〇〇〇〇〇号室 ふたりで晩飯と蜂蜜酒を 後編
そう。アルトビエレって奴はたしか――。
「そろそろ揚がる?」
「へ、へい。もうちょいで」
うれしそうに酒瓶だの酒器だのを抱えていたお嬢は、皿を並べる途中で、こらえきれないかのように、また脇に来やした。あっしもまた、考え事から現実に引き戻されやす。
「もういい色じゃん。焼き立ての焼き菓子みたいな、きれいな茶色で」
「ここからが勝負っす」
低温鍋から取り出した肉を高温鍋に優しく滑り込ませる。低温鍋ではほとんど立たなかった泡が、また激しく立ち上がったっす。最初ほどではないにせよ。
「なんでこんな面倒な揚げ方するの」
「低温で揚げることで肉は柔らかいままに仕上がるんすが、そのままだと衣の油切れが悪くて、油っこくて湿った感触になるんで。最後だけこうして高温の油に短時間潜らせることで――」
「油切れをよくするわけね。それに水分も飛び切るから、サクッとした歯触りになる」
「さいっす。さすがお嬢。勘がいいっすな」
「褒めてもなんにも出ないよ」
言いながらも、うれしそうっす。屈託のないお嬢はいいっすな。一緒にいるあっしも、なんだか幸せな気分になるっす。
鍋から取り出した肉を、油切りの網に並べやす。
「いよいよね。さっそく食べよ」
「あっいかん」
「どうしたの」
「いえ、このまま切って食べるんでやすが、半分は煮付けて味を着ける予定で」
「おいしいよね。あれ。それがどうかした」
「野菜を切っておくの忘れやして」
「もう。ドジっ子、コボちゃん。どいて」
まな板前を占拠すると、葉物の野菜を、ものすごい勢いで切り始めた。見事な包丁さばき。さすが食欲に支配され……あわわ料理人の魂を刺激されたお嬢だけあるっすな。
そっちはお嬢に任せてあっしは、小さな鍋にスープを張りやした。煮え立ったところに、お嬢が切った野菜と小さく切った揚げ肉、それに溶き卵の余りを回しかけた。スープが鍋のふちで焦げるんで、香ばしい、いい香りがするっす。それに野菜の香味豊かな香りも。たまらないっす。さすがにあっしも、腹が減って我慢できない感じになってきやした。お嬢じゃないが、早く食いたいっす。
そこからはもう、ふたりして秒速。早回しかってほどの速度で、食卓を整えていきやす。揚がった肉は、たっぷりの野菜と共に盛り付けて。スープの皿に、赤や白の漬物を盛った小皿。それにもちろん、蜂蜜酒のゴブレットと。
煮上がった肉は、煮込んだ汁ごと、深皿に盛った米の上に流し盛って。楡の木荘では幅広く農業も行われてやすが、米はうまく――というか大量には作れない。なのでこれは配給米。太古の米の情報を元に、復元して大量生産された品でやす。
「できやしたぜ。お嬢」
「おそーい。早く食べよ。ほら早く早く」
「わかってるっす。せめて座ってから」
あっしが席に着くやいなや、お嬢がゴブレットを手に取った。
「かんぱーい」
「せわしないっす」
もう飲んでる。仕方ないんで、あっしも蜂蜜酒を喉に流し込んだっす。
うまい。花の香りが喉から鼻に抜けて。その洪水が一段落すると、蜂蜜酒ならではの甘い味わいが舌に広がる、この感じ。エルフが夢中になるのよくわかる、複雑で豊かな味わいっす。
「さて、コボちゃんの揚げ物はっと」
小さな口を精一杯大きく開いて放り込んでやす。
「うん。素敵。コボちゃんの言うとおり、衣が綿雪のように軽くて、さくっと口溶けする。いい油で上手に揚げてあるから、衣だけで上等の焼き菓子みたいな香ばしさ。ちょっと甘いのは、多分これ、油の味ね」
「へい。植物油でなく動物油を使う理由がまさにそれで」
「それにお肉。たしかに柔らかい。それに口に入れてまず一口噛むだけで、旨味と甘みのある肉汁がじゅわっと広がって。すごく上等の肉みたいに感じるのは、揚げ方がいいからよね」
「へい」
「漬物もいいわあ。こりっとした食感で、薄い塩味と、発酵によるかすかな酸味が広がって。揚げ物の油を見事に中和してくれてまた食欲湧くというか。揚げ物の味を高めてくれるし、揚げ物はこの漬物の味を高めてくれる」
「そりゃ、名高き
あっしは、煮物皿のほうに移りやした。肉を切って、野菜や米と共に口に含むと――至福でやす。さくっと揚がった衣が滋味あふれたスープを吸っているから、味わいがじゅわっと口中に広がりやす。そこに野菜の、軽く煮えて歯応えをわずかに残しつつもスープの浸透したうまさ。そこに感動していると、噛んだ肉から肉汁があふれてくるんだから、こりゃたまらん。
そしてもちろん、こうした旨味すべてを吸った米。それがまだとろっとしている卵と共に味わえるんだから、最高っす。配給の米だって、工夫次第でおいしく食べられるって証拠のような料理で。
「うん。今日はうまくできたっすな。我ながらこんなにうまくできるのは珍しいくらいで」
「コボちゃん、料理の腕、どんどん上達するよね」
「お嬢だって――」
言いかけて考えやした。お嬢の料理は現状、「まあ食えなくはない」レベル。ほめるのは逆に嫌味っぽく聞こえるかもしれやせん。
「お嬢だって、最初の頃と比べたら、見違えるほど上手になってやすし」
嘘じゃないっす。百点満点で、最初はマイナス二十点。現在は五十五点くらいだから、奇跡の上達と、言えなくはない。
「そうかな。えへ」
うれしそうに、ちょっとだけ頬を染めてやすな。
「わたくしたちも、けっこう長く暮らしてるもんね。相手の好き嫌いとか、よくわかってるし」
「へい」
感慨深げにお嬢が黙り込むとしばらく、親密な沈黙が続きやした。ええ当然、飯と酒は互いにせっせと退治してやすが。
――それにしても、アルトビエレってのはなんでやしょうか。
クサハリ博士の日記には、こう書かれていやした。
生涯をかけた大事業も、第一段階の完成を見た
予定通り、今後は実動しながら開発していくしかない
寿命をはるかに超える事業なので
私がそれを見ることはかなわないが
ここに命の軌跡を残す
私の生涯を支えた多くの友や家族、その思い出の品
愛すべき人生の軌跡を
やがてタカマガハラに消える際まで見守ってくれるに違いない
私は天に召されよう
アルトビエレの翼に乗って
この「アルトビエレ」でやす。もちろん知らない単語でやすが、あのときあっしは、古代の鳥か飛龍の名前だろうと推理したわけで。でも今回入手した情報からすると、生き物じゃなくて技術かなんかでやすな。
となると「アルトビエレの翼に乗って」ってのは、その技術を用いて自分(クサハリ博士)は死ぬ――つまり天に召される――ってことでやすかね。
今後何度か同じ単語を入手できれば、意味ももっとはっきりするはずでやす。
「それにしても」
夢中に食べていたお嬢が顔を上げると、感慨深げに呟きやした。
「夏も終わりねえ……」
「へい」
「あんまり遊べなかったな、この夏も」
「そりゃ、管理人業務に長期休暇はありえないですし」
「そうよねえ……」
少しだけ瞳を曇らせると。
「なんだかわたくし、もう管理人やめたくなっちゃった」
「……」
「だって痛い注射だって射たれちゃうし」
それかい。
「やめたらどうするんで」
「そうねえ」
あっしの目をじっと見つめながら。
「正義の味方になろうかな」
「ぶほっ」
思わずむせちゃいやした。
「なあにコボちゃん。むせちゃって。そんなにおかしい? わたくしがこんなことを言うなんて」
「いえそんな……というかえーと……」
困りやした。お嬢の元の人格は、ハイエルフのイェルプフ王女。王土戦争の英雄で、戦争終結を前に突然失踪した、「消えた英雄」でやす。
お嬢を見やしたが、本来人格が顔を出している気配はない。偶然、そんなことを言い出しただけのようでやす。
「正義の味方って、大変そうでやすよ。おいしいものなんか食べる暇もないでしょうし、忙しくみんなのために働いて、それでいて感謝されるかはわからない。むしろ――」
そう。むしろ大家に厭われて、羽をむしられ記憶を消され、こんな辺境に蟄居となって監視されるとか……。
「嫌われるのは平気。だってそれが、正義の味方の宿命でしょ。誰にもわかってもらえないっていうの」
「はあ」
「でも、おいしいものがないのは嫌かな」
微笑んで。
「だから冗談。今のところは。わたくし、管理人を隠居したらきっと、あの族長の森に行くわ」
「八〇三フロアの、オイシン・キェルクプ族長のところでやすな。エルフの森の」
「うん。永住してもいいって、仰ってくださったし」
「あそこならまあ……ケルヌンノスもいるし……」
「息子さんよね、オイシン族長の。あの人――」
なにを思い出したのか、くすくす笑ってやす。
「なんかちょっとおもしろかったよね。真面目なようでいて、ちょっと抜けてて」
「お嬢。笑ったら失礼でやす」
「ごめんごめん」
ケルヌンノスはどうやらあのとき、お嬢に惚れてやした。かわいそうに。
「コボちゃんも来てよね。きっと楽しいわ」
「さいっすなあ……」
想像してみやした。薫風香るエルフの森林で、ミツオシエの啼き声を頼りに蜂蜜を探すお嬢とあっしを。毎日楽しく暮らして、お嬢を大家から守り、一生、エルフと友情を通じ、隠遁して生活する――。そう悪くはない暮らしでやす。
ただそれには、どうしても、羽の再生したお嬢という問題がある。お嬢に二度と手を出さないよう大家を説得するには、よほど強力な取引条件を得ないとならない。強力で、しかも公開過程を自動化しておいて、あっしやお嬢を殺せば大家に大きな問題が生じるように。
それが果たして可能でやしょうか。
あっしは思わず溜息をついたっす。とにかく、情報を集めなくてはならない。交渉材料を確保し、大家を力づくで同意させるために。
「お供しやす。たとえ……地獄の底までも」
「やだコボちゃん」
お嬢は、無邪気な笑い声を立てやした。
「地獄じゃなくて、楽しい暮らしよ。わたくしたちを待っているのは」
「そう……。そうでやすな。きっと。あっしとお嬢を待っているのは、光り輝く未来でやす。けっして……暗い牢獄でなく」
「なに暗くなってんの、コボちゃん」
お嬢は、あっしの手を取ってくれやした。
「ほら食べよう。おいしい料理を。蜂蜜酒を飲んで、楽しく語り合うの。それでぐっすり眠って、いい夢を見る。……それが人生ってものでしょう。誰だって問題を抱えている。それでも前を向いて生きるの。生きてきたって証を得るために。それがわたくしたち、人間の努め。いずれ死の床で、神様に向かって恥じることなく胸を張れる。そうでしょう?」
「仰るとおりで」
お嬢の金色の瞳。その奥にあっしは、イェルプフ王女の姿を見やした。のほほんとしたお嬢にも、たしかに王女の気高い精神が隠れている。なんとしてもこの尊い心を守らなくては。
あっしは、決意を新たにしやした。眼の前の人物が、今はたとえ目の色を変えて揚げ物にかぶりついているとしても。
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