第二部 食いしんぼエルフ ――管理人の謎の食欲

〇二八〇〇号室 ゴルディアスの結び目 前編

「カチカチカチ……ジーッ。カチカチ……カチ、ジーッ」


「なにをしているの、コボちゃん」

「うわっと!」


 居間の作業卓に向かうあっしの肩に、誰かがふんわりと手を置きやした。もちろんお嬢でやす。いつの間にか、後ろを取られてやした。大家との通信に集中するあまり、お嬢がのたのた寝室から出てきたのに気が付かなかったようでやす。


「おはようー」

「お、おはようっす」

「朝も早くから、熱心ねえ……」

「ええまあ……」


 異世界古代端末「タイプライタ」の映像投射画面を、さりげなくお嬢の視線からずらしやす。


「いつもの大家との連絡でやすよ」

「へえ……。いつもだとポチポチで終わりじゃないの。なんで今日だけ――」

「それに早くもないでやす。お茶を淹れておきやした。お嬢の朝寝が過ぎるんで、そろそろ冷める頃合いかと……」

「やだ、早く言ってよね」


 食卓につくと、さっそくお茶を味わってやす。


「この配給のお茶って、熱いうちはいいけれど、冷めると味が落ちるのよねー。沼桜のお茶と違って、なんせ配給品は安物だから」

「さいっすな」

「そう言えば、お魚さんが眠るときって、枕使うのかしら。横になるとしたら、どっちが下? 右? それか左か……」

「左でやしょう」

「まあ……」


 手を口に置いて、目を見開いてやすな。


「じゃあ左利きのお魚さんは、どんな形で――」

「右を下にして寝やす」


 お嬢の癒し系謎トークに適当に答えつつ、目立たないように端末をいじりやす。


 実は大家からの面倒な案件が入ってやす。受けるのが嫌で逃げようとしたんでやすが、この端末が厳しい。いやつまり、古代文字のキーひとつひとつがコマンドに割り振られてるんで、定形業務の返答には便利なんでやす。たとえば――


 ――三六五三二室の水漏れに対処せよ――

 ――了解――

 とか

 ――今日は無理。なる早で――

 とか


 こう、コマンドひとつで回答できる。ところが事情を説明して逃げようとすると、とたんに難易度が上がるんでやす。コマンドを組み合わせて会話するのが、とてつもなく難しいので。大家側は自由入力なんで楽ですが、こっちからはね……。


 早い話、細かなニュアンスをやり取りできないよう、あっしら、端末でコントロールされてるってわけで。緊急事態用の通信システムもこの管理人室には実装されてるものの、普段使うわけにもいかないんでね。


 今朝、筋の悪そうな案件が入ったんでやす。そういう案件は、なにかと危険。なのでなんとか避けようとしたわけで。でも無理っすな。茶請けのふわふわ菓子を幸せそうに口に放り込むお嬢を見ていて、あっしは諦めやした。


 まあなんとかなるっしょ。なるんじゃないかな。……ちょっと覚悟が必要かも。


 仕方ないので、お嬢に事情を説明しやした。手短に。


 古いためか、上下に通じる階段の防火壁がときどき勝手に閉じて困っているフロアがある。これまではたまに閉じる程度だったが、ここ最近は頻繁に閉じる上に、閉じると一か月近くも開かなくなるので、物流や店子の移動も厳しい状況だと。


 営繕妖精が対処すべき案件なんでやすが、機械室の操作部が謎のシステムでロックされていて、どうにもならない。管理人の対応を望む――。と。


「それにしても、なんだか大変そうねえ……」


 管理人室庭の亜空間扉の前で、お嬢が首を傾げやした。


「〇二八フロアってことは、初期階層でしょう」

「へい」

「それならコストを死ぬほどかけて、しっかり建築されているはずじゃない。それなのに故障頻発だなんて」

「初期階層だけに、設備が古いせいかもしれやせん」

「そうかもね」


 ほっと息を吐いて。


「まあ、ちゃちゃっとやるか。いつものとおりに」

「そうしやしょう」

「早めにお昼にしたいしね。……お腹減ったから」

「食べたばかりじゃないっすか」


 この天然くいしんぼエルフめ。あっしが呆れ返って見つめると、お嬢の頬が染まりやした。


「じ、冗談だし……」


 このアパート「にれの木荘」は、数字の少ないフロアから建設され、徐々に下層に向かって開発が進んだとされてやす。予算が潤沢だった初期フロアのほうが基礎がしっかりしているので、大規模修繕を経ても造作がいいんで。


 いえ一般的にはって話ですがね。例外はどこにもあるので。とにかく上層階への引っ越しを狙う成金とかは、普通によく聞く話でやす。


「ギイイイィイーッ」


 〇二八フロアに通じた扉を開けて、あっしらは廊下に踏み出しやす。


「へえ……。上層は、やっぱりきれいねえ」


 お嬢が周囲を見回して。


「上層階は久しぶりですからね、あっしらも」

「気のせいか、空気も澄んでるし」


 目を閉じて、匂いを嗅いだりして。


「空調システムの容量が大きいんでしょうな」


 廊下は、壁も天井も、鈍色に輝く金属製でやした。床はつるつるした白の謎素材。多分樹脂の類と思いやすが。特に壁には樹脂か木材と思われる焦茶の装飾が、横一筋に施されてますな。表面に縄目のような抽象模様が彫られていて、なかなか見事。こりゃ不動産価値も高そうでやす。


「部屋も広そうだしねえ……」

「さいですな。……〇〇室、つまり番外地の機械室は、よくあるパターンで、一番端のようで」


 廊下左右、玄関扉が、随分離れて位置してやす。ということはお嬢の言葉どおり、居室のひとつひとつも広そうでやすな。


「遠いの嫌だわあ……」

「でも思ったより奥行きがないですぜ、この階層。ほら、店子の方々とか営繕妖精が向こうに溜まってやす」


 指差すと、お嬢が頷いた。


「うーん……。三〇分は歩かなくて済むか」

「行きやしょう」

「うん」


 歩いていくと、たしかに、機械室の近くにある階段室の防火壁が閉じてやす。


「まあ、これじゃあやっぱり不便よねえ」

「そうっすね、お嬢。配給は物流室の『エレベータ』があるんで、生き死にがどうとかいうほどの大問題ってほどじゃないっすが」

「でも移動ができなくなると、気晴らしや買い物で別フロアに出たまま戻れなくなる店子さんもいるしねえ……」

「足止めくらうと、アパート内旅館に泊まるか、頼んで他人の部屋に泊まるしかなくなりやすしね……」

「それにさあ……」


 お嬢が、眉を寄せやした。


「ほら、この間のウェアウルフさんとかだって、釣りに出たまま十日も部屋に戻れなくなったら、どうなるか」


 ウェアウルフの「飼い犬」ケルベロスが飢えたら……。想像するだけで恐ろしい。空腹のあまり部屋をぶち破って、三つの頭から地獄の炎を吐きながら大暴れされたら、あのフロアは大パニックでありやしょう……。止める自信はないっす。


 問題の部屋に近づくと、店子がひとり近づいてきた。小柄なヒューマン、中年の男性と、バンシーと思しき長髪の娘が。


「ああ、やっと来てくれた。――管理人さんですよね」

「ええ。わたくし、管理人のイェルプフですぅ」

「あっしは補佐のコボ――じゃなかったキッザァっす」

「すみません。わざわざ管理人さんご本人にお出ましいただいて」


 深々と、バンシーさんが頭を下げる。


「いえ、これも管理人の務めですから。お気になさらず」


 お嬢ものほほんと、これまたがっつり頭を下げてやすな。


「営繕妖精さんでは、全然対応できなくて……」

「珍しいわよねえ、コボちゃん。妖精ちゃんは超人並に万能なのに」


 集まっていた営繕妖精からひとり、静かに近づいてきたっす。お嬢の顔を見ると、額の光源が、カチカチを音を出して点滅して。管理人を識別しているんでやす。


 営繕妖精は、銀色に輝く金属の体を持つ妖精でやす。人型で、体長は一・五メートルくらい。ヒューマンであれば目に相当する部分には、「ニキシー管」とか呼ばれる魔導ガラス管になっていて、行動を表す数字が、オレンジ色の炎として輝くのでやす。


 今は右目が「3」で左は「9」。大家作成の管理人マニュアルによれば、「通常使役モード」とかいう話ですな。


 営繕妖精が、機械室の扉を指差したっす。妖精たちは普段は無口なんでやす。あっしもほとんど声を聞いたことがありやせん。


「うわ。ひっろい」


 部屋に入ったお嬢が、感嘆の声を上げやした。たしかに広い。造りとしては一部屋と水回りだけの単純なものでやすが、ちょっとした球技の競技場ほどの床面積がありやす。機械室というイメージとは裏腹に、床から天井まで、廊下の壁と似た茶色い樹木張り。重厚な造りで、手入れ油のいい香りが漂ってやす。


「それにこの機械室、どうやら人が住んでたようでやすな」


 やたらと広いだけでも機械室としては異質なのに、上質の寝台だの読書卓だのが並べられ、機械以外の壁一面には造り付けの本棚。とにかく古そうな大判の書物が、所狭しと並んでやす。


 書物は読書卓だの寝台だのにも溢れていて、まるで昨日まで、誰かが読書三昧の生活を送っていたかのよう。使われていない部屋特有の、埃っぽい澱んだ空気に、書物の革装の香りが漂ってやす。


「これは……どういうこと」

「ここは太古の昔、ゴルディアスという賢人が住んでいた部屋です」


 店子のバンシーさんが説明した。


「機械室に店子だなんて、前代未聞っすな」

「ゴルディアスさんねえ……」


 お嬢が首を傾げやした。


「聞いたことないわあ、わたくし……。知ってる? コボちゃん」

「いえ、あっしも知りやせん」

「なんでも古代三賢人のひとり、ノシムリ博士に仕えた賢者だとか」

「ノシ……ムリ」


 目をつぶると、お嬢が目頭を押さえやす。


「また……頭痛が……。ずきずきと」

「お嬢、深呼吸するでやす」

「うん」


 はあはあと、苦しげな息でやす。


 頭痛が収まってお嬢がようやく落ち着いた頃――。


「私がお話ししましょう」


 例のヒューマンの旦那が切り出しやした。


「この〇二八フロアだけに伝わる伝説を」


 ここで聞いた他愛ない伝説が、ずっと後になってあっしらの運命にとてつもない影響を与えることになるとは、そのときはまだ、お嬢もあっしも、全然気づかなかったんでやす。その伝説とは……。

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