第10話 夜の学校って怖いよね、割と夜の病院を超えてくる怖さ。

 テストの解説を聞き終えたころ、外はすっかり暗くなっていた。わたしは少しぐったりしながら、机を抱え込む。それを見た宮田先生が、「根気は十分。頑張ったじゃないか」と笑った。人を褒める天才かよ、と思いながらわたしは「アリガトゴザイマス」と片言で返事をした。


「今日はもう遅いな。送っていくか」

「申し訳ねえ……自分で帰れます……」


 肩を竦めた先生が、「まあそう言うなよ」と目を細める。

「ちょっと待ってろ、帰り支度してくるから。お前も、忘れ物ないようにな」

 そう言って、部屋を出ていってしまった。ひとり残されたわたしは、ノートやら筆記用具やらを鞄に詰める。それから静寂に耐えかねて、廊下に出た。


「うわ暗っ」


 夜の学校こわい。

 夜の学校こわい(大事なことなので2回言いました)。


 なんか出そうすぎて逆に感動すら覚える空気感。わたしは身震いしながら職員室へと足を向けた。

 と、その時だ。


「なぁーにやってんのー、こんな時間に」


 その時のわたしの反応。動画サイトできゅうりを見た猫を検索してほしい。アレなんであんな反応するんだろうね、不思議。


「ミャーーーーッ!!! ミトコンダリャァ!!!」


 危うく回し蹴りを炸裂させるところだったがわたしの持ち前の運動神経(マイナス値)のおかげでそんなことをせずに済んだ。

 きょとんとした顔の────暗がりでもそのご尊顔を間違えるはずもない────仲明先輩は、言った。

「ミトコンドリア? ミトコンドリアって言った? やっべえ、俺……びびった時にミトコンドリアって叫んだ女の子初めてだよ」

 わたしだって叫んだの初めてだよ。


「ごめんごめん、こんな時間まで残ってる生徒なんか珍しくてさ。ついつい話しかけちゃった。何してたのー」

「わ、わだ、わだすは……学習状況のすり合わせというか」

「大変だねー」


 先輩は、と尋ねれば「生徒会の集まりだよ。4月は忙しくてねー」と返答があった。生徒会長も大変そうだ。

 そんな話をしているうちに、先生が走ってきた。どうやらわたしの悲鳴に驚いて戻ってきたようだが、仲明先輩を見て「なんだお前か」と苦い顔をする。対照的に、仲明先輩は先生を見て嬉しそうに「あれ、転校生ちゃんの担任?」と小首を傾げた。


「なんだとはなんですか、せんせー。俺、これでも生徒会長ですよ」

「お前のような生徒会長がいるか。俺は認めてないんだが」

「先生が認めてなくても選挙で選ばれているので。先生、民主主義って知ってます?」

「世論もあてにできねえな」


 そう軽口を叩きあった後で、先生はため息混じりにわたしを振り返った。「こんな馬鹿を相手にしていないで、帰るぞ」という言葉に、仲明先輩が突っかかる。

「まさか送っていくんですかー? いけないんだァ、せんせーが女子生徒と2人っきりで夜道なんて」

「あのなぁ、先生はお前とは違うからそういう下心は朝家から出る時に置いてきてるの」

「えー、でもフライデイに載っちゃう」

「載るか馬鹿」

 嫌そうな宮田先生に、仲明先輩はなぜか嬉しそうだ。


「俺が送っていきますよ、転校生ちゃんのこと」

「お前の下心の方が心配だ」


 やだなぁ、と先輩はわざとらしく顔をしかめる。「その気のない相手を夜に口説くほど、俺は馬鹿じゃないっすよ」とよくわからない自論を披露した。

「夜に口説いてくる男って、下心丸出しで気持ち悪いでしょ。俺はね、相当いい雰囲気で絶対オトせるって思った時じゃないと夜には口説かないの。だから安心してくださいよ、先生」

「安心できるかよ……」

 わたしは恐る恐る手を挙げて、「1人で帰れますけどもー」と言ってみる。なんか無視された。


「転校生ちゃん、家どこ?」

「えーっと……桜並木をバーッと通って、近くに銀行と動物病院があるんですけど」

「めっちゃ曖昧だけど把握把握。俺んちの近くじゃん。これは運命だわー」


 もうわたしを家に送る気満々の先輩に、宮田先生はため息をつく。それからわたしにそっと耳打ちしてきた。

「まあ、仲明も悪いやつじゃないから。無理強いもしないし」

「はあ」

「ただ…………惚れるなよ、面倒だから」

「いえっさー」

 バッと振り向けば、「早く早く」と先輩が急かす。わたしは宮田先生に「今日はありがとうございました! 明日もよろしくお願いします!」と勢いよく頭を下げて先輩に駆け寄った。



××× ××× ××× ×××




 月明かりが照らす夜道を歩いた。先輩は自転車を押している。夜桜も綺麗だな、と思いながら口を開いた。

「ありがとうございます……でも、わたし1人で帰れるんでホントに」

「女の子が夜道を1人で歩くなんて、想像するだけでゾッとしちゃうよー。迎えに来てくれる家族とかいないの?」

「あー……そういうのはちょっと、いないかなぁー」

「マジで? 困ったら俺に言いな。転校生ちゃんって危機管理能力にちょっと難がありそうだし」

 よくわかんないけど、ディスられたのか??


「転校生ちゃん、って……いつまでも呼んでるの、変だよね」と先輩は言い出した。

「俺、仲明秋」

 存じております。

 君は? と尋ねられたので、わたしも素直に自己紹介をする。

「へえ……柳ちゃんか。改めてよろしくね。俺のことは秋ちゃんとかお兄ちゃんとか呼んでくれていいから」

「仲明先輩ってお呼びしますね」

 マジか、と言って先輩は笑った。


「柳ちゃんさー」

「ハイ!」

「転校してきたばっかじゃん。こんな時間まで勉強してて偉いねー」

「あー……、転校してきたばっかだからというか……」


 ちょっとうつむいて、わたしは瞬きをする。「みんな私のために色々考えてくれて、時間を割いてくれて。私も頑張らなくちゃなーって思うわけなんです」と呟いた。

 わたしと同じテンポで先輩は歩いてくれているみたいだ。優しい。さすがモテ男は違う。


「柳ちゃんさー」

「ハイ」

「人生ってそんなに、いけないもんなのかな」

「えっ」


 びっくりして、わたしは声を上げてしまった。なんだか前提をひっくり返されてしまった気分だ。

「頑張らないといけなくないわけがなくないですか?」

「えー、なんて?? 哲学??」

 先輩は面白がって「いけなくなくなくなくなくない」なんて言う。自転車を押す手を軽くグーパーしていた。笑い声が可愛い。なんだかちょっと、懐かしさを覚えてわたしは首をかしげた。


「頑張らなくてもいい、なんて……先輩はきっと頑張らなくてもできるからですよ」

「おっ、わかってんじゃん。俺は天才だからねー」

「あっれムカつくな???」


 じゃあさ、と先輩は目を細めてわたしを見る。

「頑張ったら全部上手くいくって思ってるの?」

「え……それは、」


 どうだろう。否、どうだろうじゃない。全然どうだろうじゃない。

 わたしは、頑張ってもどうにもならないことがあると知っている。たとえばわたしの病気は、誰かが頑張れば何とかなるというものではなかった。それでも、

「それでも、頑張らなくていいって話にはならないと思います」

 そうだ。頑張ってどうにかなるものじゃないとわかっていても、わたしは頑張った。お父さんお母さんも頑張っていたし、お医者さんもたくさん頑張ってくれた。


 まあね、と先輩は言う。

「でも、『努力が足りないから上手くいかない』って考えるの、超キツくない? 努力ってさ、無理してするもんじゃないじゃん。『頑張りたいから頑張ったら、なんか上手くいきました』ぐらいの考え方の方が楽だよ」


 あ、とわたしは何か腑に落ちたような気がして立ち止まった。

 わたしは前世で、『努力が足りないから上手くいかない』と思ったことはなかった。わたしの病気がどうにもならなかったのはわたしの努力が足りなかったからじゃないし、他の誰の頑張りが足りなかったからでもない。わたしはそれを知っていたし、だから自分のことも誰かのことも責めたりしなかった。みんなも、わたしを責めなかった。

 努力でどうにもならないことなんていくらでもある。それでもわたしが頑張ったのは、自分をあきらめたくなかったからだ。そしてわたしが頑張りたいと思ったから、みんなも頑張ってくれたんだ。


 どうしてわたしはこの世界に来て今さら、『自分の努力が足りないから上手くいかない。みんなに迷惑をかけている』と思い込んだのだろう。


「頑張りたいことだけ、頑張ればいいじゃん」

「わたしは……わたしは、勉強とかいろいろ、頑張りたいです」

「それなら、頑張りたいのは柳ちゃんの勝手でしょ。で、頑張りたい柳ちゃんの力になりたい他人がいるなら、それはその人の勝手でしょ。柳ちゃんはさ、自分の勝手にだけ責任持ってればいいんじゃないの。『みんなが力になってくれるからわたしも頑張らなきゃ』は順番が逆だと俺は思うよ」

「た、確かに……!」


 なーんてね、と先輩は笑った。

 そっかぁと私は思って、また歩き出す。わたしは頑張りたいことを頑張る。上手くいってもいかなくても、頑張りたいから頑張る。それを応援してくれる人がいるなら、『テラ有難し』と思いながら受け取る。そういう感じでいいのか。なるほど。

「仲明先輩」

「んー?」

「ありがとうございます」

「あはは、まあ生徒会長だからねー。生徒の悩みには敏感なんだなー。もしかして好きになっちゃった? 連絡先交換する?」

「それは遠慮します」

 遠慮すんなよ、と先輩は肩をすくめた。


 ぼんやり歩きながら、「そんなに勉強して、柳ちゃんは将来何になりたいの?」と先輩が尋ねてくる。わたしはぽかんとして、「将来?」とオウム返ししてしまった。

「将来だよ、将来。夢とかあるでしょ」

「将来の、夢……考えたこともなかった」

「え!? そんなことある?? 今の子、冷めすぎじゃない??」

 わたしはうつむいて、ドキドキ高鳴った自分の心臓を見る。もしかしたら子供のころには、夢の1つや2つあったのかもしれない。だけどいつのまにかわたしには、大人になるというビジョンすらなくなっていた。


 そっか、今のわたしには“将来”があるんだ。


「わたし、」

「んー?」

「お嫁さんになるのが夢だったんだと思うんです」

「可愛いじゃん」

「あと、ケーキ屋さんとか」

「可愛い」

「魔法少女にもなりたかったし、本屋さんにもなりたかったし、お医者さんとか、あと漫画家にもなりたかった」


 ひとつ、ふたつ、みっつ。こぼれるように話すわたしに、先輩は黙った。

 自分のことばかり話してつまらない思いをさせたかな、と見上げたわたしの頭を先輩は軽やかに撫でる。「へえ、たくさんあるんだねえ」と微笑んだりした。

「先輩は将来、どうするんですか」

「俺はねー、天才だから何でもできて逆に迷っちゃって」

 夜風が爽やかに吹き抜ける。桜の花びらが先輩の自転車カゴに入り込んだ。「やっぱりそういうキャラでいくんですね」とわたしは吹き出す。何だか自然な気持ちで笑えた。


「あっ、わたしの家ここです! ありがとうございました!」

「柳ちゃんここに住んでんのー? へえ…………」


 玄関でぺこりと頭を下げる。先輩は爽やかに手を振りながら、「つぎ昼間に会ったら口説くね」と言った。会いたいような会いたくないような複雑な気持ちで、「ご冗談をー」と言って見送った。

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