閑話百景:臆病者とこわいもの⑤

「この作戦、確実に成功させたいなら必要なことがあるわ」


 ベッドに腰掛け、グレーテルは口を開く。

 煤けたキルトと古ぼけた家具、読みこまれた本の山。柔らかに色褪せる小さな部屋で、しかし彼女の表情だけが鮮烈だった。


 駐屯地で見慣れた軍人の顔だ。瞳に迷いも焦りもない。ただ堅実に組み立てた、手の中の論理だけを見つめている。


「野犬の事前捕捉。深夜で一帯真っ暗なうえ、臭いで悟られないために窓を閉めてる必要もある。音の鳴る罠なんて張ったらそれこそ逃げられるしね。

 野犬どもが来たとして、私たちが気づくのは下手すれば羊襲ってる最中かもしれないわ。そうなると撃っても羊を巻きこむでしょうね」


 唇はタマラに語りかけるようであり、また独りごちるようでもある。どのみちどうすればいいか分からないから、タマラはただ立ち尽くして彼女の言葉を聞いていた。


 再集合は日が落ちる少し前となった。それまでは各々準備を整えるようにとのことで、みな家畜を隠すなり休養するなり猟銃のメンテナンスをするなりしているのだろう。事実、グレーテルも集合時間までは眠ると言って自室に戻ってきたのだ。

 だがその目はいま冴え冴えとした光を発している。現場に立ち会うだけのはずなのに、おそらく他の誰より正確に現状を把握しようとしていた。その上で今夜限り決着をつけるつもりでいるらしい。


 グレーテルの人差し指がくるりとまわる。滞留した空気が彼女の指先にからみつき、埃は陽光を宿してにぶくきらめく。


「たぶんおじさんたちも、そのあたりは仕方ないって諦めてるわ。でも最善手じゃない。野犬どもが羊を襲いだす前にこっちから迎え撃てるなら、それが一番なのよ」


 ここで視線はタマラを見据える。びくりと肩が跳ね上がり、本能的な恐怖が心をつつく。


 逃げたかった。彼女が何を言いたいのかは、タマラも肌で分かっている。その言葉が何より厳しいものであるということも。

 けれど踵を返すことも、ただ謝って場を取り繕うことも選べない。これも恐れゆえなのか、それとも。


「……ここは軍じゃないわ。だから命令なんかしてやらない。でも、私があんたに言うなら、そうね――」


 いっそ命じてほしい。そんなタマラの弱さを見透かして、それでもグレーテルは言葉を投げ続ける。真正面からタマラと視線を合わせ、その意思を問いかける。


「選ばない、なんてことはできないの。何をするにしろしないにしろ、あんたのことを決めるのはあんただけなのよ」


 それは何度となく聞いた声、向かいあった瞳のはずだ。タマラのひとことを引き出すまで決して諦めなかった、いっそ煩わしい上官の。


 なのに鼓動がひとつ高鳴る。教会の鐘のように残響し、骨の芯を震わせて、脳の中心を刺激する、そんな閃光めいた一瞬に目を閉じた。

 そして次に視界を開いたとき、タマラの前にいるのはもうただの上官ではない。


「だから後悔だけはしないようにしなさい。自分が決めたことに、誇りと責任を持つの。それだけよ」


 グレーテル・アードラー。

 権威主義者で横暴で言葉が強くて、タマラの答えを求め続けるひとりの女性。


 ずっと近くにいたはずの彼女と、いま初めて出会ったような気がしていた。


***


 夏の陽が落ちるのは遅い。6時間はあったであろう日没までのひとときは、しかしタマラにとってあまりに短かった。

 昨日ろくに眠れなかったことも忘れていた。ただ考え続けていた。小ぢんまりとした布張りの椅子に座って、眠るグレーテルを見つめながら。


 すうすう息をたてる寝顔からは、いつもの険が抜け落ちている。

 幼子のような黒髪のボブカット、洗濯を繰り返して固くなった生成りの服。太陽の光が精彩を失い、斜陽の影がやわらかに輪郭を包んでしまえば、本当にどこにでもいる村娘にしか見えない。きっとそう生きる選択もあっただろう。


 けれどグレーテルは違う道を選んだ。

 己の意思で軍人として生きることを決め、そこに誇りをもって向き合っている。


 選ぶことを拒み、流され続けてきたタマラとは違う。グレーテルは強い。タマラなどには手が届かないくらいに。何もかもから目を逸らしてしまった方が、きっと楽なくらいに。

 けれど。


『あれが仲間を連れてきたんは初めてやで、どうぞ、よろしゅうしてやってください』


 仲間。ひとことがちくりと胸を衝く。

 そう言ってもらえるだけの価値が、タマラにはあるだろうか。


「……まったく、連中いつ頃来るんやろな」


 そう呟く男の声に、はっと我に返った。


 太陽はとうに地平線の向こうへ沈み、周囲を包むのは夜だけだ。しかし虫の羽音、小動物の活動音、風も木々を撫でさすっては静寂を揺らしつづけている。

 暗闇にももう目が慣れて、かすかな月明かりでもシルエットくらいは判別がつくようになっていた。篭った埃と土のにおいが鼻をつく。


 日付も切り替わった現在、グレーテルとタマラは猟友会の男性二名とともに、例の牧場の倉庫の屋根裏に陣取っていた。


 向かいには母屋があり、そこにも同様の人員が置かれている。この二棟の先では五頭の羊が即席の檻に囲まれていた。森からやってきた野犬らが最短ルートでこの羊たちを狙うなら、必然的にこの二棟の間を通過する配置である。

 要は挟撃にするのだ。互いに屋根裏から地上へ撃つので同士討ちフレンドリーファイアの恐れもない。牧場主の家族たちもグレーテルの実家へ避難しており、万一家屋に銃弾が当たっても人的被害は出ないだろう。

 可能な限り火の粉は防いだ。あとは本命を狩り取るだけだ。


「まあ、昨日の今日やからな。今夜来るとも限らん。数日使うつもりで構えよて会長も言うとったし」

「このアホみたいに忙しい時期にかいな。ただでさえ休んどる時間なぞあらへんのに……ほんまに迷惑な話やで」

「まあな。昼は農業、夜は狩りの真似事なんぞ、交代でやっても体が保たんやろし。なんなら今の時点でしんどいがな」


 くああ、と窓際で欠伸をする男。待機をはじめてから体感で4時間ほど経った気がする。その間なにもなければ集中が緩むのも、今強いられていることに不満が向くのも当然だった。

 それは彼女も予見していたのだろう。低い天井にぶつからないよう膝歩きで近づいて、男らになにかを差し出す。


「でも良かったわぁ、おじさんらがいてくれとって」


 言いながら何かを注ぐ音。スチール製のカップと水筒を持っていたはずだから、おそらくそれだろう。

 タマラからはその背の影しか見えない。しかしどんな表情をしているのかは察せられた。駐屯地でヴィルヘルミナたち上官に見せる、精巧に造りあげた愛想笑いだ。外に漏れない囁き声でひたすらに相手をおだてていく。


「うちのおじーちゃんおばーちゃんも年やし、若いのもおおかた街に行ってもとるし。こういう時に頼れる人がおるのはほんま心強いで、ありがとうな」

「いや、まあなぁ。ワシらの村やしな、ここは。ワシらで守らんと」

「やなあ。できるだけ早よ駆除して、爺さん婆さんら安心させたろか」


 若い女性であるグレーテルに乗せられて、男らの苛立ちも多少収まる。こうしたところのコントロールはさすがに上手い。それとも、村で培った感覚を軍の人間関係に活かしているのだろうか。

 そんなことを思いながら、屋根裏の片隅でうずくまって目を閉じる。塞がった視覚の代わりに別の感覚が広がっていく。倉庫の外、囲われた羊たち、広々とした放牧地まで、無意識の網が張り巡らされ揺蕩たゆたって。


 ぞわり、背筋が粟立った。


「――――」


 気配がした。

 うまく言語化はできない。足音、かすかな唸り声、あるいは獣臭。感じ取れるあらゆる要素が交わって「野犬の群れがいる」という確信を告げている。


 おそらくもう牧場の敷地に足を踏み入れている。目標地点まで約150メートル。屋外におかれた羊たちに気づいたらしく、じりじりと距離を詰めようとしている。昨日襲われた厩舎は閉鎖されているから、あとは食いつくのを待つだけだ。


 ――このままタマラが黙っていても、きっとどうにかなるのだろう。


 グレーテルが目指していたのはあくまで最善の結果だ。これ以上の羊の犠牲を防いだうえで野犬を仕留める。逆に言えば、羊の犠牲さえ許容できるのなら、タマラが何もせずとも高確率で成功するのだ。


 そう、だって昼の会合でもそういう話になっていた。牧場主に羊を生贄に出してもらい、その襲われる鳴き声をもって銃撃する。そういう手筈なのだから。

 自分がその流れを乱すことなどあってはいけない。いてもいなくても変わらない、空気のような存在でありたいと祈っているのだ。


 ならば気づかないふりをしていよう。このまま目も耳も口も塞いで、ずっと、そうやって。


『大っ嫌い』


 胸を貫くその声は、タマラの内から反響していた。


『全部どうでもいい。そう思ってるみたいな顔、イライラするのよ』


 嫌い。それは安堵の言葉だったはずだ。

 このまま何もしなければ、グレーテルは今度こそタマラを見限るだろう。もう答えも意思も求められることはない。それでいい、それでいいはずなのに。


『選ばないなんてことはできないの』


 それはタマラが決めなければいけない。諦めても、何も選ぶことなどできなくても、それ自体がタマラの選択となる。

 ならばどうすればいい。何も決めたくなどなくて、けれどそんなことはありえないのなら。タマラは、いったいどうすれば――


『後悔だけは、しないようにしなさい』


「……っ!」


 また鼓動がどくんと響いて、湧き上がる衝動のままに唇が開いた。

 歯の根が合わず、カチカチ震える音が鳴り止まない。今にもひび割れそうな大海の薄氷を歩む心地、これまで佇んでいた場所から致命的なまでに踏み外す確信。


 怖い、恐ろしい、今すぐ立ち止まってしまいたい、それでも。

 タマラがいま願うのは、彼女のように後悔しない自分へ続く道だ。


「……に、」


 乾ききった喉を、かすかな声が擦りあげた。

 窓辺の男のシルエットたちがこちらを振り向く。それにひゅっと声帯が縮みかけて、しかしもうひとり、タマラを見ているひとがいた。


 表情なんて分からないはずだ。今日は暗い夜で、月も星もたいした助けにはならない。

 ただ目鼻立ちの起伏がわずかに見えるだけ。だから錯覚だったのだろう。グレーテルの眼がきらめいたのも、それがじっとタマラを待ってくれているのも。

 けれど構わなかった。その錯覚に、タマラは間違いなく背を押されたのだから。


「に、二時の、方向……80メートル、くらい……ぁ、いま、走りだし、て」


 選ぶ。紡ぐ。感じ取れるそのままを、声に変換して投げわたす。

 怖かった。タマラには感じ取れるだけだ、それが正しいかまでは分からない。間違っていたら、迷惑をかけたら、タマラの意思など言下に否定されたら……疑いだすときりがなかった。


 それでも、彼女は。


「来てて、います……もうすぐ、建物のあいだ、今――副分隊長っ!」

「よく言ったわタマラ!!」


 彼女はタマラの言葉に、ひとつの疑いも挟まない。


 囁きでの激励という器用な芸当をなしながら、グレーテルは男たちの間に割って入って窓を開く。同時に窓枠の上部から垂れ下がっている紐を引っ張った。母屋組への合図の鐘だ。どちらかが野犬を捕捉したら鳴らすことになっていた。

 実際に視認してもいないのにこの反応。男たちも呆然としており、「シャキッとせんかい!」というグレーテルの叱咤で慌ただしく窓から銃口を突き出す。


 直後、視界がオレンジ色に染め上げられた。点けられた傘付き電球が、グレーテルの手で屋外へと向けられている。

 スポットライトのように降り注ぐ光。その先に何があるのか、次の号令だけで理解できた。


「っぇー!」


 鋭い声が鳴りわたる。すぐさま連続する銃声は、その言葉が力を帯びている証左だ。彼女が自ら選んだ、軍人として積み重ねてきた経験の結晶。

 けれどその横顔は、駐屯地で見たどれとも違う、なにか得難いものを噛み締めるような笑みをしていた。

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