第2話

 記憶をたどってみることにしましょう。


 七月末、一学期最後の登校日。その帰り。

 校長先生の長い長い話に占められた終業式と、焦らしに焦らすようなホームルームを超えて、明日から待ちに待った夏休みです。

 期待に胸を弾ませ昇降口から外へ出たボクに、殺意をみなぎらせたような太陽光線が襲いかかってきました。

 まだ八月前だというのに、外はすでに夏を極めんばかりの暑さです。迂闊に出歩いていい気温ではありません。そこらへんのアスファルトで簡単に焼き土下座ができます。

 校門の外まで歩いた時点で、直射日光に晒された髪の毛が触れないくらい熱くなっていました。こもった熱が皮下の脳まで浸透し、意識を溶かそうとするかのようです。

 思えば、終業式が始まってから今まで水分を補給していません。あのサウナ同然の体育館に、直立不動で校長先生の話を聞き流すこと十数分。そりゃ軽く脱水症状にもなります。実際、式の最中に何人か具合が悪くなって保健室に連れていかれていましたし。


 さてさすがに危機感を覚えたので、とにかくは飲み物をと思います。校門からまた少し歩くと、道路を挟んだ向こう側に自動販売機が見えました。

 横断歩道はないけど、さっさと渡ってしまいましょうか。と考えるより早く対岸へ足を向けたところへ、道路の右手から一台の車が走ってくるのに気付きました。危ないのでさすがに渡るのを中止します。ほのかな苛立ちを覚えながら。

 ところがその車はボクの目の前、まさに行く手を阻んだとしか思えない位置で停車しました。はっきりと、殺意を覚えます。文句のひとつでも漏らさずにいられないと、運転席に座るあんちくしょうの顔を見据えました。


「センパイじゃないですか!」


 車を運転していたのは、今年の春に卒業したボクの先輩でした。ボクが去年入った部活で知り合った人で、よく一緒に遊びに連れていってもらったものです。

 終業式終わり? ヒマ? そう言ってセンパイが助手席側の扉を開けました。そよそよと、中から冷房の香りが漏れ出してくるのが感じられます。

 しかし、いつの間に車の免許なんて取ってたんでしょう。乗っても(安全面で)大丈夫なんでしょうか。ふと疑問が浮かんだものの、この殺人的な暑さの下と冷房の効いた車内の誘惑の前には、些細な抵抗にすらなりませんでした。


 助手席に座ると、センパイがペットボトルのお茶を差し出してくれました。それ、あげる。そう一言だけ添えて。

 その一言が、これほど嬉しい瞬間がかつてあったでしょうか。お礼を欠かさずに述べて受け取ると……手に、手の中に、極楽が広がりました! それはもう、それはもうキンキンに冷えているのです!

 すかさずキャップを開け、中身を喉の奥へと注ぎました。味わう余裕もありません。はしたなく、喉を鳴らして飲みます。

 全身を包んだ冷房に、火照った血管が収縮する不健康な快感。さらに流し込んだ冷たい水流が、喉の熱をこそぎ落としていくような刺激。この世全ての幸せを手に入れたかのようです。


 そして。


 それから。


 それからの記憶がありません。


 気が付いたらこの暗闇の中です。どういうことでしょう。どうしたことでしょう。


 それにしても車、と言われれば、なるほどこの空間がそれらしい気がしてきました。思えば先ほど転げ落ちたのは、後部座席のシートの上だったのではないでしょうか。

 つまりボクは今、運転席と後部座席の間に挟まれるような形で寝転がっている、ということになります。試しに身をよじろうとしますが、やはりシートと思しい何かに阻まれできませんでした。


 手がかりが得られたことで、少しずつ落ち着いて状況を考察するゆとりが出てきました。

 真っ暗なのは、恐らく窓にサンシェードか何かを張り巡らせているからでしょう。

 何のために? 直射日光によって温度が上がるのを防ぐため? その中にボクは拘束されています。それこそ、何のため?


 率直に言って、ボクは誘拐されてしまったのでしょう。逃げられないよう手足を縛り、助けを呼べないよう口まで塞がれて。そんな姿のボクを外から見られないよう、こうして窓が覆われている、と考えるのが妥当なようです。


 誘拐。監禁。


 センパイが、ボクを?


 そんなことがあり得るでしょうか。

 あんなに優しいセンパイが?

 ボクをそんな、どうして。


 けど、お茶を飲んでから記憶が抜け落ちているのは、一服盛られたということかもしれません。というか、そうでもなければ急に意識を失うわけがないのです。それに拘束、監禁されているところまで含めて、さすがに冗談にしては度が過ぎています。


 つまり、冗談でないとしたら。

 本当にセンパイが、ボクをこんな目に遭わせているのだとしたら。


 小さいころ親や先生から、知らない人についていくなと言われました。誘われても車に乗るなとも聞きました。物をもらってもいけないとも教わりました。

 相手が知っている人というだけで、疑いもせず車に乗って、もらったものを口にしたボクは愚かでしたか。浅はかでしょうか。

 いやでも、まさかこんなことになるとは夢にも思わないじゃないですか。それもごく親しかったはずの相手から、そんなことをされるなんて。

 

 それから、どんなことをされるのでしょう。

 あるいは、もうされた後?


 そう思うと、全身を悪寒が駆け巡りました。いやまさか、そんなことはされていない、と慌てて自分に言い聞かせるようかぶりを振ります。何かされたなら、はっきりと体に違和感が残っていそうなものでしたから。今のところ身動き一つできない以外に、それらしい感覚はありません。安堵している場合じゃないのかもしれませんけど、ほっとします。


 とにかく、望むことは一つです。ここから逃げ出すこと。助けを求めること。ボクをさらったであろうセンパイに、それこそ何かされる前に。

 そこに来てふと、まさかこの空間にボク以外の人間、それこそセンパイがいやしないだろうかと今さらのように思いました。

 とひやりとしたのも一瞬、すぐにボク以外の人間の気配はないものと確認します。ほかの誰かのにおいも、体温も、息遣いも何も感じられなかったからです。

 センパイは何かしらの用事があって、ボクを車内に残し外出したようです。ボクを人質とするからには、必ず戻ってくることでしょう。それまでに、どうにかしなければ。


 ふと、目が覚めるなりこれだけ異常な環境に放り込まれたにも関わらず、存外自分がパニックを起こさないでいることに、何だか不思議な思いを抱きました。あまりに異常で現実感がない、夢の中の出来事のように思えて感覚が麻痺しているのでしょうか。

 相手が慣れ親しんでいたセンパイであることも影響しているのかもしれません。そんなことをするとは信じられないというか、本気で危ないことをするつもりはないんじゃないかと高をくくっているというか。不謹慎な安堵の仕方でしょうか。

 まあ、何であれパニックを起こさないことは大切なはずです。

 と、このくらいの心のゆとりは常に持っておきましょう。緊張感に欠ける気もしますが、思いつめるよりはずっといいはずです。


 それにセンパイだって拉致監禁こそすれ、平気で人殺しまではしないと思います。それ未満のことは、何かするつもりなのかもしれませんけど。

 でも恐らく、きっと、死にはしないでしょう、たぶん。

 世の中、そう簡単に人が死んだりするようにはできていないと思いますから。


 だから、どうにかなるはずです。

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