6. すれ違って傷つけて、そしてもう一度
「あと二つ大事な話があるのだけれど、いいわね?」
「え、うん。二つか…。割と話してくれたと思ったんだけど、まだあるんだね」
「ええ。面倒くさいあなただから色々伝えなくてはならないことが多いのよ」
「う…それは申し訳ない。お手柔らかにお願いします」
「ふふ、任せなさい」
長々と話しているような気がしている二人だが、まったく疲労を感じさせない楽しさがあるため会話に沈黙はない。
どちらも
「まずは先にあなたのお友達話でもしましょうか」
「え…それ、もう終わったと思うんだけど」
「いえ?終わっていないわよ。あなたを心配して気にかけてくれている人が、少なくとももう一人はいるじゃない」
言われて郁弥は困惑の表情を浮かべた。
知宵や正道という自身の繋がりを実感して、それだけでもう十分だったというのに。まだ他にも誰かと繋がりがあるとは考えてすらいなかった。
「それは…いったい誰なんだ…」
まるでサスペンスドラマのような深刻な顔で呟く。それを見た知宵の脳裏に
「…それはあなたが一番よく知っているのではなくて?」
「…時間もらってもいいかな」
「30秒なら」
「短いよ!ご…5分はください」
「長いわね。1分」
「全然足りないからね。4分はほしい」
「やはり長いわ。2分」
「うぐ…さ、3分で妥協してくれない?」
「ふむ…いいわ。許してあげましょう」
等々、そんな話をして郁弥は物思いにふける。
その間知宵は再度おかわりを頼み、隣の友人に一言声をかける。
「お花を摘みに行ってくるわね」
「あ、うん」
こうしたことも気軽に言えるのは友人ならではね。内心思って頬を緩め、足を動かす。
お手洗いに向かう途中、店主の
そう、もう一人というのは白本のことだった。考えてみれば当然である。白本は郁弥が八胡南に引っ越してからの付き合いになる。年数でいえば、4年と半年ほど。既にそれだけの時間が経っているわけで、白本が郁弥を気にかけるようになったのも当たり前のことと言える。
「…ふぅ」
そのようなやり取りなどカケラも知らない郁弥は、ホットミルクをちびりと飲んでほっと一息。
友人との会話が楽しくストレスのないものだとしても、頭には常に日結花のことが残っている。それでも、知宵の話を最後まで聞くつもりであるのに変わりはない。なぜなら、現状で日結花に対して何をすればいいのか、何ができるのかわからないのだから。
確かに正道の話でもう一度日結花と話すことを決めた。あの子の気持ちを、あの子の考えを、直接すべて聞こうと思った。
(だけど、聞いてどうする?)
胸の内で呟く。
そう、郁弥にはまだわからないのだ。自分のするべきこと、自分にできること、彼女の…日結花のためにやりたいことが見えないのだ。
「…はぁ」
温かいミルクを口に含み、それからため息を一つ。
迷路にはまりそうな思考を止め、現実に引き戻す。今考えなければならないことは知宵との話だ。自分のことを心配し、気にかけてくれている人―――。
「ただいま」
「あ、お、おかえり…」
普通に声をかけただけなのにやけに動揺している郁弥を見て、知宵は怪訝な顔をする。
しかしそれもすぐに納得へ変わり、焦りを含む瞳を見つめながら口を開けた。
「答えを聞かせてもらおうじゃない」
相手の状況をわかっていても躊躇なく聞くところが知宵である。しかし、こうした知宵は親しい間柄でしか見られないものなので、案外珍しかったりもする。
「や、やはは。まだ3分経ってないと思うんだよねー」
「ふふ、面白いことを言うわね。残念だけれどとっくに過ぎているわ」
ひらひらと腕時計を見せて言う。実際、知宵が席を立って座るまでに3分以上は経っている。郁弥が考え込んでいたため気づいていなかっただけなのだ。
「ええと…だ、誰かな。神さま、とか?」
「……はぁ」
苦し紛れの回答にため息を返す。郁弥の様子からだいたいの回答を予測していたが、実際に言われると気の抜けるものがある。
「もう面倒ね。どうせ思いつかないのだからさっさと伝えるわよ」
「…うん」
しょんぼりする友人を見て知宵は頬を緩める。
本当にこの"友人"は見ていて飽きない人ね。そんなことを思いながら答えを告げた。
「今ここにいるじゃない。何年目になるかは知らないけれど、少なくとも私と同じかそれより前程度から顔見知りになっていた人がいるでしょう?」
「…あ」
ふっと考え込んですぐに顔をカウンターへ向ける。そこにはのんびりと棚の整理をしている店主が一人。
郁弥が知宵と出会ったのはおおよそ3年前。仕事に落ち着きが出てからジョギングを始めたため、カフェの店主である白本よりも遅かった。加えて、カフェでは自身のことを吐露することも多く、アドバイスをもらうことも多かった。それだけ親しくなっていたのだから、"友人"として考えてもおかしくはない。むしろ今までそう捉えてこなかった郁弥がおかしいのだが…それは彼の性質によるものであったためどうしようもないだろう。
「ええと…白本さん」
「はは、なんだい郁弥君」
「僕のこと、心配してくださっていたんですか?」
「…やれやれ。君は相変わらず真っすぐだね」
苦笑する白本とのやり取りを見て、郁弥の隣に座っている知宵はくすりと笑みをこぼした。
「まあ、それが君の良い部分だとは思うがね…。答えはイエスさ。これでも君のことを友人だと思っていたんだが…郁弥君は違ったかい?」
「いえ…いえ、そうです、よね。…あはは、今まであれだけお世話になっておいて他人だなんて言えるわけありません。友人として…。白本さん。僕の友人として、これからもよろしくお願いします」
「うむ。こちらこそさ。店のことも君に相談させてもらってきたからね。これからもよろしく頼むよ」
「はいっ」
短いやり取りではあるが、郁弥と白本にとってはそれで十分だった。これはただ郁弥に気づかせるためだけの会話であり、既にしっかりとした信頼を積み上げてきていたのだから。
「さて、ようやく最後の話ができるわね」
「うん。…お願いします」
最後に話すことがなんなのか、郁弥もおおよその見当はついているため神妙な顔で頷く。
「そろそろあなたも
「うん」
「郁弥さん。あなたがもう一度日結花に話をするつもりでいるのはいいわ。けれど、いったい何を話すつもりなの?」
「それ、は…」
知宵が話したかったこと、の前提としての問いかけ。郁弥からすると今ちょうど答えの出ていない質問であり、口の動きが止まる。
「なるほど…。その反応だけで結構よ。どうやらあなたは何を話すのか決めていないようね」
「ぐ…め、面目ない」
「いいのよ。そんなことだろうと思っていたから」
知宵の微笑みが胸に刺さる。とはいえ事実は事実なので反論もせず静かに頷く。
「まずはあなたが振られたという話からだけれど…日結花のお父さん、正道さんが言っていたわね。日結花との時間を考えてやってくれと」
「そうだね」
「そこでよ。あなたが日結花から逃げたとき、きちんとあの子の様子は見たの?」
「逃げたって…いや正しいんだけど、僕も傷つくんだからね?」
「あら、友達に遠慮する必要はないでしょう?」
「…はぁ。うん。わかったよ。様子…様子か…」
知宵は諦めて目を閉じる友人を見て満足げな笑みを浮かべる。
目を閉じ、ほんの数時間もいかない前のことを考える。日結花はどんな顔をしていたか…。
「…割と緊張していた、かな」
割と、というよりかなり、といった方が正しいか。顔も身体も固く、いつも明るく太陽のような雰囲気は陰ってしまっていた。もちろんその可愛らしさや魅力は健在だったが、輝きが曇っているというのは見過ごせない。
いつもの自分ならすぐにでも声をかけ、話を切り出してくれるまで待つというのに…。そんな、愛おしい人の顔一つ満足に見えていなかった自分に苦笑いがこぼれた。
「…少しは理解できた?」
「あはは…うん。少しは」
気づいてみれば紐づけされたように次々と不審点が見えてくる。表情だけじゃない。声もそう、態度もそう。あの子が、よりにもよって咲澄日結花があのような短い言葉で済ませるはずがない。本気で大好きな人を見つけたならば、彼女はきっと気まずいながらも幸せそうに微笑むだろう。
藍崎郁弥が知っている咲澄日結花という女性は、自分のことを人任せにするような女性ではない。誠実かつ真正面からぶつかるような芯のある女性なのだ。
「そうね。あなたが気づいた通り、あの日結花が親しい相手に遠回しな対応をするわけないのよ。振るならもっと堂々と、後腐れなく考える余地もないくらいばっさりと切り捨てるわ」
「あぁ…そうだね。日結花ちゃんなら、きっとそうするよ」
心が軽くなったはいいものの、まだ自分がやるべきことは見えてこない。もし今の問題が解決したとしても、いつか同じような問題が生まれてしまうだろう。そのときどうなるかなど、現状を見れば明らかだ。
「ええ、それじゃああなたがわかったところで話をしましょう。これからあなたがするべきことよ」
「え…」
まさかそこまで何か考えがあるのか、と目を丸くして驚く。
「ふふ、そう難しいことじゃないもの」
知宵はそう言うが、いくら考えても答えが出ないものを簡単だとは思えない。
「…教えてもらってもいい?」
「ええ。もちろん。そのための友人でしょう?」
にこりと微笑み言葉を区切る。そして一口レモンティーを飲み、短く言葉を続けた。
「あなたが変わりなさい」
「っ」
短く、簡潔なことだというのに、それがどうしてか郁弥の胸に強く響いた。
「郁弥さん、あなたが変わるのよ」
「どうやって…」
「答えはもう出ているはずよ?」
「……」
そう言われても、と心で呟く。
ただ、知宵の言葉は自信に満ちていて自身の言葉に疑いを持っていないように思える。そうすると、やはり自分の中に答えがあるのかもしれないとも思う。自分が気づけていないだけで…。
「難しいことじゃないと言ったでしょう?今回どうしてこんなことが起きたのか、それを考えるだけ。散々日結花とも話してきて、あなた自身もずっと考えてきたこと。郁弥さん、あなたは日結花に対して何をしたいの?」
「それは」
伝えることはもう十分と、知宵は一人携帯に目を落とした。
郁弥からしても実際に今言われたことは簡単で、知宵の言う通りずっと考えてきたこと。
今回の問題は日結花のよくわからない行動のせい。おそらくは悪戯か何かかと考えられる。本気で別れるつもりはなくて、ただ少し。
(僕の気持ちを確かめたかった…)
それが一番しっくりきた。しかし、自分の気持ちはずっと伝えてきたつもりではある。恋人として振る舞うようになってから既に一年近く。不安定な"良い人"という関係でいた頃よりも距離は近く、世間でいう"恋人"と同義くらいには密な時間を重ねてきたと思う。
それでも現実は変わらない。自分が大人げなく泣いてしまったことも変わらず、日結花との間に問題が起きたことも変わらない。
ならば、原因はあるのだ。日結花がそんな不安を抱えてしまうような何かがあったのだ。
「……」
目を閉じ、
自分は何をしてきた。彼女に、咲澄日結花にいったい何をできた?ずっと幸せであってほしいと願ってきた。それは恋人になってからも変わらず、この一年も変わらない。恋人(仮)という関係性はお互い納得済みで、今年の年末にはその関係性も終わり、本当の意味で恋人になるかもしれないと思っていた。
日結花の幸せを願って、その一助になれればいいと思って、気持ちを、想いを伝えて……本当に?
本当に、僕は想いを伝えてきただろうか。確かにあの子の幸せを願っている。誰よりも日結花ちゃんの幸福を願っている。だけど、それだけが全てじゃない。本当は…本当は、一緒に幸せでいたい。
「…あぁ」
そうだ。僕は彼女と一緒に幸せでいたいんだ。僕が誰よりも、何よりも大好きなあの子と一緒に幸せになりたい。彼女の幸せを願うだけじゃ物足りない。僕自身が彼女の側にいないと嫌だ。二人一緒の幸せじゃないと嫌だ。そのために僕が彼女を幸せにしないといけない。幸せにしないと―――。
「―――」
だが、そう、郁弥はそこまで思って一瞬思考を止める。
幸せにしなくてはいけないのに、それをしないのはどうしてだ?そんなことはわかっている。それこそ藍崎郁弥の本質が物語っているじゃないか。単純なことだ。
郁弥は怖かったのだ。あのとき全て話したと、全部吐き出したと、そう思っていたのに、まだ残っていた。
自分が、多くを忘れて切り捨てて、一人小さく生きてきた自分が、日結花のような太陽を幸せにできるか…。そう思うと、心が動かなかった。
彼女が幸せだと思うなら、彼女が幸せを選ぶなら、それは楽なことだ。自分は何もしなくてすむ。ただ見ているだけ、願うだけ、祈るだけ、待っているだけ。
もしも自分が彼女を幸せにしなければならないとしたら、それはきっと大変なことだ。人間一人の人生を背負わなければならないのだから、重いに決まっている。それが自身の最も大切にする人なら尚更、人生を賭けて臨まなければならない。それは、これまでの覚悟とは桁が違う、本当の意味で全てを賭ける必要があるだろう。
「…はは」
乾いた笑いがこぼれる。
僕は…甘えていたのか。そう思う。どこか楽観視していた。彼女なら自分で幸せを掴んでくれる。自分は願っているだけでも十分。そんなことを考え、恋人になっても未だ足を進めようとしていなかったのだ。
結局、藍崎郁弥は逃げていたのだ。日結花の想いに甘えて、自身の気持ちと向き合わず、いつまで経っても前に進まない。確かに行動はしていただろう。言葉にもしていただろう。しかし、日結花の人生を背負う覚悟はしていなかった。いや、しているつもりになっていた。
「僕は…」
追いかけるだけじゃ足りない。隣に立つだけじゃ足りない。一緒に歩くだけじゃ足りない。
「…僕は」
彼女を、日結花ちゃんを引っ張らなくちゃいけないんだ。
「行かなくちゃいけない」
自分に向き合った、本心は理解できた。それでも怖いことに変わりはない。勇気もない。覚悟なんてできていない。それでも、彼女に会わなくちゃいけない、そう思った。
「ふふ、そう。なら行きなさい。日結花は"思い出の場所"で待っているそうよ。あなたならわかるのでしょう?行って話してきなさい」
強い眼差しを見せる郁弥に、頬を緩めて最後に伝えるべきことを伝える。
自分にはわからない。けれど。郁弥と日結花はわかっているのだろうと、知宵はそう思っていた。
「え?…え、うん…わかったよ」
「…ん?」
微妙な顔で出口に向かう郁弥を見て、なんとなく嫌な予感がした。ただ何か言えることもなく、外へ向かう友人を見送る。
「あぁ、そうだ知宵ちゃん」
ドアに手をかける一歩前、郁弥は思い出したかのように振り返って知宵に声をかける。
「何か用?」
つい数秒前に見せていた微妙な表情はなく、知宵の瞳に映るのは柔らかい笑顔。『ルミエ・デュ・ソレイユ』に来たときとは大違いな良い顔に、ついつい頬を緩める。
「うん。本当にありがとう。友人って言ってくれてすごく嬉しかった。わざわざ慰めてくれてありがとう。知宵ちゃんも僕にとっては"恩人"になっちゃったね」
「あら、それは光栄ね」
知っているからこそ通じる言葉に二人はくすりと笑い合う。
「ふふ、それに」
郁弥はそこで一度言葉を止め、悪戯っぽく笑ってから続きを言った。
「もし僕が日結花ちゃんと出会っていなかったら、僕は、知宵ちゃんに惚れていたかもしれないね。…ううん。絶対惚れてたよ。本当にありがとうっ」
「な…っ」
ぱっと頬に朱を散らし、上ずった声をあげる。予想だにしない言葉を言われ、初心な知宵は大きく動揺してしまった。対して郁弥は言うだけ言って満足し、笑いながらドアを引く。
―――からんころん
「あ…」
「はぁ…はぁ……ふぅ…ふぇ」
「……はぁぁ」
ドアを開けて外へ出た郁弥を待っていたのは、息を整えつつドアに手をかけようとする日結花だった。
知宵は照れやら呆れやらドキドキやら色々と混ぜ合わせた深いため息を吐く。そして最後に、どうでもいいけれど、今の日結花の反応可愛かったわね。と。よくわからない部分に落ち着くのであった。
◇◇
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