一〇〇フロア キリマンジャロの雪。虹色の。 後編
ただでさえ疲れるのに、山頂は全然近づいてこない。まるで悪魔がこっちをからかっているかのように。永遠に続く地獄の責め苦のようでやす。山を好む冒険家ってのは、頭がおかしいんでやしょうな。
ときどき聞こえるお嬢の愚痴に適当に相槌を打ちながら、進みやした。考えるとお嬢の愚痴がなかったら途中であっしも嫌になったかも。気が紛れるんで、お嬢の相手をするのはちょうどいい感じ。あっしが死んで地獄に落ちたら、お嬢の愚痴妖精でもいっしょに連れていきたいもんでやすな。
途中、突然現れた「鎖場」とかいう難所には苦労したっす。なにせ足元の道がほぼない上に斜度がキツく、張られた鎖をたぐりながら登る場所でやすから。
それでも数時間後、少し予定より遅れたとは言うものの、あっしらはこの無名山の頂上に立ったっす。
「はあー。さすがに眺めがいいわねえ……」
額の汗をタオルで拭うと、お嬢が思いっきり手を広げやした。
「それに空気もおいしい」
「たしかに」
綿のような雪の香りを運んでくる、きりっと締まった冷たい風が心地よいっす。廃棄物フロアとは思えない、得も言われぬ香りで。多少はほこりっぽかった道中とはまた、格段に違う気持ちよさ。さすが四方八方見渡す限り空しかない、頂上でやす。
あっしらが立っている頂上は、ちょうど管理人室くらいの広さの平坦な地面が広がってやす。北のほうはるかに霞んで見えているのは、可動式の廃棄物パイプ。現在は北面五合目付近を、廃棄場所にしているようでやすな。数百年後にはあそこも高く盛り上がり、二子山的な山容になることでやしょう。
「さて、お昼ご飯ね」
瞳がキラキラしてやす。
「その前に、爺さんの用事を済ませやしょうや」
「それもそっか」
ちょっと残念そうな表情を浮かべたものの、お嬢も頷きやした。用事を済ませてから飯のほうが、気兼ねなく楽しめやすし。
「さて……。待ちかねたかな、お爺さん」
岩陰に下ろしたリュックから、お嬢が、陶器の筒を取り出した。片手で持てるほどの小さな筒。雪に見まがうほど真っ白な表面はつるつるで、抽象的な唐草模様が、帯のように刻まれてやす。中身はもちろん、故人の遺灰の一部。見てはいないが、そちらも粉吹雪のように白いはずでやす。
「うーん……ここね」
北面の端、ちょうど廃棄パイプが見える位置に、少し雪を掘るようにして、しっかり据え付けやす。
「お爺さんも、大好きだった廃棄パイプが見られて、うれしいよね」
「さいでやすな」
「なんて書いてあるのかな、これ。古代エルフィン語でしょ」
唐草模様の上に刻まれた文字を、お嬢が指さした。
「アオキ博士、ここに眠る。自らが愛した楡の木荘を守りつつ。――そんな感じっすな。お嬢もエルフなんだから、エルフィン語くらい勉強したほうが良くないすか」
「だあってえ」
体をくねくねさせてやす。駄々っ子ですな。
「難しいんだもの。古代エルフィン語って、文字が三系統もあるでしょ」
「さいでやす」
「しかもひとつは表意文字で、数千種類もあるとか」
「数万って説もありやすな」
「数万!」
手を広げて溜息ついてやす。
「でも表意文字だからこそ、初見の字も形でなんとなく想像ついたりしやすぜ。それに、表音文字の二系統は、それぞれ五十程度しか文字ないし」
「うっ、なんか追い込まれそう。と、とりあえずお爺さんの冥福をお祈りしようか」
なんかごまかされた気もしやすが、まあいいか。
しばらく佇んだのち、あっしらは、ちょうど脇にあった岩場を腰掛け代わりに、昼飯にしやした。穀物粉を水でこねて固く焼いた携行食に干し肉、それに飲み物はいつものお茶ではなく、黒くて苦い、どろっとした奴を淹れて。
「この飲み物、コーヘーだっけ。すごくいい香り。なんての、香ばしくて、気持ちが落ち着くようなまったりした匂いで」
寒さに少し赤くなった鼻を寄せて、お嬢がカップから漂う湯気を吟味してやす。こいつは例の爺さんの愛する飲料とかで、ぜひ山頂で味わってほしいって注文でやした。
「コーヘーじゃなく、コーヒーっす」
「そうそれ。コーヘーって、元は超古代の飲み物なんでしょう」
「コー……まあいいか。こいつは楡の木荘以前、有史以前の飲み物だとか。すでに元になる植物が絶滅しているので、遺伝子なんちゃらとかで生まれた模造品ですが。キリマンジャロって銘柄らしいっす」
「キリマ……なんとかか。奇妙に響くね。わたくしたちの言語感覚だと」
「なんでも山岳の名前が由来だとか」
「へえ。……じゃあちょうどいいか。ここも山だから。廃棄物からできている無名の山とはいえ」
「へい。ちょうどいい機会なんでこの際、この山をキリマンジャロって名付けてはどうでやしょう」
「うーん。管理人が勝手に決めることじゃないしねえ……。地名って、地元の人の呼び名が起源になるでしょ、普通。この山に興味を持つのは、一部の奇妙な冒険家だけって話だし。だからここは無名――無銘の山でいい。きっと山の神様だって、そのほうがいいって感じてるはずだもん」
眉を寄せて唸ってから、コーヒーの入ったカップを口に運びやした。
「おいしい……。そうだ、あとひとつ忘れてた」
リュックに手を突っ込むと、なにかの太い枝にも見える筒を取り出した。厚紙を丸めた筒でやす。
「花火ですな」
「うん。お爺さんの遺言。山頂で花火を打ち上げて弔ってほしいって」
雪を掘って筒を埋め、万一にも倒れないよう、周囲をしっかり踏み固め。怖がるお嬢から点火用の火打ち石と火種を受け取って、あっしが火を起こしやした。
「さて、危ないんで少し下がってくだせえ」
「わかった」
お嬢が素直に下がるのを確認した後、筒の脇に空いた火焚べ穴に、火種を押し込んだ。お嬢の隣まで急いで下がって振り返ると同時に、腹に響くような大きな音。筒の先端を突き破った花火が、思っていたよりずっと高く、打ち上がりやす。高く。高く。吹雪に隠れて見えなくなるまで。
で。
「ドーン」
音と共に、はるか上空に、傘が開きやした。陽光に反射する雪の白さにも負けない、あでやかなほど真っ赤な花。エルフの森の奥深く、百年に一度だけ開くという、幻妖花にも似た、美しい輪形の。真っ赤な花は、青や緑、黄色や橙色と、虹色に変化して、さらに大きく広がりやした。虹色の粉雪のように。
「……きれい」
「爺さんが、生前に自分で用意してたらしいっす。周囲には材料の見当もつかなかったとか」
「わたくしたちの命みたいね。一生に一度、誰しもきっと、太陽に負けないほど輝く瞬間はある」
あっしは黙っていやした。お嬢にとってその瞬間は、いつを示すのでやしょう。王土戦争の英雄だった瞬間か。世界の壁を突き破って「外側」を見た瞬間か。それともこれから訪れる、予見不能の未来なのか。
未来であってほしいと願いやした。お嬢の命は、まだまだ限りなく輝く瞬間が来る。――そう信じたかったので。
お嬢の口から、言葉が流れ出やしやした。アオキ博士、命をまっとうしたあなたは、この地で安らかに眠ってほしいと。もう終わったニンゲンへの鎮魂の言葉が。お嬢にはまだ終わってほしくないと願う、あっしの心も知らずに。
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