一〇〇フロア キリマンジャロの雪。虹色の。 前編
「ふうふう……ふう」
「大丈夫でやすか、お嬢。息が上がってやすよ」
「うん。へ、平気。……ねえ、コボちゃん」
「へい」
振り返ると、あっしに遅れること五メートル、お嬢が山道に難儀してやす。ただでさえ険しい山道で疲れるのに、猛烈に雪風が舞っていて、山道も雪に覆われ、とてつもなく歩きにくいっす。あっしとお嬢は冬山登山の出で立ちで、山用のがっちりしたブーツを履いてるんでやすが、それでも辛いのは確か。得意の森歩きで序盤こそあっしをリードしていたお嬢でやすが、そろそろ限界のようでやすな。
「あとどれくらいかしら、頂上まで」
「さいっすなあ」
登山服のフードと防雪眼鏡を外すと、あっしは周囲を見回しやした。フードを脱ぐと、肌を突き刺すような寒さ。積雪と降雪が太陽光を反射するので、目が痛むほどまぶしいっす。これが真夏かって気象でやすからね。
見上げると、目標である山頂は、はるか吹雪の向こうで見えもしない。登山を始めて一時間ほど。麓の登山宿はまだかろうじて見えているから、まだたいして登ってもいやせん。
「あと三時間ほどかと」
本当は四時間、下手すると五時間かもと思ったものの、それは口にしないことにしやした。
「なんでアパート室内に、こんな山があるのよ」
「そりゃ、お嬢もご存じのとおりで」
三時間と聞いて、泣き言口にしてやすな。
「廃棄物で、こんな山ができるなんて」
「まあ築数千年の廃棄物でやすから」
ここは一〇〇フロア。といっても一階層の厚みが千メートル近いという、初期階層の最大フロアでやす。いえこれ、他の違法フロアのように誰かがぶち抜いたとかではありやせん。設計当初からこうなんで。
というのも、ここ「
もちろん店子さんを住まわすような場所でもないんで、ついでに巨大な熱交換器を設置して、楡の木荘の排熱を集約してるわけっす。今は夏。アパート内気温を人工的に高めてある分、熱交換によって、このフロアは氷雪吹きすさぶ零下の真冬になってるって次第でして。
「お腹減った」
泣きそうな声でやす。
「さっき麓で朝飯食ったばかりじゃないっすか」
「ダ、ダイエットで、ちょっとしか食べなかったもん」
うそつけ――とは思ったものの、口にするのはかわいそう。肉饅頭だの野菜の蒸し物だの、「テンシン」って名物料理を死ぬほど食べたのに、もうだめっすか。……消化に優れた、頑丈な胃袋を持ってやすな、このエルフは。
「じゃあ休憩しやしょう。そこの岩陰なら風をよけられるし」
「やったあ。おやつ食べよ」
「非常食は取っておかないと。万一遭難したら――」
「平気。さっき麓で買ったお菓子だから」
「いつの間に……」
岩陰にリュックを置いてその上に座り込むと、橙色の山岳上着から、ごそごそなにか、棒状の茶色いものを取り出した。――あれ、糖蜜と果汁を煮込んで固めた練り菓子でやすな。
さっそくかぶりつくと、夢中で吸うようになめてやす。まあいいか。疲れも取れるでやしょうし。
「うーん。おいひい。ほの、はんひふ類のかひゅうが、ほおばひくて。それにねっとりひたほうみふの、ほほばひいはおりが、甘みをうまくはんわする感ひれ」
口に含んだまま話すから、半分くらい、なに言ってるかわかりませんな。
「コボひゃんも食へむ?」
「へい。ではぜひ」
ふたり並んで菓子を味わいながら、ふぶく雪と暗い空を眺めてやした。
「今夏ってのが、信じられないよね」
「へい――って、もう食べ終わってる。はやっ!」
ちょっと恥ずかしげに、あっしろ睨んだりして。まあかわいいとは言えやすな。
「だあってえ。ダイエットでお腹が――」
「もうわかったっす」
「それにしても、ふぶくわよねえ。この服着てても寒いったら」
「止まったからでやすよ。歩いている間はむしろ暑いくらいで」
「上はもっと寒いんでしょ」
「熱交換器に近いですからね。……でもまあ、午後には雪がやんで晴れるって話でやすが」
「熱交換器が一時的に止まるからでしょ。いつもの調整で」
「さいっす」
「晴れたらおじいさん、喜んでくれるよね」
「……へい」
あっしらがこんな場所でのこのこ登山してるのは、別に趣味とか遊びじゃあありやせん。今回は管理人の業務でやす。
というのも、とある御老人が亡くなったんでやすが、遺言で、この無名山の頂上に遺灰を弔ってほしいという話。冬山登山とか、営繕妖精には難しい案件なので、例によって楡の木荘の便利屋こと管理人に、お鉢が回ってきたって次第で。迷惑な爺さんでやすな。
「それにしてもその方、なんで山の上なんかに行きたがるのかな。ここ夏は寒いし冬は暑いし、お墓参りだって超大変」
お嬢がほっと溜息をつくと、たちまち息が白銀に凍りやす。キンキンに冷えているものの、余計な生き物の匂いがない分、空気が澄んでて気持ちいいっすな。周囲に見えるのは雪に覆われた山肌だけ。気象が激しい分、冬に雪解けしても丸裸で麓にちょこっと草が生える程度って話でやす。
「なんでも、二十年ほど前に、どこからともなく現れた爺さんらしいっすよ」
「よくあるフロア間放浪者でしょ」
「いえ。ヒューマンってことですが、どえらく訛っていて、どこから来たのか誰にも語らない上に、楡の木荘のいろんな決まり、全然知らなかったとか」
「ゴミ出しルールとか、緊急避難エレベータの使い方とか」
「ええまあ。多分そんな感じの」
「おいしい蜂蜜の注文の仕方とか。どうやってサボって朝寝するかとか」
「ええまあ……」
なんかもうどうでもよくなってきやした。
「とはいえ学問方向の物知りであったんで、上層階のとあるフロアで人望を集めたらしいっす。とはいえ寄る年波には勝てず」
「お気の毒。きっと昔、住んでいたフロアで嫌なことがあったんじゃないかなあ。それで逃げて来たって線。……ところで、この山との関わりは」
「年に一度くらい、このフロアに降りてきて、山に登るでもなく、麓のカフェで連日、廃棄物投棄パイプの働きを眺めてたとか」
「変わった休暇ねえ」
「本当に」
「わたくしなら、山から吹き下ろす寒風を利用した、名産の黄金魚の干物。あれ、買い占めるかな」
「はあ」
目に浮かぶようでやす。
「それにさっき食べたテンシンを――」
「さあ、そろそろ行くでやす。夜になる前に戻りたいでしょ?」
「はあー……」
肺が飛び出るほど溜息ついてやすな。嫌そうな声で。
「じゃあ、行くかあ。面倒だけれど」
「そうそう。頂上についたら昼飯でやす」
「よしっ」
ぴょこっと飛び起きた。飯の話で釣るのが一番でやすな。お嬢は。
あっしらは、また歩き出しやした。一歩一歩、足元を見つめながら、雪で滑らないように、転倒しないように注意して。時折頭を上げると、うねうねと曲がりながら続く山道を睨んで。
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