数年後のお話その1

夕暮れ時。鮮やかな橙色だいだいいろが世界を染め上げる。映画が終わり、暗い場所から明るい場所にきたぶん余計に鮮やかに見えるのかもしれない。


「ねえ郁弥さん。覚えてる?あたしたちの初デートのこと」

「うん。ここだったね。映画見て、ご飯食べて、たくさんお喋りして…あれからもう2年、ううん。もうすぐ3年が経つんだね」

「ええ。色々…本当に色々あったわ」


周りには休日らしくたくさんの人。年も終わりが近いというのに…ううん。だからこそかもしれないわ。


「あたしも20歳になって、もうすぐ21よ。あなたは?」

「…知ってるはずだよね、それ。27だよ。もうアラサーだよ…」

「ふふ、知ってるわよ。安心しなさい。アラサーでも大好きだから」


いじらしく拗ねる姿はまだまだ子供っぽさが強くて、たまに年下なんじゃないかと思うときもある。そんな姿を見られるのも、ちゃんと恋人になったからだと思うと少しだけ感慨深い。


「ありがとう。僕も日結花ちゃんがいくら年とっても大好きだから。安心してね」


慈愛の笑みを浮かべる恋人は会ったときから変わらないまま。変わったところも、変わらなかったところも、全部が全部大切な宝物。


「でも…もう3年かぁ」

「…懐かしいわ。あの頃はまだお互いのこと全然知らなかったのよ。信じられる?」

「あはは…その節はどうもご迷惑をおかけしてしまって…」

「ほんとによ。あなたがまさかあんな…言わせないでよ恥ずかしい」

「ええぇ…ちょっと予想外な反応過ぎる。僕らそんな恥ずかしくなることしたかなぁ…」


したした。手繋いだり腕組んだり抱きしめ合ったりちゅーしたり。


「僕のことはともかく、日結花ちゃんも色々隠してたよね」

「あら、なにかあった?」


意趣返しのつもりかくすりと笑う。こんなときでも意地悪く笑わないのがこの人の素敵なところ。

いいわ。受けて立ってあげる。


「ふふ、日結花ちゃんがこんなに甘えん坊だったなんてね」

「ん…べ、べつに甘えてなんて…んぅ、頭なでないでよぉ」


さわさわと優しくなでられて胸の奥がきゅうきゅうする。幸せがこみあげてきて、頬が緩んで仕方ない。


「はい終わりー。なんていうか、僕の手に頭押し付けてくるのがもう甘えん坊の証拠だよね」

「うぐ…くぅ、手を出してくるなんて卑怯よっ。後で膝枕してちょうだい!」

「いいけど…日結花ちゃんが膝役になるんじゃなくて僕が膝役になるんだね」

「…悪い?」

「いいよいいよ。いくらでも甘えちゃって」


ニコニコ素敵スマイルにあっさり敗北してしまった。

ずるいわ。頭なでてそんな誘惑までされたら勝てるわけないじゃない…。


「にしても…恋人になる前までは、今みたいに甘えられることになるなんて思ってもみなかったよ」

「…そうなの?」

「うん。だってデート中とかそんなそぶりしてこなかったでしょ?」

「それは…」


しなかったんじゃなくてできなかったの。


「いっぱいしようとしてたわ。ぎゅーって抱きつこうとしたし背中から抱きしめようとしたし、手だって何回繋ごうと思ったか…」

「…全然気づかなかった」


目を丸くして驚いているところを見るに、本当に気づいていなかったみたい。

この人、変なところで鈍いのよね。


「まったく、鈍いんだから。…ん」


驚く郁弥さんに手を差し出す。一瞬戸惑って、すぐに理解したのか自分の手をあたしの手に重ねてくれた。


「これはさすがにわかるよ。これでも恋人なんだから」

「むしろわかってくれなかったら怒っていたわ」


手繋いでくれたから許すけど。

重ねた手を繋いで、指と指を絡ませる。もう何度だって繋いできた手だというのに、ほんのり頬に熱が灯るの感じた。恥ずかしさと、それ以上の嬉しさで胸がいっぱいになる。


「あったかいなぁ…。ねえ日結花ちゃん。もうずっと手繋いだままでいようよ」

「…手汗かくわよ?」

「僕が?」

「あたしが」

「…そんなの気にすると思う?」

「…いえ、全然気にしないかも」

「じゃあいいよね」

「…郁弥さんも平気で恥ずかしいこと言うようになったわね」


昔だったら、今のセリフはあたしと彼とで逆だったと思う。そもそも手を繋ぐことがなかったというのは置いておいて、郁弥さんが遠慮してあたしが強引にいくような、そんな感じだったはず。


「あはは、普通に手とか繋ぐようになってからかな。恋人にまでなったら接し方も変わるってものだよ」

「そうかも…あたしも今の郁弥さんの方が好きだし」

「それは光栄だ。ふふ、僕ちゃんと恋人できてる?」


ぽわぽわ柔らかい笑顔は恋人になる前と変わらず、いつも通りに癒される。加えて、繋いだ手とか歩幅とかからあたしへの好意が伝わってきて心が満たされる。


「できてるわよ。恋人同士だからすることもそうだけど、あたしにかけてくれる言葉が全部好きにあふれてるもの」

「…それ、本当?」

「ええ。本当」


引き気味なところ悪いけど、あなた、自分で言ってることだから。まさかの無意識に好意全開だったとは思わなかったわね。さすが郁弥さん。天然力が強いわ。


「…そっかぁ。ええと…そうなったのって恋人になってから?」

「んー…うん。そうね」


もともとあたしに優しくてあたし優先なところはあったけれど、露骨に恋人扱いしてくれるようになったのはやっぱり本当の恋人になってから。


「…はぁ…そうだったんだ。そういうのって、自分じゃわからないものだね」

「そうねー…ねえ、覚えてる?」


問いかけるのは3年前のこと。あたしがまだ幼くて、前ばかり見ていたあの頃。


「…初デートのこと?」

「そ。一緒に映画見て、ご飯食べて…ふふ、楽しいこともあったわ。なんだかわかる?」

「楽しいこと?…あーんしたことかな」

「あら、よくわかったわね」

「…あれはよく覚えてるなぁ。だって初デートだよ?それなのにいきなりあーんするとか…冷静に考えたら色々おかしい」

「しかも恋人じゃなかったのよ?」


今となってはあーんなんていつもやってることだから気にならないけれど、あの頃はほんと勢いだけで頑張ってた。すごいわ昔のあたし。


「はは…よくもまあなんでも付き合ったよね、僕」

「ん、嫌だった?」

「と思う?」

「いえまったく。ふふ、あなたが喜んで付き合ってくれたなんてわかりきっているもの」

「だよねー…あの頃も楽しかったなぁ」

「あの頃"も"?」

「そうそう。も。今だって最高に楽しいからさ。日結花ちゃんと出会ってからは毎日が薔薇色だよ」


くすくす笑いあって夕焼け空の下を歩く。

冬らしく冷たい空気が身体を通り抜け、繋いだ手から温もりが伝わって全身が温まるような気分。

なにがいいって手に力込めてむぎゅむぎゅするとむぎゅむぎゅ返ってくるところよ。手を繋ぐときの醍醐味はこれに限るわ。


「あら、あなたの毎日が薔薇色ならあたしの毎日は桜色よ?」

「ええぇ…そこ対抗する?」

「ふふん、対抗するわ。ていうか郁弥さんも桜色にしなさいよ…むしろあなたこそ桜色じゃないとだめでしょ?」

「え、なんで?」

「…自分のルーツを忘れた?」


目をぱちくりさせるダーリン。可愛い。好き。


「あぁ、誕生日か」

「そ。ばっちり桜に染まってるじゃない」

「確かに。…桜か」


ゆっくり歩きながら空を見上げる。上には何かがあるというわけでもなく、青い空と葉一つつけていない枝だけ。


「今冬だから桜なんて咲いてないわよ」

「うん…それはそうなんだけど、ちょっとね」


曖昧な顔で笑う。こういうときは…あたしに聞いてほしいときね、知ってる。


「いいわ。あたしが聞いてあげる。話しなさい」

「…やー、さすが恋人。聞くのに躊躇がないね」

「聞いてほしくないならそう言いなさい。ちゃんと時間置いてから聞いてあげるから」

「…結局聞くんですね」

「当たり前じゃない。あたしとあなたの仲よ?あたしはともかくあなたがあたしに隠し事する理由なんてあるわけないでしょ」


なにを言っているのかしら、この人は。


「うーん、今の言葉色々おかしいのに平然と受け入れられちゃう自分が怖い。…隠し事しないのには賛成だけど、日結花ちゃんは僕に隠したいことあるの?」


純粋な眼差しが痛…くはない。全然まったくこれっぽっちも痛くない。


「…知りたいなら教えてあげてもいいけど、聞いたら恋人としてステップアップすることになるわよ?いいの?」

「…なるほど。じゃあ遠慮し」

「だからやらしいことよ!言わせないでちょうだい!」

「わー!だから遠慮しようとしたよね!?」


顔を赤くして照れる照れ崎照れ弥さん。こんなときでもぎゅって手に力込めてたらちゃんと返ってくるところがいじらしい。


「ていうかあれよね。郁弥さんってあたしにやらしいことしたいとか思わないの?」

「…直球だなぁ。答えなくちゃだめ?」

「だめ」

「…むしろしたくないと思う理由がないよね」

「……ん?」


寒い中歩いて駅に行く途中の椅子に座る。耳に届いた言葉には少し…いえ、かなり驚いた。


「…もしかして、今やらしいことしたいって言った?」

「うん?うん。言ったね」

「…そ、そう」


郁弥さんが平然としすぎてて理解が追いつかなかった。

つまり…あたしにえっちなことをしたい、と。


「…あ、別に思ってるのと実行するのとは別だからね。そういうことは婚約してからの方がいいと思うんだ」

「…婚約?」


普段通りの調子でまた新しいことを…。婚約だなんて…今すぐしてもいいわね。いつでも指輪選びに行けるわ。準備は万端よ。


「うん。婚約。これでも僕日結花ちゃんとのこと真面目に考えてはいるんだよ?前に日結花ちゃんに伝えたこと正道さんと杏さんにも話して、日結花ちゃんがいいなら来年にでも婚約指輪を」

「あなた!」

「っと…どうかした?」


言葉を遮ってぎゅっと抱きついたあたしを優しく抱きとめてくれた。

嬉しくて嬉しくて、つい抱きついちゃうくらいよ!はーもう!郁弥さんってばほんと素敵!まさかパパとママに話していたなんて!!


「ううん、嬉しかっただけっ。大好き!」

「それはよかった。僕も大好きだよ」


そのまま右手であたしの頭をなでてくれる。

はぁぁ…幸せ。結婚とか婚約とか…そういうのはまだまだ先のことで、考えるとは言ってくれたけれどここまで早いとは思ってなかった。


「でも、ふふ。僕に抱きついてくるときのセリフが"あなた"って」

「んぅ、だめなの?」

「あはは、もちろんいいよ。日結花ちゃんは可愛いなぁって思っただけだからね」

「もう…ばか」


相変わらず簡単に可愛い可愛い言ってくれる。それにプラスで今はなでたり抱きしめたりもあるんだから、幸せ度も跳ね上がるというもの。

昔のあたしが今のあたしたちを見たらどう思うかしら…。ガッツポーズしてみんなに言いふらすわね、たぶん。だって今のあたしも同じことするもの。


「それで…どうなの?」

「うん?なんのこと?」

「さっき考えてたこと」

「あぁ…さっきはね。桜のことを考えていたんだ。一昨年の4月。去年の4月。今年の4月。それに、来年の4月。桜ってだけでこんなにもたくさんの思い出があって、次はどんな思い出が作れるんだろう…って、あはは、なんか湿っぽくなっちゃったね」


からりと笑う姿からは暗い雰囲気がまったく感じられなくて、純粋な想いだけが伝わってくる。


「…あなたの言う桜もそうだけど…本当にあたしたち、もう3年になるのね」


恋に落ちて、関係を変えようとして、一つずつ進めてようやく恋人になって…。できることをしていただけなのに、気づいたら3年が経っていた。


「…色々やったなぁ。日結花ちゃんのやりたいこと、もうやり尽くしたんじゃない?」

「そうねー。お花見から花火大会、海も川も行ったわ。遊園地にRIMINEY WORLD。水族館に動物園、美術館から博物館まで。プールだって市民プールも大きなプールもどっちも行ったし」

「今言った中だと、やっぱりRIMINEY WORLDかな。日結花ちゃんのテンションすごいことになってたよね」

「あら、あなたも大概だったわよ?」

「それは日結花ちゃんに引きずられてだと思うけど…リルシャ姫のアトラクションでのこと覚えてる?僕の隣ですっごく声作って話しかけてきたやつ」

「ふふふ、そんなこともあったわねー」


周りに聞こえないよう小声でささやいていたのをよく覚えてる。


「郁弥さんが抱き寄せてきてびっくりしたわ。あたしの演技よりあなたの積極性の方が…ふふ」

「…その意味深な笑いはなんですか。可愛いけど」

「ありがと。積極的なあなたも大好きよ」

「僕の方こそ積極的な日結花ちゃんは大好きだよ。…あれ、日結花ちゃんっていつも積極的だったような…」

「はいはい。RIMINEY WORLDのことはその辺として、よく覚えてること他にない?」

「うーん?バレンタインとかクリスマスとかはあるけど…あー、あれ。声者ハイパースリーピングミュージアム」

「…あれかー」


二人して苦笑いを浮かべる。声者ハイパースリーピングミュージアム、略してKHSM(けーえいちえすえむ)。一言でいうと、国主催の歌劇拡歌MIXイベント。通称国イベ。新暦28年から始まって、29年、30年と毎年夏に開催されている。

29年には名前を変えて声者おやすみフィスティバルになったりもしたけれど、結局30年、つまり今年には元に戻った。


「特に恋人になってからのやつね。話す内容まるっきり僕と買い物したときの話だったから…あれは変な汗が出た、うん」

「別に緊張なんてしなくてもよかったのよ?ほとんどみんな寝てたし、それに普通の買い物っぽく脚色したじゃない」

「それはそうなんだけど、公の場でデート内容を公開されるのは精神的にきつかったんだ。全然眠れないしさ」

「…ほんっとあなたあたしの耐性上げてくわよね。他の人は普通に眠るのにあたしの"力"だけどんどん効かなくなっていくってなんなのよ」

「それはほら…愛の力?」


とぼけた顔する恋人。返事の代わりに抱きしめる力を強めてあげた。


「…ええと、抱きしめられるのはともかく、そこまで密着されると暑くなってくるんだけど…」

「我慢しなさい。それより他のこと。例えば…飲み会とか?」


ふっと思いついたことを言えば、郁弥さんにしては珍しくひきつった表情。


「飲み会…あれはひどかった」

「…まあ、それは同意かも」


以前行った飲み会。まだあたしたちが恋人になる前、ちょっとした大きなお仕事が終わってみんなで飲み会をすることになった。メンバーはあたし、知宵、胡桃と、よくよく話してきた三人。

本当に珍しいことに、あたしたち三人全員が同じお仕事をすることになったのよ。だからこその飲み会ではあったんだけど…。


「あのときはごめんね?あたしが急に呼んじゃったりして」

「ううん。いいんだ。呼ばれてほいほい向かった僕が悪いんだし」


安心させるように笑ってさらりさらりと頭をなでてくれた。幸せ。好き。


「確か…去年の今頃だったかな」

「ええ。郁弥さん予定空いてるの知ってたから、つい呼んじゃったのよ」

「僕のスケジュール全部教えてあったからね。…行ってみたら日結花ちゃん以外の人がいたのには驚いたけど」


彼が言った通り、あたしは何も教えずに呼び寄せた。ただこれから来てほしいと伝えただけで…この人、やっぱりすっごく騙されやすそう。あたしが適当に嘘ついたら簡単に信じちゃうじゃないの。


「一応二人とも知っていたでしょ?」

「それはね。日結花ちゃんから教えられていたからさ。ただ、胡桃ちゃんとはあれが初対面だったかな」

「あー…そういえばそうだったかも」


言われてみればそうだった。知宵はともかく、胡桃と郁弥さんって直接顔合わせたのあのときが初めてだったかもしれない。


「言っちゃえば普通の打ち上げだったよね、あれ」

「うん。お仕事の方の打ち上げは別日にやったし、あたしたちが個人的に集まってやったやつね」

「なんか前にも話した気がするけど…結局なんで僕呼ばれたんだっけ?」

「ん?んー…」


なんでだったかな…。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る