5. すれ違って傷つけて、そしてもう一度

『はい、咲澄さきすみ正道まさみちです』

「こんにちは、青美あおみ知宵ちよいです」

『おお、知宵ちゃんか。…うん?知宵ちゃん?この番号、郁弥君のだった気がするんだけど…』

「あ。こんにちは。藍崎あおさき郁弥いくやです」

『おおお、そうか。郁弥君もいたか。よかったよかった。番号の登録を間違えたかと思ってしまったよ、ははは』


朗らかな笑い声が二人の耳に届く。


『にしても、郁弥君と知宵ちゃんの組み合わせというのは珍しいね。二人が住んでいるところは近いというのは知っていたけど、初めてじゃないかい?日結花ひゆかの声はしないし、そこにはいないんだろう?』

「はい。日結花はいません。実はそのことでお話が」

『ふむ…真面目な話かな?』

「そうです。続きは郁弥さんからになりますので、さあ、話していいわよ」

「え?」

「ん」

『…うん?』


知宵は郁弥の瞳を見つめ、郁弥は知宵の瞳を見つめ、電話先の正道は二人の様子に疑問符を浮かべる。

見つめ合う二人の認識に齟齬そごがあったための現状だが、知宵はあっさりとした態度で指示を出した。


「早く話しなさい?」

「え、う、うん…」


さも当然の如く言う知宵に、郁弥は釈然としないものを抱えながらも頷く。


「ええと…実は、日結花ちゃんに振られまして…」

『…ふむ……』

「それで…ちょっと沈んでいたんですが、僕と日結花ちゃんとの縁が完全になくなったとしても、正道さんは僕の…僕の先達でいてくれますか?」


その言葉を側で聞いていた知宵は首を傾げた。

"先達せんだつ"とはいったい。そんな気持ちが浮上するも言葉には出さない。郁弥が微妙な言葉の言い回しをすることを彼女も知っていたからだ。電話先にいる正道は特に何も思わず、というよりも、普通に聞いているように見えて日結花に振られたというセリフに衝撃を受けていた。


『あぁ…いや、それはもちろんだけど……先達とはなんだい?』


なんとか思考を戻して、問いかけたことは"先達"という単語について。それを聞いて知宵は、良い判断ですね、気になっていたのよ。などと考えたが、それは他の二人が知るはずもない。

郁弥は問われたことに恥ずかしさを織り交ぜて返事をする。


「あ、あはは。実はその、正道さんとの関係をどう呼べばいいのかわからなくてですね。友人というには少し年齢も離れていますし、話してきたことも日結花ちゃんのことばかりですから。上手く当てはまる言葉が見つからなくて、僕よりも人生の先輩になるならと…」

『なるほど。それで先達、か』

(へー、そうだったの…)


ついはっきりと考えてしまうほどには知宵も頷いて反応を示す。

郁弥が言っている通り、彼と正道との関係は難しいものがある。郁弥から見て、(元)恋人の父親で会話は基本的に日結花のことばかり。自分のことは生まれから今まで日結花との話を聞かれたために知られてしまっているが、自身は相手のことをそこまで知っているわけでもない。

ただ、忘れていることが一つ。


『先達というのはある意味違ってはいないけど、でも、僕は君のことを友人だと思っているよ』

「え…」

『確かに君との会話は日結花の話題が多かっただろう。むしろそれがメインではあったし、君が振られるなんてことはあの子に限ってあるはずないんだが…いやまあそれはいい。そうではなくて、郁弥君。僕はね、君の書く感想が好きなんだよ』

「感想というと…正道さんが渡してくださった本のことですか?」


二人の会話を聞いて、静かにレモンティーを飲む知宵はぱちぱちと目を瞬かせた。まさか本の受け渡しをして、しかも感想まで書いていたとは思ってもみなかった繋がり。顔を驚き一色に染めて、それからすぐやんわりと微笑んだ。


(なによ。あるじゃないの、ちゃんと繋がり)


優しい目で郁弥を見つめ、最近見せることも多くなった柔らかな笑みを浮かべる。


『うん。そうだね。色々と君から感想をもらってそれぞれ読んでみて、どれも郁弥君らしい感じ方で書いてくれていて面白かったよ。最初は日結花の…娘の恋人としてだったけど、日結花から話を聞いて会って話して、今はちゃんと郁弥君個人を友人として思えるようになっているんだ。なんというのかな、ふふ、読み友とでも言おうかい?』

「そう…ですか…。ふふ、正道さん。ありがとうございます」


正道の真っすぐな言葉を、最後に冗談まじりで伝えてきた言葉を聞いて、ふっと花開くように優しい笑みを見せる。

郁弥がわかっていなかったことを、理解できていなかった繋がりを、ごく簡単に言葉で伝えてくれた正道に大きな感謝を込めてお礼を言う。


『うんうん。今後とも"友人"としてよろしく頼むよ』

「はいっ!"友人"として、よろしくお願いしますっ」


自分の伝えたことをわかっているのかいないのか、正道はあえて"友人"を強調していた。郁弥にはそれがどちらなのかわからなかったが、それでもしっかりとした繋がりがあって、例え日結花という一点がないとしてもこの関係が消えるわけじゃないということを教えてもらえた、それだけで胸の内からこみ上げてくるものがあった。

藍崎郁弥が咲澄日結花からもらったものは、こんなにも大きくて、こんなにも自身の心を満たしてくれるものなのだと、改めて日結花に対する感謝の念が大きく膨らんだ。


『聞きたかったことはこれで終わりかい?』

「はい。本当にありがとうございました」

『ふふ、いいんだ。気にしないでくれ。また今度感想でも書いてきてくれればいいからさ』

「はいっ!」


明るい声を出す郁弥の姿を見て、知宵は引き続き頬を緩めて優しく笑っていた。

すべて自分のおかげとは思わないけれど、それでもこの友人を立ち上がらせ、前を向かせることができたのはよかったと、強くそう思う。

まるで弟でもできたみたい、と胸の中でくすりと笑った。


『おっと、あともう一つ」

「はい、なんでしょう?」

『君は日結花に振られたというが、やっぱり僕はあの子が君を振るなんてありえないと思う。あの子にはあの子なりの考えがあったんだと思うよ』

「…そう、でしょうか」

『うん。日結花は…結構ばかなところがあるからね。杏に似て一直線で自分勝手でわがままで、それでいてよく失敗して落ち込むんだ。君を振ったことも、何か変なことでも考えたからなんだろう。今頃落ち込んで泣いているかもしれない。君絡みとなると途端に周りが見えなくなるからね』

「日結花ちゃんが泣いて…」

『日結花が振り回しているようで悪かったね。今年…というより、郁弥君と恋人関係になってからいつも舞い上がっているみたいだったから、いつか何かするかもしれないとは思っていたんだけど…ごめんね』

「い、いえ!そんなことは全然…僕は…日結花ちゃんが嬉しいならそれで十分でしたから…」


すべて日結花のことをよく知る父親からの言葉。それは重く、強く郁弥の心に染み渡る。

知宵に言われたことが頭を巡り、日結花も失敗すること、日結花も落ち込むということが思い浮かんだ。自分に余裕がなく、耐えることに、落ち着くことに必死で日結花本人のことをきちんと見ることができていなかったのだ。

それに気づいて、それほどまでに自分の中で咲澄日結花という存在が大きくなっていたのかと苦笑する。


『ふふ、だから日結花は君のことを好きになったんだろうね。…日結花が何か君に対して間違ったことをしたのは本当だろう。郁弥君が振られたと言う時点ですごく大きなことだろうし、君の昔話をすべて聞いているから、君がどれだけ傷ついただろうということもわかっている。でも…日結花のことを許してやってほしい。あの子は、本当に郁弥君が好きなんだ。どうか、これまでの思い出を考えてやってくれないかい。あの子の表情を、あの子の気持ちを、あの子と紡いできた時間を。全部を考えて、それからもう一度、日結花と話してやってくれ。あの子と本気で話してあげてほしいんだ。これは友人としてじゃない、父親として、あの子を見守る立場としてのお願いだよ。どうか日結花を、娘をよろしくお願いします』

「…わかりました。僕ももっとちゃんと話します。傷つくのが怖くてすぐに逃げてしまいましたけど、ちゃんと向き合って話してきます。だから、どうか頭を上げてください。…たぶん下げてますよね?」

『あ、あぁうん。ははは、ありがとう郁弥君。ふふ、ちょうど今下げていたところなんだよ。どうしてわかったんだい?』

「い、いえ。…な、なんとなくです」

『そうかそうか。はは、本当に…悪いね。よろしく頼むよ』

「はい。任せてくださいっ」


まるで青春劇場の一幕でもあるかのようなやり取りを側で聞いて、知宵は恥ずかしそうにレモンティーをおかわりしていた。

さっき私もあんなやり取りしていたのよね…あぁもうっ!と、羞恥で荒れ狂う心を飲み物で誤魔化していた。基本郁弥も知宵も常識人なのだ。素に戻れば自身のセリフが思い返されるわけで、恥ずかしさもひとしおとなる。

顔を赤くして恥ずかしさに耐えていたところ、つい一言漏れてしまった。


「…すっごい恥ずかしいやり取り」

「『なっ…』」


言われて気づくのが人の性か。それぞれ顔を真っ赤にして羞恥に身悶えすることとなった。



「さて、これであなたにもきちんと友人がいるとわかったわね」

「うん」


お互い気分は落ち着いて、郁弥も普段と変わらないほどまでに雰囲気が明るくなった。素直に頷く姿を見て知宵は優しい笑みを見せる。


「ふふ、よかったわ。ちゃんと自分の周りを見ることができたのでしょう?」

「あ、あはは…うん。それはそうなんだけど…」


知宵はふわりとした笑みを浮かべながら、歯切れ悪く言葉を濁し目をそらす友人の姿を見て、何かあったかしら?と疑問を持った。


「どうかしたの?」

「いや…ええと、うん。その子供を見るみたいな目をやめてほしいな…と」


魅力にあふれた友人の笑顔を見て、郁弥は照れて頬を薄く朱に染める。いくら年が近いとはいえ、彼女は年下。先ほどから恥ずかしいところばかり見せている友人に、またしても気恥ずかしさ満載の場面を見せてしまったのだ。彼がそうなっても仕方がないことだろう。


「ふむ…」


ちらちらと照れながら話す異性につい胸がきゅんとしてしまった。

日結花の言っていた気持ちの一端を感じながらも、冷静に友人への対処がまた面白くなると考えて言葉にする。


「ふふふ、事実子供のようによく泣いていたじゃない。いくら寒くなってきたとはいえ、まだ秋よ?それなのに寒い寒いと言うから私が羽織っていた薄手のコートもかけてあげたじゃない。今でも着ているのにもう忘れた?」

「ご、ごめんねっ。…と、というか普通に忘れてたよ。やけに落ち着く匂いするとは思ってたけど、そっか。知宵ちゃんの服だったんだね。はは、ありがとう」

「なんっ…え、ええそうね?私の服よ。どういたしましてっ」


ほんの少しからかおうとしたら予想もしていなかった返事が来て顔が熱くなる。なんとか言葉を返せたのは相手がニコニコ嬉しそうに笑っていたため。

何一つ気にしていない、というより考えていないように見えるのは実際にそうだから。郁弥にとって今のセリフはなんでもない会話の一つであって、あくまで感想を述べたまでのこと。そこに他意はなく、そもそも知宵がどのように受け取ったか気づいてさえいない。

悲しいかな。知宵には異性に対する経験値がほとんどないのだ。加えて、郁弥は天然の人たらし。暇さえあれば相手が嬉しくなっちゃうようなことをよく言うのである。


「でも、本当にありがとう…。僕のこと友達って言ってくれて、ちゃんと他にも繋がりがあるって教えてくれて。正道さんからもう一度日結花ちゃんと話してほしいって言われたのも、知宵ちゃんが電話をかけてくれたからだしさ」

「…はぁ。もういいわよ。さっきからお礼なら何度も言われたわ。感謝されて嫌な気はしないけれど、私はあなた自身に気づかせてあげただけ。日結花から受け取ったものを、日結花と出会ってあなた自身が作り上げたものを、ちゃんとそこにあると教えてあげただけ。それだけだもの。あまりお礼を言われても困るわ」


どちらも本気で言っているからこそ、同じ話が何度も続く。

郁弥は自分一人じゃわからなかったことを知ることができた。それは知宵だったからこそであり、自分一人じゃできなかった。

知宵は郁弥に周りを見るよう伝えただけ。何か変えてあげたわけでもなく、もともとそこにあったものを教えただけ。確かに自分が必要ではあったが、そこまで大きな役割ではなかった。

お互いがそう思っているために話は進まず。


「ぷ。ふふふ、くふふ、も、もうっ。これじゃあいつまで経っても話が進まないじゃない」

「あ、あはは!そう、だね。ふふ、じゃあ一つだけ何かお願いをしてもらえる?友人としてじゃない、知宵ちゃんへのお礼としてのお願いだよ。僕にできることならなんでも叶えるから。本当になんでもだよ」

「ふふ、いいわ。なんでも、なんでもね?」

「うん。なんでも」


なんでもという響きに目を輝かせる少女、ではないが女性が一人。彼なら、郁弥なら本気でなんでも叶えようとしてくれるだろうと思い、目を閉じて考える。


(お金…は別にいいわね。やはりお金じゃ買えないものかしら。とすると…郁弥さんの愛…。なんてないわね。略奪愛なんて面白くもなんともないわ。日結花の両親はむしろ楽しみそうだけれど、そういうのは面倒よ。確かに彼は良い人ね。もし日結花がいなかったら恋をしていたかもしれないわ)

「ふふ」

「ん?決まった?」

「いえ、もう少し待ってもらえる?」

「うん。了解」


ばかなこと。と考えてくすりと笑う。ほんの少し違うそんな世界を考えてみて、自分の考えを笑ってしまう。

そもそも日結花がいなかったら今のような友人関係にさえなっていないのだから、ありえるわけがない。むしろそれだから面白かったのかもと一瞬思うも、すぐに現実へ意識を向ける。


(日結花と同じというのはあれだけれど…私も、恋をしたいわね)


日結花を見て、郁弥を見て、誰かとあんな優しくて温かい関係になりたいと。そう思った。

二人を見てきたから、その温かさを知っており、恋をすることの大変さも、難しさも、苦労も。全部を知っている。それでも恋をしたいと、あふれるくらいの気持ちで満たされて愛し愛されたいと、強く思った。

できれば今の日結花と郁弥のようなすれ違いはない方がいいけれど。そう考えながら目を開く。


「決まったかな」

「ええ」


リラックスした様子で待っていた郁弥に願いを告げる。


「私に、あなたが認める最高の男性を紹介してもらえる?」

「…そうきたかぁ」


知宵の願いを聞き、諦めるように一言絞り出した。


「だ、だめかしら?」

「え?あぁいや。そうじゃないよ。ふふ、だめじゃないから安心して」


心配そうに眉尻を下げる知宵を見て、郁弥はふわりと笑いながら答えた。

そう、だめではないのだ。なんでもと言ったことに偽りはなく、本気で叶えるつもりでいる。知宵の願いも彼にとって問題はなく、叶えないという選択肢はない。ただ。


「ただ…僕が人と深くかかわるところから始めることになるんだよね。なにせ"友人"がいなかったもので」


からりと笑いながら言う郁弥に、知宵は真面目な顔で頷く。


「ええ、わかっているわ。大丈夫、私もまだ25歳だもの。来年までなら全然待つわよ」

「そっか…。うん、わかった。少し待っててね」


嬉しげに笑う知宵は知らなかった。

藍崎郁弥がどれほど身内のために尽くせるのかを。そして、どれほど人間関係を重く見ているのかを。

本当の意味で郁弥を理解できていたのは、日結花ただ一人。知識はあっても実感を得ていない知宵に、郁弥がどれだけ本気で取り組むのかを理解できるはずもなく、それがどう転ぶかはまだわからない。

ただ、藍崎郁弥は誰にでも優しく、それだけ人にも好かれているということは事実である。例え薄くとも、積み上げたものは変わらない。

知宵の人生に変化が訪れるまで幾日か。それはもしかしたら、かれ彼女かのじょが思っているよりもかなり早いものになる…かもしれない。

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