〇五〇〇九号室 管理人資格継続審査(身体編) 一
「お嬢、もう朝でやす」
いつまで経っても寝室から出てこないので、やむなくあっしは、扉越しに声を掛けてみやした。
「いい天気でやすよ」
返事がない。ただのしかばね――のはずはないから、扉に手を掛けやした。
「ギ、ギギギイーィイーイッ」
いつにも増して嫌々といった音を立ててボロ扉が開くと、中は真っ暗。緞帳を引いたまま、まだ寝込んでいるようで、寝台の掛け布が、お嬢の形に膨らんでやす。
どんよりとした夜の気配のまま、部屋の空気が固まったよう。若いエルフ特有の、男を誘う甘い香りが漂ってやす。
「お嬢」
「まだ夜だもん」
はっきりした声。どうやら起きてはいるようでやす。
「いえ、もう陽もそこそこ高くなった頃合いで」
「だってまだ早朝だもん」
「お嬢、病院に行くのが嫌なんでしょ」
「ち、違うもん」
飛び起きた気配。すかさず緞帳を思いっ切り引いて、陽光を部屋いっぱいに入れてやったっす。
「ま、まぶしい」
上体を起こしたお嬢が腕を上げて顔を隠すと、薄夜着が揺れて胸のきれいな形が強調されやした。
「注射が怖いんだ」
「そんなんじゃないし」
でも口調からして子供返りしてるしなあ……。
「さあ起きるっす。いつまでも寝てては検査に遅刻しやすし」
「わ、わかってる」
なにか小声で愚痴りながら、ようやく寝台から降りたっす。
「それに朝食に、お嬢の大好きな蜂蜜かけのお魚パイを焼いておきやしたし」
「なんで早く言わないの」
目を見開いたっす。
「パイは焼き立てが命。あのサクッとした歯応え、ふんわり糖蜜バターの味わい、パイ生地に閉じ込められてたお魚の、香味豊かな滋味――。どれもこれも、時間が経つと台無しじゃない」
「いやそんな。急に言われても。あっしはいつもどおりの時間に朝飯を用意しておいただけだし、それに――」
あっしの言葉も聞かず部屋を飛び出したお嬢は、例によって秒速ですっぽんぽんになったのか、扉の陰から夜着を放り投げている。
「品が悪いですぜ。そもそも――」
「いいから早くお茶淹れてよ。パイがパイがぁ」
「はいはい」
寝室から出ると、お嬢はもう、管理人制服に着替え終わってやした。
「はやっ!」
しかも食卓に陣取り、食器を前に唸ってる始末。
「早くーぅ」
「はいはい。いま配膳しやす。それから茶っすね」
●
食事を終えたお嬢とあっしは、例によって管理人室前庭の、小さな
ところが、いつまで経っても入力しない。どころか、黒電話に手を触れすらしない。お茶のカップを手に、夏は髪の毛が傷んで――だとか、こないだの山登りで雪焼けして顔が――とか、どうでもいい話ばかりしてやす。
「はあー、いい天気ねえ……。夏の陽射しは厳しいけれど、朝はまだ暑すぎないし、陽光もみずみずしく感じられるから大好き。それに――」
「注射怖いんすか」
「違うって、言ってるじゃん」
ツンと横を向くと、お嬢の巻き毛がふんわり揺れやした。
「あんなの、ちょおっと痛いだけじゃない。そう、虫に刺されたくらいに。うーん虫より、動物に甘咬みされたくらいかな。えーともしかしたら、地獄の番犬ケルベロスのみっつの首に一気にガブッと」
想像しながら涙目になってやすな。これが王土戦争を終結に導き世界を救った、伝説のエルフの成れの果てとは……。あっしが今まさに加担している陰謀とはいえ、情けないやらかわいそうやらで、複雑な気分でやす。
「大丈夫、ほら、痛くない」
こないだ読んだ異世界古代コミックの台詞を思い出して、なだめてみる。
「ほんとうにぃ?」
すがるような瞳でやす。
「本当、本当」
「……なら行く」
諦めたかのようにほっと息を吐くと、黒電話の「受話器」とかいう取っ手を手に取りやした。古代数字が刻まれた文字盤に指を差し入れて」
「どのフロアだったっけ」
「〇五〇階層。特殊病院フロアでやす」
「そうそう。えーと……ぜろ、ごぉ、ぜーろっと」
「ジージーコ、ジーコ、ジージーコ……」
文字盤が軽快な音を立てると、庭先の亜空間扉が、特殊病院フロア〇五〇に通じやす。
「さて……、行こっか」
口にしたものの、椅子から離れない。
「あっしが先に診断受けるんで、そんなに怖がらなくても平気でやすよ」
「怖がってないもん」
ぴょこっと立ち上がった。
「ほらいこ、コボちゃん」
差し出された手を握り返す。
「やだ、コボちゃんのがよっぽど怖がってるじゃない。手が汗だく」
笑われたっす。
そう。実はあっしのが多分恐れている。というのもこれから受けるのは、定期的にある「管理人資格継続審査(身体編)」。大家の意向を受けて、「博士」があっしらの審査に当たる日。
早い話、健康診断みたいなもんなんすけど、隠れた大きな目的は、お嬢の本来人格――つまりイェルプフ王女――の状態把握。王女人格が隠れ平安なままならよし、もし人格覚醒の気配でもあれば……お嬢にどんな責め苦が降りかかるか、あっしには想像もつかない。
今回、管理外フロア用心棒騒ぎのとき、一度人格が覚醒しかけた事件がある。もちろん大家には内緒にして未報告でやす。ただでさえそれがヤバいのに、背中の羽が再生しかかっている。こうした兆候を、お嬢のために、なんとしても「博士」から隠し通さなければならない。
あっしの胃がきりきり痛んでも、不思議ではないんでやす。
「さて、行こっか」
「へい」
亜空間扉の前に立ち、お嬢が取っ手に手を掛けた。
「ギ、ギギイーイィッギイ……」
軋んで開いた扉の向こうに、真っ白な室内空間が広がってやす。微かに消毒薬らしき匂い。それにシンと冷房の効いた、冷ややかな空気。
特殊病院フロア「〇五〇」に、お嬢とあっしは踏み出しやした。
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