六五一フロア 蜂蜜色のヴァーミリオン・コースト 四
シーサーパントに襲いかかられたものの、あっしもお嬢も、無事でやした。頭と体が生き別れになったり、土手っ腹が食い破られたりとかは、特にありやせん。
おそるおそる目を開けると、眼前すぐそこにシーサーパントの鼻先があって、あっしは腰を抜かしやした。あっしらをおやつにするのは、なぜだか中断したようでやす。
ぐっと鎌首を引いて高く体を水面から出す。あっしらを見下ろして見定めるかのような瞳。くわっと口を開くと、またひと声叫びやした。
「うん。わたくしは、この世界――楡の木荘の管理人。皆さんのお悩み事を解決するのがお仕事よ」
大音声の吠え声や襲われたことなど気にもしない様子で、お嬢が淡々と話しかけやす。
「あなたが漁場に出てきた。それで魚が獲れなくなって漁師の皆さんが困っているというので、お話をしにきたの」
あたかもそれに答えるかのように、また海蛇竜の野郎が吠えやす。
「そう。来たくて海岸に寄ってきたわけじゃないのね」
「お嬢。もしかしてこいつの言うこと、わかるんでやすか」
なんとか起き直ったあっしを横目に見て、わずかに頷くお嬢。シーサーパントを落ち着かせようとしているのか、微笑を浮かべたままでやす。
「こいつは驚いた」
いつの間にかあっしの脇に来ていた親方が呟いた。気性の荒さで有名なモンスターがすぐそばで口を開けてるってのに、よくぞ来たっす。さすが荒くれを束ねる剛の者。肝っ玉が座ってやす。
あーちなみに、船乗り連中はおおむね、反対側の船縁まで逃げてやす。何人かは腰抜かしている雰囲気で。例のクリップ小僧は、ガキだけに怖さを知らないのか、ひょこひょここっちに近づいてきてきやすが。
「姐ちゃん、こいつと話せるってのか」
親方の言葉に、お嬢は無言。認めたってことでやす。
「どこかで学んだのか、モンスターの言葉を。エルフが話せるのはミツオシエくらいだと思ってたがな」
「いえ。ただわかるだけ」
集中を邪魔されて対話に齟齬でも出たのか、かすかに眉を寄せて。
「……少し黙っていていただけます」
「お、おう」
船縁から体をぐっと乗り出すと、シーサーパントの鼻先に、お嬢がそろそろと手を伸ばした。背後からどよめきがまた上がりやす。
「お嬢。そいつはダメだ。今度こそ腕を食い千切られやすぜ」
「きっと平気」
「きっと、って――」
そのとき、あっしは気がついた。乗り出して見えたお嬢の背中。肩のあたりの盛り上がりが、かすかに輝いているのを。管理人制服を通して、わずかに光が透けてやす。わかるかわからないか程度。蜂蜜や真夏の太陽にも似た黄金色に。あれはおそらく……羽の芽生えのあたり。
シーサーパントはじっとしてやす。どころか、ぬめぬめした胴を海に沈めると、頭を低くし、お嬢の手の前に鼻面を突き出してくる。お嬢に撫でさせる体で。いや、気を許したふりをしてひと口で飲み下すつもりなのかもしれやせんが。
「ほら……」
手のひらをそっと鼻面に当てる。……食われなかったでやす。とりあえず今は。
しばらく、お嬢はじっとしてやした。瞳を閉じて、なにか集中するかのように眉を寄せて。黙ったままなのに、まるで海蛇竜と対話しているような様子で。
「こりゃなんの手品――」
「しっ」
口を開きかけた親方を、あっしは制しやした。モンスターをヘンに刺激して、今度こそ丸呑みにされる危険を、犯させるわけにはいきやせん。
十秒、三十秒、一分――。ふたり――というかお嬢とサーパントは、身動きすらしやせん。
「こいつはすげえ……。気性の荒いシーサーパントが、合わせてやがる」
感に堪えないといった口調で、親方が呟きやした。たしかに、波に船が上下するのに合わせ、海蛇竜が微妙に体を上下し、お嬢と体勢を合わせている様子。船乗り共もそろそろと、こっちに近づく奴が増えてきやした。信じられねえ、嘘だろとか、低く唸る声がそこここから聞こえてきやす。
五分くらいは経った頃。ほっと息を吐くと、お嬢は手を離しやした。シーサーパントは器用に後じさり。五メートルほど離れると一度水面下に頭を沈め、また鎌首をもたげやした。……あれ多分、頭が乾いて苦しかったからかなんかでやすな。
「わかりました」
体を反転させ、お嬢は船乗り共に向き合いやした。
「わ、わかったって、この蛇野郎が漁場を荒らすワケがかよ」
「ええそう」
安堵した様子で、微笑んでやす。
「あのね。お腹が減ってるんだって」
「腹が」
「そう。ここのところ破裂管から出てくる水が急に変わって、奥のお魚が減っちゃったの」
「だから海岸近くまで出てきたってのか」
お嬢は説明を続けやした。破裂水道管から漏出する水温も急激に冷たくなった。それもあってな栄養素が減り、その影響で魚が食べる餌が激減。人間を寄せ付けない海の最深部から、魚もイカも消えてしまったと。
「なにか理由に心当たりあるかしら」
「そういえば、一年ほど前、リゾート施設の更新絡みで、高度な浄化システムを排水パイプに噛ませたとかなんとか、聞いたことがある」
船長が口を開いた。
「それでやすな。排水管も水道管同様、破損してるわけで。いったんシステムを停止して、海に栄養を逃してやったらどうでやす。そうしたら、海蛇の野郎だって、なにもこんな海岸近くまで出てこないでやしょうし」
あっしの提案に、親方は空を見上げて唸ってやした。
「まあ……できなくはない。フロア委員会に諮るくらいは」
「ただちょっとした問題がある」
船長が引き取って続けやす。
「この階層は、当然だが経済規模の大きなリゾートの連中の力が強い。俺達船乗りの提案に乗ってくるかどうか」
「ますます海がきれいに――ってのが、連中の今年の宣伝文句だしな」
「親方、なんならあっしらが委員会に乗り込んで暴れますぜ」
「アホか」
船乗り共は、腕をまくって筋肉を見せびらかしたりしてやす。親方は苦笑い。
「どんどん話がこんがらがるじゃねえか。……とはいえ、どうしたものか」
「それなら、わたくしに提案が」
「提案?」
「ええ。『お腹減った作戦』はどうかしら」
お腹減った作戦――。お嬢の説明によると漁師全員でダイエットし、激ヤセ姿でリゾートをうろうろして客の同情を買うと同時に、関係者に「魚が獲れなくて死にそうだ」とアピールする作戦らしいっす。
「うーん……」
顎に手を置いた親方は、しばらく唸ってやした。
「ベタだが、それなりに効果はありそうだ」
「それにこいつら普段の不養生でデブってきやがってるし、ダイエットすれば操船や網引きにもいい効果が期待できる」
「今日から始めて、三週間後のフロア委員会を目標にするか」
「いいと思う」
親方と船長は、細かく段取りを詰め始めやした。と、ドンっと音がした。見ると五十センチはある見事なニレノキカマスが一尾、甲板に落ちて、跳ねてやす。
「ありがとー」
お嬢が手を振ってやす。どうやら、シーサーパントの野郎が、しっぽでカマスをはたいて飛ばしてきたんでやすな。お嬢にプレゼントってところでやしょう。
「これおいしいよね。わたくし、半身を塩焼き、残りを煮付けにして食べるから」
「管理人の姉貴よう」
その様子を見ていた親方が、声をかけてきやした。
「おめえさんに、ひとつ頼みがあるんだが……」
●
その晩、お嬢とあっしは、招かれて親方の家で晩飯をご馳走になった。荒くれ漁師のがさつな賄い料理の干物を、必死の形相で噛みちぎる森の種族エルフってのは、なかなか前代未聞でやす。野郎共は大喜び。今後、上物の魚を送ってもらうことになったでやす。
クリップの小僧は、晴れて見習いの下働きに。親方の家に住み込みで、雑用から始めるって話で。
あと、親方のもうひとつの頼みってのは、シーサーパント絡みでやした。あいつも漁師も、つまるところ目的は同じ。要は魚をたくさん獲りたいってことでやす。なので協力して追い込み漁をしたいって話でやした。
沖合から海蛇竜が、長い体と恐ろしげな咆哮で、魚の群れを一方向に追いやる。そこには漁船が刺し網を広げていて、一気に全部絡め取るって算段で。獲った魚は、シーサーパントが必要な分だけ食べ、残りは漁師の取り分。
シーサーパントも、たらふく食べられるなら異存があるはずもない。お嬢の説得で、前代未聞の異種族協力漁法が開発されたってわけで。考えてみれば、ミツオシエと共存するエルフのお嬢が、こうした点に協力するってのも、面白い話でやすな。
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