日結花ちゃんに看病されたい話


郁弥さんが待ち合わせに来ないまま30分。

今まで連絡もなしに時間を過ぎたことなんてなかった。怒りよりも心配が募る。


「……」


天気は曇り。どんよりとした空があたしの心情を表しているようで、見ていて気分は良くない。

何もなかったならちょっと怒ってお詫びしてもらうだけでいい…でももし、事故とか病気とかそういうのだったら…家も遠くないし行ってみようかな。


「…はぁ」


胸に不安が広がり、小さく溜息が漏れた。

彼の家まではだいたい40分ほど。そんなに遠いわけじゃないのに、電車が来る待ち時間さえ長く感じる。

なんとなく、嫌な予感がした。



電車を乗り継いで40分近く。予定通りに駅までやってきた。人もまばらで、少し急ぎ足に道を進む。

いつもなら緑の多い景色に癒されながらゆっくり歩くところ、今日は周りに気を配る余裕もない。


「…ふぅ」


5分ほど歩いて目的の場所までやってきた。

外観は綺麗でそこそこ新しい、周りにあるのと同じような普通のマンション。

エントランスにあるオートロックのドアを開けて、エレベーターで四階へ。時間も時間だからか、他の住人とすれ違うことなく部屋の前までやってきた。部屋番号は406。


―――ピンポーン


「……ん」


息を整えてチャイムを押すも、返事は返って来ない。

一応もう一回確かめておきましょうか。


―――ピンポーン


「……いないのかしら」


返事はなく、家の中から大きな物音もない。携帯を見てみても連絡はない。

とりあえず入りましょ。最悪何かあったとしてもこの家には連絡が来るはずだから、一番情報が集まりやすいでしょ。


「おじゃましまーす」


手持ちの合鍵で鍵を開けて、一言告げながら中に入った。室内は薄暗く、カーテンの隙間から明かりが差し込んでいる。玄関で靴を脱いで先に進むも、人の気配はない。

左側には洗面所。右側にはクローゼットがあり、そこをまっすぐ抜けた先。キッチンやらテレビやらが置いてあるリビングルーム。

相変わらず綺麗な部屋よね…まあ気兼ねなく過ごせるからいいんだけど…。


「……」


なんとなく息を潜めて移動していると、小さな声が聞こえた。言葉というより呻き声のような、そんな声。

リビングにある寝室への扉を開くと、むっとした空気が身体を包み込んだ。汗臭さに体臭にと色々混ざって濃い匂いが鼻に付く。


「…うぅ…」


呻き声の正体はこれか。

嫌な予感が的中。病気で寝込んでるとか聞いてない。せめて連絡くらい…いえ、これなら連絡できなくても仕方ないかも。見た目からして苦しそうだもの。


「ええと…」


まずは、そうね…。どんな症状なのかわからないと困るわ。よく汗をかいてるみたいだし、たぶん熱はある。


「ごめんなさいね…」


謝りつつぺたりとおでこに手のひらをつける。

やっぱり…結構熱あるわ。咳はあんまりないから…たぶん頭痛。腹痛はちょっとわからない。

なんにしても熱をどうにかしなきゃ。氷と熱冷ましと、汗もいっぱいかいてるからお水、できればスポーツドリンク持ってこないと。



一通りのものは冷蔵庫に揃っていたから、できることは全部した。病院には行っていたらしくて、お薬も処方されていたものを飲ませた。なんだかよくわからない様子でお水と一緒に飲んでくれたわ。


「…ふぅ」


今は少し落ち着いて寝息も穏やか。前日からの抗生物質がようやく効いてきたのかも。

身体を拭いて服も変えて、一応あたしだってことは気づいてくれたみたい。あとは安静にして、ちょっとずつでも栄養取れれば快方に向かうと思う。

あとは…ゼリーとか買い足しておこうかな。その方が最初は食べやすいわ。きっと。



夕方。

郁弥さんはときどき目を覚ましていた様子で、隣室から微かに声が聞こえていた。あたしもリビングのソファーでうつらうつらとしてしまって、気づいたら16時。

今日は泊まって行こうかな。あんな状態で一人にしておけないし。


「ふわぁ…」


自然とあくびが漏れて、眠気が襲う。やることがないだけに眠気が全然なくならない。


「うう…」

「んぅ?」


ふわふわした頭のまま数分か、数十分か。呻き声というか唸り声というか、そんなような声が耳に届いて目を開けた。


「って大丈夫?」


ふらふらと壁に手をついて歩く姿を目にした途端意識がはっきりした。急いで彼に近寄って両肩を支える。


「…といれ」

「そう、平気?一人で行ける?」

「うん…平気…」


付いて行ってあげようかとも思ったけど、よく考えたらあたしがいないときは一人で行っていたわけだし、身動きできないレベルじゃないのよね…あたしが心配しすぎなのかしら。


「…あ、郁弥さんポミリ飲む?それとも何か食べられる?」

「ポミリ飲む…ひゆかちゃんありがと」

「ううん…いいの。少しは元気になったみたいでよかったわ」


お手洗いと一緒に洗面所で顔も洗ってきたのか、さっきよりも意識がはっきりしている。


「ひゆかちゃんのおかげだよ」

「ふふ、それならもっと元気になってからしっかり感謝してほしいわね。ほら、飲んで?」


冷蔵庫から冷えているのを取り出して手渡した。

会話もしっかりできているから、これならほんとに大丈夫そうね。


「ありがと…」

「あ、一人で飲める?あたしが持ってた方がいい?口移しは…ダメね。移っちゃうかもしれないし」

「あはは…これくらい大丈夫だよ…んっ…」

「そう?…大丈夫そうね」


…やっぱり心配しすぎかしら。確かに飲み物飲むくらい一人でできるはずだわ。そうじゃなかったら今頃脱水症状よ。


「…はぁぁ」

「ん…どうかした?」


長く息を吐きながらぎゅっと抱きしめてきた。背中に手を回して抱きしめ返しつつ、倒れないように壁に背を預ける。

服を変えてからあんまり汗をかかなかったのか、汗臭さは特にない。それでも若干の甘ったるさを含んだ体臭はする。

シャワーはこの人ができるときでいいわね。さっき身体は拭いたばかりだし。


「…きみがいてくれてよかったなぁって」

「…当然でしょ…恋人なんだから」

「うん…ありがとう」


それから、飲み物とゼリーを少しだけ食べて布団に戻った。シーツとタオルと氷枕と、変えられるものは変えて清潔にしておいたから大丈夫。


「……」


ソファーに座って力を抜く。ようやく一安心。今日は心配して家まで来てほんとに良かった。

どうしよう。あたしも休もうかな…どうせだしお布団でも準備しておこう。まだそんなに時間も経ってないから郁弥さんだって起きてるでしょ。


「…郁弥さーんおきてるー?」

「…起きてるよ」

「あ、よかった。あたし今日泊まるからお布団借りるわね」

「うん、わかった…」


長々と話すのもアレだから、さっそくクローゼットの中から布団を取り出してリビングに持ち出した。

季節は夏と秋の間。どちらかというと秋寄りなこともあって、タオルケットと薄手の毛布を準備しておく。

どうして彼の家なのに布団の場所も知っているかという、もちろん以前泊まったことがあるから。

この家、お客様用の布団一つしかなかったのよ。最初はそれでよかったんだけど…何度か泊まるうちにスペースも余ってるからってことで、あたし専用の一式揃えちゃったわけ。


「あとは…」


色々考えながら布団のセットを終え、壁掛けの時計に目をやると短針が真下に近づいていた。

もう17時過ぎてたのね。先にシャワー浴びましょうか…あたしももう外には出ないし、空いてるときに浴びちゃわないと。

洗面所兼お手洗いの扉を開けて中に入る。そこから左側にあるスライド式のドアを開けた。


「あ…」


一瞬変えの服がないと思ったけど、以前下着から寝間着、普段着の予備まで置かせてもらったんだった。備えあれば患いなしってこういうことよね。

先に給湯システムでお湯を入れておいて、洗面所でぱっぱと服を脱ぐ。無地のブラウスにネーブルスカート、モカのキャミとフレアパンティと、今日はデートの予定だったから割と好きな服を着てきた。ブラウスとスカートはそのまま洗濯機に放り込んで、下着の方はネットに入れて同じようにぽいっと。

お気にだからちょっともったいない…また今度着るしかないわね。今日はもうどうしようもないもの…にしても普通ネットまでないわよ。いや全部あたしのせいだから何も言わないけど。

頭の中で文句を言いながら髪の毛を洗う。シャンプーを手に馴染ませて毛先から頭皮まで染み込ませるようにほぐしていく。いつも丁寧に扱っているおかげで手すきがよく通るし、毛先まで痛みがない。

髪の毛は大事にしないとね。髪質悪いと見た目から清潔さ薄れるから。


「んー…」


きっちりシャンプーを落としてからトリートメントを手に取る。

シャンプーもトリートメントもあたしが家で使っているのと同じ…冷静に考えるとおかしいわ。一人暮らしの男性の家に女性ものの生活道具一式揃ってるのよ?あたしは気にしないからいいけど…誰か来たときはどうするのよ……郁弥さんが対応するでしょ、きっと。


「…うん」


さっきと同じようにトリートメントを髪の毛に馴染ませて、それからしっかり水で流す。。髪の毛のお手入れが終わったところで頭の上で一つにまとめる。


「ふぅ…」


次は身体。ボディーソープを手で伸ばして全身に広げていく。首から鎖骨、腕、胸元、お臍と手を滑らせる。

……谷間ができると胸元に汚れも溜まるのかしら。でも谷間ってどうやって作るのよ…寄せれば一応谷になるし…不毛だわ。


「……」


自分の胸元に気を取られつつも、足の指先まできっちり洗ってシャワーで流した。改めて全身を流してから、お湯に身体を沈める。


「うぁー」


はー気持ちいい。

身体の疲れが解けていく気がして、つい声が漏れてしまった。一応男の人の家にいるんだから、もう少し体裁整えないと。


「……ふぅ」


まだ9月も中旬だっていうのに今日は肌寒かった。夏の間はほとんどシャワーだっただけに、この寒さでお風呂は結構気持ちいい。

やっぱりお風呂は冬よね。寒くてあったかいのがいいのよ。夏のお風呂なんて上がっても全然涼しくないし、ただ疲れるだけ。みんな入る気も失せるってものだわ。


「あ、ひゆかちゃん?」

「はーい」


頭の中でお風呂談義を交わしていると、くぐもった声が耳に届いた。洗面所に人影がないところを見るに、洗面所の外にいる様子。


「お風呂入ってる?」

「うん。お手洗い?」

「うん…」


なんでそこで詰まるのよ…別に入ってきてもいいのに。


「入っていいわよ別に」

「でも…」

「ドアだってあるし、それくらい気にしないわ」

「わかった…」


むしろそっちの音の方を気にしちゃうわよ。それとも男の人ってそういうの気にしないのかしら。

お風呂でゆったりしながら浴室の外に意識を割く。だるそうに猫背気味なシルエットが見える。


「はぁ…」


ため息を吐き、ズボンとショーツ…じゃなくてパンツを下ろして腰を下ろした。

男の人はパンツよね…オブラートに包んだ言葉じゃないわ。うん。


ーーー♪


「っぷふ」


あっぶな。口に何も入れてなくてよかった。変な笑い出ちゃった。だって音姫って…やばい面白い。

予想外な面白い展開で、笑いをこらえるはめになった。音姫が流れ終わったところで、改めて外のシルエットに目を向ける。


「…はぁ」


再度ため息を吐き、下履きを身につけ横にある洗面台で手を洗う。

さすがにこれ以上の面白い展開はないわね。というか、さっきのが突発的なだけだったのよ。


「郁弥さん」

「なにかな?」


ふと思いついたことがあって、声をかけた。


「入る?」

「は、入らないよ?」

「入ってもいいのよ?」

「だから入らないって…」


せっかくだし入ってきてもらわないと…なんだかんだ二人でお風呂したことなかったのよね、あたしたち。お風呂入るのは調子悪いからダメにしても、シャワーくらいしてあげないと。


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