〇〇〇〇〇号室 ふたりで晩飯と蜂蜜酒を 前編

「ねえコボちゃん。まだかな」


 厨房に立つあっしの背後から、お嬢の声。期待に満ちた、明るい響きでやす。


「まだ料理、始めたばかりじゃないすか」

「そうなんだけど。コボちゃんの得意料理、久し振りだから楽しみでぇ」

「はあーっ」

「またわざとらしく溜息なんかついて。意地悪」

「そもそも今日は、お嬢が晩飯当番じゃないすか」

「だってそれ、コボちゃんが変わってくれって言ったんじゃん」


 それはそうでやす。いろいろ考えたいことがあったので、料理番を変わった次第。なにせ料理していると集中して邪念が消えるんで、考え事にはぴったりなんで。


「それにしても、まだ日暮れ前。晩飯の時間はずっと先でやすし」

「今日は早ご飯にしようよ。お注射記念」

「それは昨日やったじゃないすか。博士の審査から帰ってすぐ」

「んじゃあ第二弾ってことで」

「仕方ないすなあ……。じゃあそういうことで」


 買い付けてきた分厚い肉の塊をまな板に乗せると、肉切り包丁を掴んだ。繊維を横切る方向に包丁を当て、押しながら体重をかけるようにようにして、切っていきやす。切れ目はきれいな肉色。赤身の、上等の肉でやすな。


「もっと厚く切ってよ」


 いつの間にやらあっしの脇に立っていたお嬢が、眉をひそめやした。今日は珍しく、飛び入りの管理人業務がなかったんでやす。なので仕事はもうないんでやすが、急ぎの案件でも来たときのためか、まだ管理人制服を着てやすな。それでいて早飯ねだってるんでやすから、真面目なんだかいい加減なんだか。


「これでも親指より太いくらいでやす」

「もっと厚く」

「へいへい」


 諦めて、あっしは一段太い肉を、お嬢用に切りやした。厚みが違うと火の通りに差が出るので面倒なんでやすが、まあ仕方ないかと。


 ――それより、例の複写でやす。


 博士の「病院」から盗み取った書籍の複写を、あっしは頭に思い浮かべやした。


 あっしが目を付けたのは、「楡の木荘持続性の考察」という書物。その一ページから複写した部分には、古代エルフィン語でこう書かれていやした。






 いわゆる「楡の木荘」が依存できる時間あたりエネルギーは、原理上、定値しかない。このため楡の木荘内亜空間は供給エネルギー上、維持できる体積上限がある。しかも一部を、文化文明のアーカイブ保存に割かざるを得ない事情がある。


 この制限のため経済活動による生産には上限が生じ、荘内にマルサスの罠が生じる。活力が失われ、長期間では志願者に精神進化上の停滞が発生するだろう。新天地でのアーカイブ展開時に、これは大きなリスクたりうる。


 これを避けるには、生産消費の多様性を担保する必要がある。ノシムリ博士が提示した「デモナイゼーションによる遺伝子多様性確保私案」は、その意味でも注目に値する。この私案はたしかに現在、倫理的な議論を呼んではいる。反対者も多い。


 実際、過激な手法ではあるが、精神停滞による集団自滅よりはましだと、私は考える。多様化した遺伝子は、文化の複層的な分化を生むからだ。「大家」による事前シミュレーションでも、超長期間での志願者生存可能性を、もっとも高めるという計算結果が出ている。


 その場合の最大の課題は、言うまでもなく復元時の志願者達の精神混乱をどう防ぐか、それに文化文明の再統合をどう実現するか。幸い、アルトビエレ展開中に、技術開発の時間はいくらでもある。そのため我々監――






 ここがページ末。次のページに続いてはずでやす。で、こいつはなにを意味しているのか。この謎を解明する取っ掛かりは、いくつか文に表れてやすな。つまり――。


「コボちゃん、手が止まってる」


 あっしは我に返りやした。とりあえず切り分けた残りの肉を、保管庫に戻しやす。


「手元覗かれるの、監視されてるみたいで嫌なんでやすが」

「いいじゃない。わたくしも、こうして見ていることで、料理の腕が上がるはずだし」

「そんなもんでやすかね」

「そうだよ。次は穀物粉と卵を使うんでしょ」


 さすが食い意地……あわわ料理に熱心なお嬢。いつの間にか手順を覚えてますな。


「はいこれ」


 棚から出してきた穀物粉の袋を、お嬢がまな板の脇に置いてくれやした。……まあ急かしているとも言う。


 大きな平皿をみっつ並べ、ひとつに穀物粉を出しておく。もうひとつには溶いた卵を満たす。固く焼いて乾燥させたパンを取り出して、と。


「それ、わたくしがやる」

「ご自由に」


 パンをお嬢に渡すと、粗く目を立てた摩り下ろし金にこすりつけて、粉を皿に落としていきやす。これ、けっこう力がいるんでやすが、さすがは英雄(だか破壊者だか)のお嬢。腕に筋肉がぐっと盛り上がると、すごい勢いでパンが粉になっていきやすな。よほど早く食べたいんだろうとしか思えないところが、妙に情けないとはいうものの。


「あーお腹減った」

「言ってもまだ、昼飯からたいして経ってないですがね」


 お嬢の動きを見ながら、あっしはまた例の複写に意識を戻しやした。


 博士と接触する機会があると、チャンスのある限りあっしは、危険を冒して情報を盗み取ってきやした。お嬢を守護するヒントを得るため。そのためには大家や楡の木荘の謎や秘密、弱点や特徴を知っておかねばならないから。


 役立つ情報を得られることがある一方で、断片的すぎてわからない場合も多いんでやす。今回は読み解ける部分があるものの、不明な用語がいろいろありやす。


 まず「いわゆる楡の木荘」ってのが、ひっかかりやす。楡の木荘は正式名称ではなく、愛称とか隠語のようなものだったみたいでやすな。それに「志願者」というのも謎。店子の一部に、なんらかの「志願者」がいるってことか。そもそも、なんの志願なんですかね。


「――ったよ、コボちゃん」


 お嬢の声でやす。


「なんでやす」

「終わったよ、って言ったの」

「ああそうか。助かったでやす」


 溜息をつくとおろし金を洗い、水切り場所に置いてやす。


「ちゃんと聞いててよね。コボちゃんったら、本当にポンコツ」


 お前が言うなって感じでやすが、まあいいか。スルーしてあっしは、香辛料を振っておいた肉を串でつまむと、穀物粉の皿に置いて両面にまぶした。今日は揚げ物を作るんでやすが、こうしておくと、旨味を秘めた肉汁を閉じ込めておけるんで。


 薄く、まんべんなく穀物粉をつけると、軽くはたき、また串に刺して溶き卵を両面につけて、と。そのままパンの皿に移すと、上にもパンの粉をかけて、軽く手で圧縮して、きれいに粉を付けやす。ここんところの力加減が実際、この料理のキモなんで。しっかり付けないと食べてる途中で剥がれたりするし。といってぎゅうぎゅう押し付けすぎるとパンが潰れて、食感が悪くなりやす。


 塩梅を手のひらで感じて、下ごしらえが終わった肉を、皿に出しておきやす。


「あとは揚げるだけね」

「揚げて、それから煮るわけでやすが」

「わあ。そっちの線かぁ」


 斜め上、管理人室の天井を見上げると、お嬢はしばらく黙ってやした。まあ、飯のことを考えているのは間違いないっす。


 別に仕入れておいた脂身を鍋に放り込むと、加熱。溶けて適温になるまで放置でやす。ここで鍋ふたつを使うのも、コツでやして。ふたつの鍋で火加減を変え、異なる油温にしておくんでやす。


 あっしはまた、例の複写の文章を思い浮かべやした。


 文化文明のアーカイブってのは、あっしらの知っている亜空間アーカイブのことでやしょう。ということは、あれは放置された遺跡というより、意識して取り込まれた超古代の文化文明の保管庫ということなのか。


 新天地でアーカイブを展開するとあるのは、いつぞやエントランスホールでお嬢が語ったように、いずれ店子が楡の木荘を出るということっすかね。あの陰気な「楡の木荘の外」で古代の文化文明を展開復元し、そちらで暮らすととか。新天地じゃなくて元いた場所に戻るだけの気はしやすが……。


「コボちゃん。もういいんじゃないの」

「そうっすな」


 見ると脂身はすっかり熔けて、高温の鍋のほうからは微かに煙が立ってやす。ちょうど適温。まず分厚いお嬢の肉を取り上げると、そっと高温油のほうに滑り込ませやす。じゅうっと音がして、肉の周りに細かな泡が大量に発生しやす。


「わあ。おいしそうな音」

「さいっすな」


 続いてあっしの肉も投入。衣にかすかに色が着いたあたりで、今度は低温の鍋に、肉を移しやす。


「なんでわざわざ入れ替えんの。最初の鍋でバーっと揚げたらすぐだし、早くご飯食べられるのに」


 不満そうな声でやすな。油ハネが怖いのか、一歩下がったままでやすが。


「最初に高温の油で、肉の表面を素早く固めるんす。こうすることで肉汁と旨味が中に閉じ込められるので。とはいえそのまま高温で揚げちゃうと、内側まで火が通る頃には、外側が加熱しすぎで固くなっちゃうんす。だからこうして低温の油で、じっくり時間を掛けて全体に熱を加えるって次第で」

「ふーん……。なにかわからないけれど、まあ、おいしくなるならいいわ」


 おお。妥協点を見出したっすな。さすが伝説の――という話でもないか。


「まあ揚げるというより、油で煮るって感じっす」

「へえ……。たしかに泡もあんまり立たないし、煮込みって見えなくはないかな」

「しばらく時間がかかるんで、お嬢は食卓にいろいろ並べておいてくだせえ」

「そうだよね。蜂蜜酒とか蜂蜜酒とか蜂蜜酒とか」

「酒もいいっすが、漬物とか付け合わせとか――」

「わかってるって。任せて」


 いいながらも、貯蔵庫に吹っ飛んで行きやしたから。まあ酒瓶を抱えて戻ってくるに決まってやすな。下手すると二本とか。……もしかしたら三本とか。まさかの四本とか。


 例の複写に出てくる「マルサスの罠」とか「デモナイゼーション」ってのは、意味不明でやす。聞いたことのない単語でして。


 でも大丈夫。いろいろな情報断片を入手していくうちに、こうした用語や単語の意味が判明したりすることもあるんで。いずれわかるはず。前後の文意や語感からも、意味の残り香くらいは読み取れやすし。


 実際、ここにも「アルトビエレ」が出てきやした。以前八〇三フロア、エルフの森で、ミツオシエの謎を追いやした。あのとき入った古代の部屋で、超古代の賢者クサハリ博士の日記らしき、手書き書物を見つけて。あそこにも書かれてやしたな。


 そう。たしかあれは……。

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