7. すれ違って傷つけて、そしてもう一度
「日結花ちゃん。僕は日結花ちゃんが好きです!大好きです!僕が君のことを絶対に幸せにしてみせるので、ずっと側にいてくださいっ!」
「あ…あぅ……は、はい…」
「ええ…」
顔が熱いっ。な、なんで…いきなりどうして。こんな、ドア開けようとしたら郁弥さんがいて…と、突然告白されて…。あたし謝りに来たはずなのに…これじゃあなんにも言えないわっ。
「…突然すぎて意味がわからないのだけれど、そもそも"思い出の場所"ってここだったの?」
「え?う、うん。そうかなぁって思ったからどうしようか迷ったんだけど…」
―――ぎゅっ。
「あ…ぅぅ…」
や、やだ…いきなりぎゅって。どうして、なんで?あたしなんにも良いことしてないのに、郁弥さん傷つけただけなのに…っ。こんな、こんなことされたら…。
「だからさっきあんな表情を…郁弥さん。どさくさに紛れて人の親友を抱きしめるのはやめてもらえるかしら?」
「あ、あはは。ごめんごめん。でも、こうするべきだと思ったから」
「ぅう…ぐすっ…なん、で。あ、あたし…あなたのこと…ぐす…」
「ほら日結花泣いたじゃないの。あなたのせいよ?」
「ご、ごめんね。よしよし、大丈夫大丈夫。ちゃんと僕は日結花ちゃんのこと大好きだからね」
「うぅ…ぐす、ひっく…あた、し…ぐすん…子供じゃないもんっ…」
涙が止まらない。抱きしめないで。頭なでないで。優しくしないで。もっと…もっと、怒ってよぉ…。
「わかってる。わかってるよ。日結花ちゃんは大人だよね。僕の好きな、世界で一番大好きな女の子だよ」
「うぅぅ、ぐす…ばか…ばかぁぁ」
こんなこと言うつもりないのに、ほんとはもっと大好きなこと伝えたくて、ごめんなさいって謝りたくて、なのに…なのに。どうしてなのよっ。あたし、涙が止まらない。全然、止まらなくて…っ。
「安心して。もう離れないから。もう逃げないから。大丈夫。もう…決められたから」
「ひぐ…ぐす、っすん…ずず…ぐす、ず…」
優しく、優しく声をかけてくれる。大好きな人の、大好きな声が、優しい手の温もりと一緒に降りてくる。固まっていた心を解すようにゆっくりとなでられて、そのぶんだけ涙があふれてしまう。
「…はぁ。まったく、本当に手間のかかる人たちね」
どうにか落ち着かなくちゃ。あたし、だってちゃんと言ってないもん。郁弥さんに伝えなきゃいけないこと、たくさんあるから…。
「ふぅぅ…ぐす、ひっく…ぐずん…」
「あ、あはは…とりあえず、うん。落ち着くまで側にいるからね。うん、うん」
うぅ…なでられると涙止まんないのにぃ…ばかぁ。
「……」
「…もう落ち着いた?」
「……うん」
やっと…落ち着いたのはいいけど…。
「いったん離れる?」
「…いや」
離れるのは…やだ。せっかくぎゅぅってしてもらえたのに、離れたくない。
「そっか。うん。いいよ。僕も今のままの方がいいからね。座りにくいけど」
照れりと笑って言ってくれた郁弥さん。彼の言う体勢とは、椅子に座った郁弥さんの膝に横向きで座ってぎゅーぎゅーくっついている状態のこと。背中に手を回してもう離れないようにしている。
…離れたくないんだもん。
「…そこのカップル。他人の目があることを忘れないこと」
「あー…まあ、うん。気にしないでいいよ。見なかったことにしてくださいな」
「…絶対離れないんだから」
我ながら…口に出る言葉がいちいち幼くなってるような気がする。
なんなのよもう…感情のコントロールが効かないんだけど。涙は止まったし、もうちゃんと言葉も話せるのに、いつも通りに話せないのはどうして?
「はぁ…ええ、そうね。話が終わるまで待っていてあげるからさっさと話しなさい」
「うん。ありがとう」
あたしは郁弥さんの肩に顎を乗せてくっついているから知宵の姿は見えない。でも、なんとなくひらひらと手を振っているような気がした。
「じゃあ日結花ちゃん」
「…ん」
名前を呼ばれて小さく頷いて返す。
「ふふ、くすぐったいよ」
「んぅ…」
あたしの髪が当たったからか柔らかく笑った。今日最初に見た寂しそうな笑顔じゃない、あたしの知ってる、大好きな人の大好きな笑顔。
「顔を見せてもらえるかな」
「や、やだ」
「どうして?」
ふるふると首を振っても、やんわりと髪をなでつけられて抵抗が弱まってしまう。
ずるい…。でも、今は見せたくないわ…。
「だって…涙でお化粧落ちてるもん」
「ふふ。そんなの気にしないよ。僕の大好きな人の顔を見せてもらえないかな」
「あぅ…」
そんなこと…そんなこと言われたら、なんにも言い返せないじゃない…。
優しく言われて、何も言えなくて、ゆっくり顔を引いていく。その途中で郁弥さんがあたしの頬に手を添えてくれた。
「うん。やっぱり可愛いよ。僕の好きな日結花ちゃんのままだ。目元ちょっと黒くなっちゃってるけど、ふふ、それも可愛く見えちゃうね」
「うぅ…」
頬に手を添えたまま綺麗な笑みを浮かべて褒め言葉を口にする。
言葉の一つ一つが嬉しくて、温かくて、話さなくちゃいけないことはあるのに上手く言葉が出せないまま顔が熱くなる。
「あはは、顔赤くなってるよ。うん。それじゃあ日結花ちゃん。少しの間目を閉じてもらえる?」
「ん…うん」
恥ずかしくなって、言われた通りに目を閉じる。郁弥さんのことだから何か考えが―――。
「…ん…」
「んんっ…ぅん…」
……ちゅー…されちゃった。
「あ、あはは…うん。僕なりのけじめ、みたいな、ね」
「…も、もう一回っ」
あ、お、思ったように言葉出たっ。う、ううん。そうじゃなくて、今はもっと大事な話があるんだった。ちゅー…もう一回だけしたいわ!
「え?う、うん……ちゅ」
「ん…っん……ふぁ…え、えへ。えへへ」
キスって…し、幸せなのね。柔らかくて、気持ちよくて、幸せで……えへへ。あたし、郁弥さんとちゅーしちゃったっ。
「えへへぇ…好き。郁弥さん大好き…」
「…ふぅ、じゃあこのまま話そうか?」
「んぅ…うん。でも、待って…。先に言わせて?」
ちゅーをされたおかげか、言いたいことをきちんと言葉にできるようになった。だから、今伝えておかなくちゃいけない。
すぐにでもキスできちゃいそうなこの距離で、見つめ合いながら話を始める前にこそ言わなくちゃ。
「いいよ。なんでも言って」
ほんのり微笑んでくれた郁弥さんの目を見ながら、小さく深呼吸をする。
目の前の大好きな人とつい一分も前には唇を重ねていたと思うと、心が満たされてするりと言葉が出てくる。
「ごめんなさい」
「…うん」
「あなたを傷つけたわ。ひどく傷つけた。あなたのこと一番わかってるのはあたしなのに、一番知ってるのはあたしなのに、それなのに、傷つけちゃった」
「…うん」
「郁弥さんのこと疑って…ううん。あたしが欲張りだっただけ。自分勝手なあたしがばかなことをしたせいで、郁弥さんにひどいことしちゃった。どんな気持ちでいるかとか、どんなこと思うかとか、全部わかってたはずなのに、それなのに」
「いいよ」
「よくないわ。あなたの全部知ってるんだもんっ。今までたくさん聞いてきたのよ!あたしのこと信じて、教えてくれて!信頼してくれてっ!あたしのしたことであなたがどれだけ苦しむかなんてわかってたはずなんだもんっ!それなのにあたしはっ」
「もういいんだよ」
「全然よくなっんん……ん…」
「ちゅ…ふ……落ち着いた?」
「…んぅ…ずるいわ」
キスで口を塞ぐなんてずるい…。
「でも、落ち着いたでしょ?」
「…ずるいわ」
優しく笑う郁弥さんに言い返せることはなくて、同じ言葉を続けた。本当に落ち着かされてしまったから、もう何も言えない。
それに…郁弥さんとのちゅーは、魔法のキスみたいに心がそれだけでいっぱいになっちゃうから…。全部満たされちゃうのよ…。
「ごめんね。でも日結花ちゃんにそんな悲しい顔してほしくなかったんだ。照れたり、恥ずかしがったりして、楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに笑っている方が好きだから。さっきみたいに辛そうな顔じゃなくて、今みたいに照れてむすっとしてる方が断然可愛いよ」
「…ばか…郁弥さんのばか…」
嬉しいのと恥ずかしいのと、ちゅーで話を止められてもやもやするのと。いろんな気持ちが混ざってすごく複雑。
どうしてこの人は…あたしのこと全然怒ってないのよ…。わかってる。わかってるわ。…郁弥さんが怒らないのは、それだけあたしのこと大切に思ってくれているから。だから余計に…。
「ふぅ…ん…」
「ん……んぅ…またちゅーしたわ…なんで…」
「今の日結花ちゃん、すぐ考え込んで顔暗くなるからね。その都度キスをすればいいかなぁと」
「そ、そんな…」
うぅ…そんなのずっとちゅーされっぱなしじゃない…。嫌じゃない、けど…。でも、それじゃあ他のこと全然考えられなくなっちゃうわ。
「それじゃあ、ええと、まずは日結花ちゃん」
「ん…なぁに」
「改めて僕が決めたことを聞いてもらえる?」
「…うん。聞く」
「ありがとう」
キスをされて、目と鼻の先で問いかけられて、自分でも驚くくらい落ち着いた声で返事ができた。
「僕さ。日結花ちゃんと恋人になるのが怖かったんだ」
「…ん」
「日結花ちゃんの恋人になって、一緒に幸せを目指して、日結花ちゃんを幸せにしようと生きていく。そうやって…君の人生を背負うことが怖かったんだよ」
「……うん」
言いたいことは、わからないでもない。郁弥さんという人を知っていれば、この人がそういった思いを抱くのもおかしくないと思えるから。
あたしだって、同じようなこと少しは考えたもの。
「気づいていたけど気づいていないふりをして、無意識でか日結花ちゃんに近づくことを避けていたんだ。だからかな。恋人になってからもずっとキスをしようとしなかったの」
「…うん」
「ずっと逃げてきて、恋人になって前に進んだと思っていたけど実は止まったままで、それで…思ったんだよ」
「……ん」
「結局、君に対する僕の態度をどこかで君が見抜いていて、それが不安になっちゃったんだって」
「それは違…」
後悔と、悲しみと、苦しみと。優しく語りかけるような話し方の中にいくつかの気持ちが混じっている。反論をしようとしたのに、さっと唇を指で押さえられて何も言えなくなった。
「違うかどうかはわからなくていいんだ。ただね、僕がそんな態度を取り続けていたことは事実なんだよ」
「…はむ」
難しいことを言って諦めたように笑う恋人の指を口に含んだ。
ひどいことを言ったあたしが言えることは何もなくて、郁弥さんが色々考えて自分で決めたことを覆すなんてできるはずもなくて、それでも、"自分に責任がある"だなんて言ってほしくなくて…だから、せめて今見せている悲しい表情だけでも変えたくて。
「んん!?…ええと、指咥えないでもらえる?」
「ん……続けて?」
なんとかなった、みたい。恥ずかしいことした自覚あるし顔も熱くなっちゃったけど、ちゃんと胸が痛くなる顔だけは変えることができた。やっぱり…郁弥さんは柔らかくて優しい雰囲気でいてくれた方がいいわ。
「う、うん。原因はどうあれ、僕が曖昧な態度でいたことは事実だから。だから、覚悟とかできてなかったけど、先に日結花ちゃんに会って話したいと思って急いでお店を出ようとしてね」
「うん」
「そうしたら日結花ちゃんがいて、会って日結花ちゃんの顔を見たらすぐに決心がついたよ。この子の側にいたいって、僕がずっと支えてあげたいって、他の人じゃない、僕が君を幸せにしてあげたいって、そう思ったんだ」
「…んぅ」
ふわりと微笑みながら、あたしの頬に手を添えて話を続ける。
いつもと同じ、ううん。いつも以上に優しい顔で、なのにどこか瞳の強さが違う。これが彼の言う心の変化だとしたら、それはきっと…すごく、あたしが思っているよりずっと大きなことなのかもしれない。
「そうしたらもう、自然に言葉が出ちゃってた。君の人生を背負う覚悟とか、君を幸せにできるかわからない恐怖とか、そういったものを全部受け入れられたわけじゃないよ。でも、それ以上に思えちゃったんだ。僕の人生すべてを賭けてでもこの子を笑顔にしたいって、日結花ちゃんの笑顔をずっとずっと側で見ていたいって、そう思っちゃったんだ」
「…あぅ」
上手く言葉が出なかった。言われたことが理解できるにつれて全身に熱が巡る。
好きで好きでどうしようもないほど大好きな人に、ずっと側にいたいと言われるくらい好かれていることがわかって、そこで思考が止まる。
「だからね。僕はもう離さないよ。本気の本気で日結花ちゃんが離れようとするまで、逃げないし離れない。僕から離れられなくなるくらいに幸せでいっぱいにして、他の誰にも目が向かないようにずっと幸福で満たすつもりでいくから」
「ぅう…」
言葉の途中で抱きしめられて、ただうなり声が漏れる。
嬉しくて、幸せで、もうこれ以上ないくらいに幸福で…。あたしも同じことを言おうと思うのに、考えが全然まとまらなくて言葉が上手く作れない。
「そのつもりなので、キスとかハグはもう普通にしちゃうから。これまでしてこなかったぶん、あんまり深く考えないで受け入れちゃってね」
「ぅぅ…そんなこと言われても…」
もう、もう受け入れちゃってるわよ。考えないなんて無理なのに、郁弥さんのばか。好きな人から抱きしめられたら幸せでいっぱいになっちゃうんだから…。
「ええと、それで…最後にもう一度」
「んぅ…ま、まだあるの?」
ぎゅっと抱きしめている腕が離されて、さっきまでの見つめ合う体勢に戻る。
いきなり抱きしめたり、離したり。名残惜しいのに、顔を見られるのもそれはそれで嬉しくて、また真面目な顔して…最後はなんなのよ。
「うん。僕の側に…これからずっと、ずーっと先まで一緒にいてくれますか?」
「あ…は、はい…いさせて、くださいっ」
本当に…この人は。どこまでも、どこまでもずるい人。
あたしの大好きな笑顔で、あたしの大好きな声で、こんなタイミングでそんなずるいことを言うなんて…もう、離れられなくなっても知らないんだから。
「あぁ、よかった。…ん」
「んん…ふぁ…ん……」
もう一度、ふんわりと唇を合わせてきて、ゆっくりと口づけを交わす。お互い自然と唇を離し、余韻を味わいながら
「日結花ちゃん、大好きだよ」
「あたしも…郁弥さんのこと、大好き」
キスと同じようにもう一度好きを伝えあって、あたしも郁弥さんも、示し合わせたように笑顔を浮かべた。
どこにでもあるありふれた一日の出来事は、彼女が成長しただけじゃない。僕が、藍崎郁弥が成長したものでもあった。
自分しか見えていない。いいや、見えているようで見えていなかった自分のことを見て、彼女からもらったものに気づいて、そうして止まっていた足をしっかりと動かし始めた。
確かにある人との繋がりを胸に、僕は僕自身の人生を求めていくことにした。彼女だけじゃない。これからは彼女と僕、二人ぶんの幸福を求めていくのだ。
この短い一幕で、僕は、藍崎郁弥は咲澄日結花に二度目の恋をした。それはきっと、本当の意味での恋なのだろう。もう二度と離れないように、離さないように、自分の人生を賭けて愛していこうと、そう誓った。
これは、僕と日結花ちゃんが前に進むためのお話。傷ついて、傷つけて、そうして手を取り合って、しっかりと地に足をつけて前に進むためにあった些細な、けれど大切な、とても大切な出来事。
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