第4話

 落ち着きましょう、とにかくは落ち着きましょう。パニックになったら全てが終わりです。

 それから、諦めてはいけません。希望を捨てず、余裕を失わないようにしましょう。


 よし、大丈夫。冷静さを取り戻します。不安がないと言えば噓になりますが、むしろある程度の緊張感ができた方が頭も冴えそうなものです。プラス思考です。


 とにかく自力での脱出は叶わずとも、今ごろ親が連絡の取れなくなったボクを探してくれているはずです。誘拐されてからどのくらい時間が経ったのか定かでありませんが、もし深夜を過ぎても家に帰らないようなら、何かあったと判断するはずです。ボクまだ高校生ですし、夜遊びをするような習慣もありませんので。


 それにセンパイの車に乗ったのは学校の近く。すぐ人目につきそうなものです。誰かの証言からすでに警察が動いているとすれば、捜査が進むのも時間の問題でしょう。

 現状、ボクに残された手立てが待つことだけなのは悟りましたし、許容します。なので大人しく待ちましょう。助けが来るのを。そう遠くないものと信じて。

 しかしこの待つだけというのがなかなかに苦痛で、暗闇で視界も判然とせず、時間の感覚もわからない中では、何をしていれば、考えていればいいのか。手持ち無沙汰がこれほど堪える日が来ようとは思いませんでした。

 楽しいことを考えていられればいいのです。いつセンパイが戻ってくるかわからない不安と同居しながらも、それを紛らわすものに逃避すること、逃避できるものを発想することが、言うなれば今のボクがすべきことでしょう。


 一方で、第三の思考と感覚が徐々に意識の中で肥大化しつつありました。

 暑いのです。


 さっきドアに体を打ち付けたせいもありましたが、よくよく考えたら今は夏真っ盛り。エンジンを切られた車内からは冷房の名残が忘れ去られ、じわじわとですが季節本来の暑さが思い出されつつあります。

 たとえサンシェードで覆われていようと、車が日陰に停まっているとしても、閉め切られたこの環境で徐々に温度が上がっていくのは避けられないことでしょう。


 夏、閉め切られた車というと、思い浮かぶのは車内に放置され熱中症で死んでしまった赤ちゃんの話。痛ましい事件です。テレビでそんなニュースを見て、よくもそんなことができる親がいたものだと憤ったものです。

 けど、自分には縁のない話でもあると思っていました。ボクは赤ちゃんじゃありませんし、赤ちゃんを放置するような人間でもありません。そもそも普通に生活していれば、真夏の車に閉じ込められることなんてありませんから。

 ところが今、まさにそれがあり得てしまった状況にボクはいるわけです。


 ともすればこのままだと、ボクは赤ちゃんのように熱中症と脱水症状に苦しみながら、やがて……。


 いえ、そんなはずはありません。断言できます。

 というのもボクを人質として誘拐したのなら、ボクに何かするのが目的だとしたら、センパイはそれを見殺しにはしないはずということ。

 もし身代金目当てだとしたら、ボクが死んでしまうと困るのは他でもないセンパイです。無暗にボクを死なせたところで、捕まった時の罪が重くなりこそすれ、メリットなどないはずです。そのはずです。

 どこかでボロを出してすぐ捕まるようであってほしいですが、そこまで気が回らないお馬鹿さんではないと信じます。車を離れているのも、それほど時間をかけず戻ってくるつもりだからに決まっています。


 真夏の車に人間を放置したら死んでしまうことぐらい、わかっているはずですから。

 それもボクに死なれて困るのなら、なおのこと。

 ですから、ボクは助かります。助かることが決まっています。少なくとも、熱中症と脱水症状の危機に焦る必要はないのです。


 そうはわかっていても、しかし暑いものは暑いです。滲むように体表へ現れた汗は、次第に粒を形成し、重力に従ってボクの体から離れていきます。

 後ろ手に縛られているせいで汗を拭うことすらできない不自由が、不快感をなおのこと募らせます。

 そして何より、喉が渇きました。

 少しでもそれを紛らわそうと、溜められるだけ唾を溜めて、飲み込みます。粘り気のある唾は液体というよりも固体に近く生臭い味わいで、ゆっくりと喉を這うように流れ落ちていきました。

 潤いませんし、より不快さが増しました。


 死なせる気がないのなら、いっそ早く戻ってきてほしいものです。殺されないとわかっていれば、センパイに覚える得体のしれない恐怖も、この暑さと渇きの苦痛と引き換えになるだけ些細なものです。

 だからそろそろ、頃合いだと思うのですが。


 どれだけの時間が経ったのでしょう。

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