〇三〇××号室 天駆ける金色の翼 一
その日はとにかく不吉でやんした。夜中、そう二時くらいか。昔の悪仲間との思い出したくもない悪行の夢を見ていると、寝台が大きく揺れやした。
一瞬、いえほんの一瞬だけ、お嬢があっしの部屋の寝台に潜んできたのかと思ったんでやす。なにせお嬢――つまりハイエルフ二百歳と言えば、恋の季節が始まる頃。いくら博士の薬で脳の活動を抑制してあるとはいえ、まかりまちがってあっしに懸想してくる可能性だってある。なにせお嬢が頻繁に接している男性はあっしだけだし、同居してもいる。同居が同棲、同棲が恋愛に進むことなんか、世の中に山ほどある話で。
とはいえ……まあないでやしょうが。いずれにしろ、万一そうなったらどう対処すべきかは、恥ずかしながら、何度か考え――というか妄想――したことがあるって次第で。
あーちなみに、ハッピーエンドはなかったでやすな。どう考えても、お嬢と永遠に心や体が結ばれる線はない。あっしはやはり、補佐役が向いているんでやしょう。
でまあ当然、儚い期待はもちろん裏切られて、寝台がきしんだのは、単に大きく揺れたから。それも縦に激しく、一秒置きに、空に放り出されるかのように何十回も揺れて。
いつもの地震とかじゃないっす。寝台脇に積み上げてある書物が崩れてきて腹だの頭だのに容赦ない攻撃をしてきやしたし、扉の向こうではなにかが倒れる音や食器の割れる音なんかが響いてやす。もちろんボロい管理人室はバンシーのように、軋んで派手な悲鳴を上げて。今、あっしの寝室窓の魔導ガラスが割れやした。とてつもない規模の地震でやす。
一分ほども続いたでやしょうか。わずかに収まった頃合いを見て、飛び起きやした。歪んだ扉をなんとか蹴って開けると、居間に飛び出す。すでにお嬢は居間に出てきていて、蜂蜜の壺がとかなんとか、どうでもいいことでオロオロしてやすな。
「お嬢、しっかりしてくだせえ。こいつは大災害でやすよ」
「わわわわかってる。蜂蜜の瓶だけでなく、とっておきの壺の奴まで――」
貯蔵庫を指差して涙目で。
「なに言ってるんすか。管理人でしょ。アパートの被害、けっこう出てやすぜ、この規模だと」
「そ、そうよね。店子さんたちの蜂蜜壺だって割れたかもしれないし。そうだ。大家さんから連絡入ってるんじゃないかな。コボちゃん、お願い」
基本ポンコツでやすが、対処だけは合ってるのが不思議っす。仕事用の机の上も悲惨なありさまでやしたが、タイプライタだけはしっかり、いつもの位置に鎮座してる。飛びつくとあっしは、キーを叩きまくりやした。
大家からの緊急通信は、すでに配信されていやした。大災害だというのに、機械かよってくらい無味乾燥なものでやしたが。
楡の木地震 二三〇八六号 発生
〇一五九発生
震源地 〇三〇××号室
最大震度六強 〇三〇フロア
楡の木荘全体で四〇〇居室が崩壊(震度換算テーブル推定値)
推定死者は二〇五名を中央値に、標準範囲内に収まる予測
治安維持や火災対策スタッフが数名から数十名失われると算定
各種組織に警告発信済
「震源地のある地震って、珍しいよね」
背後から覗き込んでいたお嬢が、首を傾げやした。たしかに、楡の木荘の地震は通常、荘内が一様に揺れるのが特徴。極めて異例の地震でやす。
「それに××号室ってなんすか。普通、〇三〇フロアの二一号室、つまり〇三〇二一号室とかに決まっているはず」
「さあ? バツバツさんとかいう店子さんが住んでいるとか?」
この第一報に続き、大家からの連絡が何本か入ってやした。
楡の木地震 二三〇八六号 分析
単発事故であり規模は大きめだが社会的葛藤の発露でないことから、人心に大きな問題はもたらさないと判断
第一級警報発令 〇三〇フロア
異常滞熱による火災発生
リスクテーブルA 楡の木荘重大インシデント
最優先対処の必要あり
〇三〇フロア:遺棄階層 リストリクテッドエリア存在
楡の木荘管理人イェルプフおよび補佐キッザァは、〇三〇フロアに急行。インシデントチーム責任者、メグレ警部と合流して支持を仰げ。
こっちの都合なんかまったく考慮しない、いつもの大家でやす。
「なあに、この木で鼻をくくったお役所文章。店子さんが大勢亡くなる予測なのに」
「まあ大家っすから。何十年ぶりかの大災害でやすな、いずれにしろ」
一度寝たら起きないで、夜中に無理に起こすと機嫌が悪くて大暴れするお嬢も、さすがに深刻な表情。謎の形に寝癖がひどいっすが。
窓から外を覗くと、夜中だというのに明るくなってやす。空に太陽が三つ輝いて、いつもの真昼の感じ。多分これ、緊急事態対応でやしょうな。
「〇三〇フロアってことは、春に結び目を解いたフロアの二階層下よね」
「ああ、ゴルディアスさんの結び目でやすな」
「こんな浅いフロアで立て続けに事故だなんて、すごく不吉」
「さいっすな。インフラにガタでも来てるんでしょうかね。初期階層だけに」
「とにかく出動よ。ひとりでも多く、店子さんを助け出さないと」
大慌てで出動準備を終えて管理人室前庭に出た途端、これまで起きたことのないことが起きたっす。
「ちりりりりん。ちりりりん。ち、ちちりりり」
読書卓の黒電話が、なぜか派手な音を立ててやす。
「こ、これは……」
「なんだろ、警告音かな」
「大家からの申し送りにもなかったことで……」
「だってこれ、管理人室前庭の亜空間扉を、当該フロアにつなぐための操作装置でしょう」
あっしは考えた。
「そうっすが多分これ、警報とかじゃなく、通話機能じゃないすかね」
「そういや古代の異世界音声通信端末だったよね。この『黒電話』っての」
「へい。……まさかの秘密の通信機能とか」
「ちりりりちりりん」
「どうしようコボちゃん。早く現場に行かないといけないのに」
「出るより仕方ないじゃないすか。状況からして」
「そういうのはコボちゃんの役目でしょ」
「いいえ。あっしはタイプライタ。黒電話はお嬢の管轄で」
「そうよね。うん。出るわ」
黒くて重いエボナイト製の受話器を、お嬢が手に取った。
「あのーぅ。そのぅ。どちらさまでしょうか。今忙しいんですけれど」
しばらく黙って。
「なに、大家さん? 大家さんという名前の店子さん。えっ違う。わたくしの上司の? あらまあ。もしかして例の地震の件」
受話器を耳に当てたまま、あっしに目配せ。声に出さないまま、口が「お・お・や」と動きやした。まあ今の会話で丸わかりではあったんすけど。
それにしても、博士じゃなくて、まさかの大家。直接会話は、お嬢は初めてのはずでやす。えーともちろん、あっしだって話したことなんかないっす。それどころか、声を聞いたことすら。大家の命令は、もっぱら博士通しか端末経由っすからねー。
「はい、やはり地震。ええ……ええ。でも避難勧告はメグレ警部と営繕要請がしてくれてますし、楡の木消防団だって、近隣の、行けるフロアの者はフル出動を――。え? はい。頑張りますが、わたくしに何ができるか――え? できる? キッザァって、コボちゃんに代わるんですか? ええ、はい」
お嬢が受話器を渡してきやした。
「直接話すのは初めてだね。キッザァくん」
受話器から、落ち着いた男の声がした。大家でやんしょう。
「君はコボちゃんとか呼ばれているのか」
訛りからしてヒューマン、年齢は三十代か四十代くらい。博士の言から想像していたより、「いい人」に聞こえやす。いえそこが怪しい場合も多いんですが、底辺盗賊をしてきた経験から判断するなら、そう悪い男には聞こえないっす。顔を見ながらだともっと正確に判断できるんで、いずれ会ってみたいもんでやす。
「話は大方、お嬢の電話を脇で聞いててわかりやした。地震で火事発生でやすよね」
「まあそんな感じだね」
「でもあっしらが行ってもたいして力にはなれない。下手したら、プロのレスキューチームの足手まといに」
「いや、フロアが悪い。よく聞いてくれ、キッザァ君。これから話すことは、イェルプフには秘密の話だ」
「内緒でやすか……」
「そうだ。君には私が与えた任務があるだろう」
「へい。博士に命じられてやす」
嫌な予感がしやす。
「だから教えるんだ。よく聞け。〇三〇階層は、楡の木荘にとって――というか楡の木荘の『外側』にとってすらも、極めて重要な機能を秘めている。リストリクテッドエリアだ。そこが危険にさらされることだけは、なんとしても避けたい。警察や営繕妖精には、そこらあたりのニュアンスを伝えにくくてね」
「だからあっしらを派遣するってわけでやすか」
「そう。特に君だ。イェルプフを先導し、重要な部分の保全を最優先してくれ」
「はあ。どこが重要なんすか」
「教えている時間はない」
あっさり断られたっす。
「そんな無茶な」
「君が想像している以上の危機なんだ。しかもイェルプフ投入自体にリスクがある。だからこそ私も、もうひとつ手を打っている」
「もうひとつの手って」
「それはいい。いいか、イェルプフには未知の力がある。今回、それを使ってもらいたいんだが、余波でフロア機能に齟齬でも出たら困る。君はそれを全力で阻止しろ」
「なんとなく雰囲気はわかりやしたが、具体的にはなにをすればいいんで」
「火事対応と店子避難は警察と消防がしてくれる。君たちは、リストリクテッドエリアの保全に徹するんだ。周囲をぶっ潰してかまわん。そのためのイェルプフだ。ただしエリア中核部には、絶対に手を出すな。イェルプフが暴走すると、そこだけが心配でね」
「リスト――なんですって」
「リストリクテッドエリアだ。行けばわかる。いいか、避難完了と同時に、このフロアは樹脂フォームで永久に封鎖する。まず店子避難。リストリクテッドエリア周辺の安全確保。そして全員退去。そこまでが君たちの役目。先程言ったように、リストリクテッドエリアの安全確保には、イェルプフの力が必要だろう」
「はあ。あれっすか……。あんまり使いたくないすが」
「それはこちらも同じだ。だが必要なときは使わせろ。ただ注意しろ。ここが重要なんだが、いいか。もしイェルプフが暴走して危険な状況になったら、例の薬を使え」
「ああ。あの注射の。あれだったら以前――」
「使ったのか」
「いえそんな」
口が滑ったっす。
「使う予行演習をしただけで。万一のとき、焦って失敗しないように」
「それならいいが……。あれは諸刃の剣でね。イェルプフの持つ力を一気に抑制するが、その分、反動が怖い」
「反動って、どうなるんで」
「酒を飲んだら、自然に醒めるのを待つべきだ」
「は? 酒?」
なんの関係があるのやら。あっしは少し混乱しやした。
「キッザァ君。もし一瞬で酔いが醒める薬があったとする。それを飲む。泥酔者は正気に返る。こんなことを酔うたびに毎回繰り返したら、その人物はどうなると思うかね」
まあろくなことにはならないでしょうな。あっしはそう答えやした。
「そのとおり。いいか、君の任務は、イェルプフの精神上、肉体上の健康と安定を保つこと。それはね、我々すべてにとって、極めて重要なことなんだよ」
「要は、監視すればいいんすね。例の薬を持参して」
背後で耳を立てているお嬢にはわからないような話し方で、会話を続けやす。
「そうだ。覚醒状態を避ける方向に、全力を尽くせ。覚醒させて薬を射つのは次善の策。射たずに済むのがベストだから」
「へい。わかりやした」
情報はすべてお嬢に話してあると告げる、大家の声。楡の木荘の危機らしいのに、ものすごく落ち着いてやす。いい人風だけれど、信頼はこれっぽっちもできない。悪党としてのあっしの経験が、そう警告を出してやす。
通話終了後の、「ツー」という無機質な音を聞きながら、あっしはしばらく考えてやした。どうやらこれ、かなりやっかいな案件らしいっす。大家が音声で作戦概要を伝えてくるなんて。
「どう、コボちゃん。長話してたけど」
「へい。管理人として店子さんのために頑張れって話でやした。救急用の薬とかも使って」
お嬢にばれないように、会話で出た内容を適当に埋め込みやす。
「まあ頑張るしかないよね。店子さんの危機だもん」
お嬢の声を背後に、あっしは例のインジェクター、「博士の薬」を秘匿場所から出して懐に隠したっす。大家の話を信じるなら、これを使うのはお嬢の健康にあまりいい影響を与えないようだし。とはいえ「世界を壊す咎人」人格が覚醒したら、射たざるを得ない。それ以前に、覚醒を極力防ぐよう、あっしが動かないとならないってことすな。あっしが補佐に選ばれたのは、盗賊としての口八丁手八丁が評価されてのことと、こんなときに気がつきやす。
「急いで情報を入力しないとね。えーと、〇三〇フロア……っと」
お嬢の細い指が、黒電話のダイヤルを回しやす。
「ジーコ、ジーコ、ジージーコ。ジコジージーコ」
「はい、つながった。ほらコボちゃん」
緊張に気もそぞろのあっしの手を引いて、お嬢が庭の隅、亜空間扉の前に立つ。扉を軋ませて開けると、そこはもう〇三〇フロア。なにかが燃えるような、いがらっぽい臭いが、管理人室にまで忍び込んできやした。
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