六五一フロア  蜂蜜色のヴァーミリオン・コースト 三

「海はいいわねえ、コボちゃん」


 船縁の柵にもたれ海風に揺れる髪を押さえながら、お嬢が声を上げやした。帆が風にはためくので、大きな声で。さすがに水着は着替えて、いつもの管理人制服姿でやす。


「へい。強い風で、夏の汗も引きやすし。……まあ船が揺れるんで、そこはアレでやすが」


 船上のためか、潮の香りが特に強く感じられやす。潮気に、藻類や苔のような湿気った匂い。奇妙に郷愁をそそられやす。


「なんだもうへばってやがるのか。へっぴり腰じゃねえか」


 あっしらの横で海を睨んでいた網元の親方が、大声で笑ってやす。


「まだ岸離れて、いくらも進んでねえってのに」


 後方、虹色の霧の向こう、かろうじて見えているヴァーミリオン・コーストの浜辺を指差して。


「でも、荒れが想像以上で」


 あっしらが乗り込んだのは、網元管理下の漁船のうち、特に荒海に強い、太い舟型の大型船。太い船は水の抵抗が大きい分、航行速度は遅いんでやすが、今回は別に、一刻を争っての漁獲狙いってわけでもありやせん。さっそくお手並拝見ってわけで、シーサーパントを求めての出港でやす。


 乗り組んでいるのは、酒場での一生の語り草に、命を懸けても大型モンスター退治を見たいって剛の者ばかり十数名。みんなそれぞれ持ち場について、帆柱の帆を微調整したり、双眼鏡で遠くを見つめたりしてやすな。あともちろん、そもそもの発端であるクリップってガキ。こいつは、あちこち走り回って、船乗りの動作を興味深げに観察してやす。


「それで、シーサーパントが出る海域は、どのくらい離れてるんでやすか」

「そうさなあ……」


 瞳を細めた親方が、顎をさすって考えてやす。はためく帆の騒音の中、無精髭がじゃりじゃり音を立てているのが凄いっす。どんだけ硬い髭なのかと。


「この風ならまあ、あと三時間だな」

「そんな遠くでやすか」

「これでも近いほうさ。漁場は潮が複雑でね。そのほうが餌が湧くんで魚が多いってことで」

「潮が複雑だから、船の速度を抑えて慎重に進むってこった」


 横から口を挟んだのは、船長で。毛むくじゃらの獣人で、熊系。大柄なデミヒューマンでやすな。船乗り、特に船長クラスは知能に優れたヒューマンか、匂いから潮や風の動向を読み取るウェアウルフなんかが多いんで。熊系は異例っす。


 本当は知能に優れ、身が軽く自然を読み取るのも得意なエルフが最適任なんでやすが、なにせ森の種族だけに、楡の木荘の内海ではあんまり見掛けないっす。その意味でお嬢も海が読めるはずでやす本来は。ただ船乗り経験が全然ないんで、まあ無理でやしょう。


 遅い船脚に加え、上下左右前後と、波と潮に煽られ、自由自在に揺れる甲板でやす。一時間も進まないうちに、あっしは気分が悪くなってきやした。ええ、船酔いって奴で。


 そもそも遠出をあまりしないのがコボルドの種族特性。船に乗ったことがあるコボルドは、おそらくかなり少ないはず。あっしは盗賊自体、何度か乗ったりしやしたが――といっても航海というより、隠れ家として使う例がほとんどで。部屋と違って、管理がいいかげんでやすから。


 お嬢は元気。まるで海の男でやすが、まあ、足場の悪い森を高速に移動する、エルフならではの平衡感覚でありやしょう。揺れる海と大差ないんで。


 そんなお嬢を恨みがましく見つめながら、なんだか永遠とも思える時間が過ぎた頃のこと。


「せーんちょーぅ」


 揺れる船をものともせず、帆柱に上って遠くを睨んでいた見張りが、大声を上げやした。


「前方、海が盛り上がってるっす。化物っす」


 舳先へと走った船長が、遠眼鏡を構えたっす。


「間違いない。水面みなもすれすれに、奴がのたってやがる」


 叫ぶと、あっしらの脇に立つ親方に向かい、右手をくねらせて見せて。


「ふん。シーサーパントの野郎だ。――見な」


 あっしとお嬢を瞳をこらすと、船の前方遠く、微かに水面が盛り上がってやす。ぱっと見、ただの波に見えやすが、言われて注意深く観察すると、たしかに波とはちょっと違うような。


「お魚が……」


 指差すお嬢の先、盛り上がりのすぐ前に、キラキラ、銀色の小魚が宙に舞ってやす。


「ヒレクチイワシだ。奴に追われた群れが、行き場をなくしてジャンプしてるのさ」

「はあ。シーサーパントさんが、イワシさんを食べてるってこと?」

「ああそうさ。ああやって勝手に狩りをして、漁場を荒らしやがるんだ」


 憎々しげに顔を歪めた親方は、身振りで船長に命じて、船を左に回頭させやした。シーサーパントに右舷の横っ腹を見せる形まで。


「さて、あいつもこっちに気づく頃だ。管理人さんよ。ひとつお手並みを拝見させてもらおうか」


 お嬢の肩をぽんと叩くと船縁から身を引き、部下に矢継ぎ早に指令を飛ばし始めやした。内容からしてどうも、お嬢が失敗したら、即座に浜に逃げ帰る算段のようでやす。


「いよいよだね。おいら、海の魔物は初めてだから、なんだかわくわくするよ」


 走り寄ってきたクリップ小僧が、のんきな声を上げやした。


「どうしやす、お嬢」

「そうねえ……」


 首を傾げて、なにか考えてやす。……いや、考えていると思いたいっす。まさか、今回もノーアイディアのでたとこ勝負でやしょうか。


「シーサーパントさんと、ちょおっとお話し、してみようかなあって」

「いいっすね。遠くから説得したふりだけして、失敗したってことで逃げやしょう」


 お嬢にしてはいい考えで。


「なんせ、失敗しても、親方にぶっ殺されたりはしないはずっす」

「それじゃ、おいら、船乗りになれないじゃないか」

「バケモン退治は無理だから。なあに、いったん乗り込んだ実績は作った。あとは親方にコビだけ売っておけ。港に戻る頃には、『仕方ねえ。身代を預かってやるか』ってなるって。親方、度量はありそうだからな」

「……そんなズルでいいのかな」

「お前はこれから、たったひとりで生きるんだ。ズルの仕方くらい身につけないと、すぐ死ぬぞ」


 盗賊として生きてきたあっしには、悲惨な未来がありありと目に浮かびやす。


「さあお嬢。早く話すフリだけして――」

「コボちゃんわたくし、近くでお話ししてみたいの」

「なに言ってるんすか」


 シーサーパントは気性の荒い危険なモンスター。機嫌を損ねて船に突っ込まれたらひとたまりもない。親方に殺されるかどうか以前に、船がやられたら全員おそらく土左衛門っす。


 いくらあっしが説得しても、お嬢は取り付く島もない。もう水面の盛り上がりはすぐそこまで近づいている。追われて飛んだイワシが、甲板に打ち上げられてキラキラ輝いてるっす。


 振り返ると、百戦錬磨の船乗り共の瞳には、恐怖が浮かんでるっす。そりゃ、いつもはモンスターが出ると一目散に逃げてきた。今回初めて、こんなに近寄ってるんだから無理はありやせん。


 親方と船長だけは、腕を組んだり顎をさすったり。どっしり構えてこっちを睨んでやす。怖がっている風はありやせん。


「お嬢ちゃん。どうするんだ。もう来るぞ、あいつ」


 じれたように、船長が叫んだっす。


「大丈夫。とりあえずお話ししてみるから」

「はあ? お前さん、モンスターと会話できるのか? ……さすがは楡の木荘管理人だ」


 感心したような声。たしかにそれはそうでやす。ただ、「それが事実なら」っす。


「お嬢、ハッタリで死ぬのは嫌でやすよ、あっし。話せやしないでしょ」

「うん」


 あっさり認めて頷くと、あっしに笑顔を向けやした。


「でもできるような気がする」

「『気がする』で人生の荒波乗り切ってこられたら、誰も苦労しないっす」

「まあコボちゃん、面白い冗談」

「いや冗談じゃないっす。ほら、そこ」


 船縁すぐ脇の海面が急に盛り上がると、破裂するかのように水しぶきが飛び散る。ごうっともざあっとも聞こえる大音量が響くと、なにかが水面に姿を現しやした。そう。シーサーパント。


 蛇は普通、なんにも考えていそうにないクールな瞳をしてるんでやすが、こいつは違った。丸い瞳には大きく真紅の虹彩が開き、蛇というより毒を持つトカゲのような凶悪な面構え。鎌首をもたげた頭だけでも、二メートル近い。水をまといてらてらと輝く皮膚は、黄色と黒の鱗でびっしり覆われてやす。近すぎて、生臭い体臭まで感じられるし。


「船長、逃げましょう」

「親方、決断してくだせえ」


 背後から、悲鳴やどよめきが聞こえてきやす。船上を見回すように瞳が動くと、シーサーパンとの口が、くわっと大きく開きやした。意外になまっちろい口内に、杭のような乱杭歯が覗いて、先が二股に割れた舌もみえてやす。


 船縁、一番近くで手すりを握るあっしとお嬢に向かい、ぐおーっとかうおーっとか、とにかくそんな感じの吠え声を上げやした。


「逃げろっ」


 あっしらに向け叫ぶ、親方の声。逃げるどころか、お嬢はそれを無視して、シーサーパントに微笑みやした。お嬢に向かい、バケモンが鎌首を突っ込んできやした。


 ――食われるっ!


 あっしは、無我夢中でお嬢に飛びついた。押し倒せば、とりあえず第一撃からは逃れられやす。


 なぜか、あっしのタックルを受けても、お嬢は身じろぎもしない。森に根を深く張った大木並で。


「わかった。あなたも困ってるのね」


 胴に抱き着いたあっしのすぐ上で、シーサーパントが激しく口を閉じるのが、感じられやした。

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