれて、居場所をくれた」

「だまされてる」


 思わず、言葉を発した。いくらなんでも、都合が良すぎると。


「かーさん――」


「こんな場所から出よう」と言おうとした。最近の未恵が嫌いではなかったから、裏切られて、その表情がまた昔に戻るのは、嫌だった。彼にしては珍しい、母への思いを未恵は嬉しそうに「ありがとう」と言いながらなだめた。その言葉を言わせなかった。


「そうだね。信じられないよね」


 と言うと、何故か未恵は唐突に立ち上がり、そのまま双太の背後へと回り込んだ。


「えいッ」


「何をする気だ」と考えた刹那せつな、有無を言わさず、椅子に座ったまま後ろから抱きしめられる。

 体温が触れ、全身が沸騰するかのように熱くなり、心臓が早鐘を打った。母の吐息が首にかかり、微かだが鼓動のようなものを背中に感じた。不思議と嫌ではなかった。どうしようもなく恥ずかしいのに、少しだけ嬉しくて、温かい気持ちになる。


「双太ちゃん、世界は広いよ。まだまだ知らないものや感情があるの。だから、一緒に学ぼう。お母さんと、お父さんと、双太ちゃんで」


 そう言い、双太のうなじにキスを落とす。ひんやりとした感触に小さな悲鳴を上げると同時、未恵は素早く身を離す。


「かーさん……ッ!」


 真っ赤な顔で振り向くと、未恵は悪戯っぽく笑っている。そのまま彼女はわざとらしく右手の指二本で唇を隠し、


「双太ちゃん、ごちそうさま」


 と言うのだ。

 一生、母には敵わないと思った。

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