閑話百景:臆病者とこわいもの⑥

 大捕物は成功裏に終わった。


 仕留めた野犬は都合五匹、逃走した二匹にも傷を負わせた。対して羊の被害はゼロだ。銃声や野犬に参ってしまったようなのでケアが必要な程度である。

 立役者となったグレーテルは半ば激賞、半ば敬遠される結果となった。軍人としての彼女を目の当たりにして、有り体に言えば引いてしまったらしい。近所の人にも少なからず猫を被っていたから余計だろう。


 だから明け方に実家へ戻って、祖父や祖母から頑張ったと背を叩かれて、自室に入ってなお浮かない顔をするのもそのせいかと思ったのだ。同じベッドに並んで横たわり、曙光に照らされた唇が呟くまでは。


「……悪かったわよ」


 はじめは、何かの聞き間違いかと思った。


 謝った。あのグレーテル・アードラーが。社交辞令でも建前でもなく、心底気まずそうに。

 あまりの驚きに目を瞠るタマラをよそに、グレーテルは天井を見上げたまま、辿々しく心のうちを綴っていく。


「ここは軍じゃないし、私もあんたも軍人じゃない。そう言ったのは私だわ。なのに軍人の理屈であんたに当たったのは、謝る。ごめん」

「……ご、ごめんなさ」

「いいわよ謝らなくて。そういうの求めてない」

「は、はい……」


 と言われるままに首肯する。不思議なことに恐怖はなかった。頷くのも、首を振るのも、彼女の前なら平気な気がした。

 それでも声を絞り出すには勇気が必要だ。枕に口元を埋めそうになりながら、ぎこちなく一音ずつ刻んでいく。


「……お、おじいさん、に。聞きました」

「何を」

「その……副分隊長、の、お父さんもお母さんも……戦争で亡くなって……」

「は?」


 訝しみの視線がこちらを向いた。

 眉はきつく顰められている。不意打ちで苦い虫でも飲み込んだようだ。ずいと詰め寄られた至近距離から、吐息と詰問が飛んでくる。


「父さんも、母親も? 戦争で死んだって、おじーちゃんがそう言ったの?」

「ひっ!? あ、ぅ、ご、ごめんなさ……勝手に……」


 思わず身を引く。それでもベッドの淵が背に触れないから、思ったよりグレーテルの近くにいたようだ。初日はあんなに離れて眠ろうとしていたのに。

 一方のグレーテルも、タマラの反応で我に返ったらしい。居心地悪そうに眼を彷徨わせる。グレーテルの色で塗りつぶせない、母親の名残を宿したままの部屋に。


「あー……いや、まあいいわ。で? それがどうしたのよ」

「……だから、ですか?」

「何が」

「ふ、副分隊長が、わたしのこと嫌いなの……」


 問えば、グレーテルの瞳がちらりとこちらを一瞥した。

 次いで何事もなかったかのように嘆息し、上へとまっすぐ手を伸ばす。カーテンの隙からす朝のきらめきを握りこむ。

 くるくる変わる顔つきは、今はきっと研ぎ澄まされ、ただ前だけを見据えていた。


「まあ、当たらずとも遠からずね。私は軍で行けるとこまで行くって決めてるし、その上で大事なもの何ひとつ取り落としたくないの。

 だから全部どうでもいいとか、大事なものなんかないとか……そういう顔してるあんた見ると腹が立ったわ。それだけよ」

「え……」


 きっぱり言い切った彼女の横顔に、つい疑問を投げてしまった。

 今度こそ苛立ちの眼がタマラを射抜く。タマラが拙い意志表示をするようになっても、ことさら言葉の強さや威圧感を隠す様子はない。そこになぜだか安堵した。


「なによその反応。聞いてきたのそっちじゃない」

「ご、ごめんなさい、すみません……で、でも、あの」


 『それだけ』だなんて、そんなことがあるだろうか。

 だって、グレーテルは軍国の人間なのだ。おまけに両親ともにポモルスカを舞台に起こった戦争で死んでいる。だからありえない。夢を見てはいけない、分かっているのに。

 呟いて問うたこと、それ自体が期待の証だった。


「……わたしが、はんぶんポモルスカ人だからじゃ、ないんですか……?」

「は? なんでよ、それ今関係ある?」


 返ってきたのは呆れ顔。

 心の底から不可解そうな、何をほざいているのかと言わんばかりの憮然とした表情が、タマラの脳髄を麻薬めいて痺れさせた。


「あんたにポモルスカの血が入ってようがなかろうが、小隊にいる時点で軍国の人間でしょうが。くだんないこと言わないでよ。

 ――ああ、あともうひとつ訂正。別にあんたのこと嫌いじゃないわよ、今はね」


 駆け足気味に言い切るが早いか、グレーテルはぷいとこちらへ背を向けた。タマラが問い返す間も与えない。布団を顔の半ばまで引き上げ、くぐもった声を投げかける。


「はい無駄話おしまい。さっさと疲れ取っておじーちゃんおばーちゃんの手伝いしたいのよ。おやすみ」


 などと言ったきり沈黙し、聞こえてくるのは寝息ばかりとなる。だが数日前と同じ狸寝入りだ。朝日がカーテンを透かして溢れるこの時間帯、耳の赤さは隠せない。


 上官らしい権威を振りかざし、ぶっきらぼうな口調を絶やすことなく、しかしタマラを慮っていることは伝わってくる。


 グレーテルがこちらを振り向かないことは分かっていた。なのにタマラは彼女の黒い髪から目が離せずにいる。睡眠不足の視界がほどなくぼやけても、彼女の姿は最後まで消えずにいる。

 眠りの海に沈むまでのあいだ、その胸を満たすのは、ただひとつの感情だけだった。


 ――こわい。


***


 あの夏の日々から2年ほど経った。


 タマラはやはり臆病で、劇的には変われていない。ただ怠惰であることはやめようと心がけていた。

 怖くても、恐ろしくても、彼女へ自分の答えを絞り出す。それすら辞めてしまえば、もう彼女の後ろにいる資格もないだろう。


 だからこれも同じ。

 背後からぴしゃりと呼びつけられて、タマラは肩を竦ませながらも逃げずにいた。


「タマラ、ちょっと」


 そう声がかかったのは、洗濯ものの最後の一枚を干し終えたところだ。たぶんタイミングを見計らっていたのだろう。彼女は律儀だから。


 宿舎F1号棟一階のとある一室。物干しの紐が張り巡らされ、洗いたての肌着やタオルが吊り下がる。

 窓越しに沈みゆく夕陽を浴び、絞りの甘いいくつかはポツポツと床に滴を落として、洗濯ものは無風のなか静止していた。


 男の兵士らは外に干すこともあるが、特別措置小隊の女性兵らは室内干しを厳命されていた。点呼場は狭いし、聞いた話では何度となく盗難が発生したらしい。

 そのため洗濯ものは分隊ごとで空き部屋に干すことになっている。もとは婦人鉄剣大隊の宿舎だ。50名足らずの小隊ではどう使ってもお釣りがきた。


「ほーん。そんじゃマルガ一等兵はお先ーっす。おちゃーっしたー」


 ともに今日の物干し当番だったマルガは、場の空気を読んだのかあるいは巻き込まれたくないのか、長身にポニーテールを揺らして去ってゆく。

 すると残されるのはグレーテルとタマラだけだ。マルガの足音が聞こえなくなったころ、俯いた視界の端で、グレーテルの脚が一歩を踏み出す。


「ごっ、ごめ、ごめんなさい副分隊長……わたし、あの……ごめんなさい」


 彼女が何を言いたいかは分かっていた。昨日のちいさな騒動についてだ。

 グレーテルをどう思うか問われて、タマラは口ごもり、挙げ句の果てには逃げ出してしまった。


 とはいえ同じ第四分隊、部屋まで同室なので顔を合わせないわけにはいかない。互いに気まずいまま警備のシフトを挟んで一日過ごした。

 そんな半端な状態を彼女が許すはずもない。こうして詰め寄ってくるのは半ば必然だった。


「あー……まあ、そうね。あんたも悪いわ実際。相っ変わらず私以外とまともに話せないわ私に甘えっぱなしで翻訳させるわいっつもビクビクしてて見苦しいわ、やってらんないのよ」

「す、すみませ……」

「けどまあ、私も驕ってたことは、ええ、認めるわよ悔しいけど」


 吐き捨てる言葉は、しかし覚悟に満ちていた。


 顔を上げる。数歩の先にはグレーテル・アードラー。タマラより少し小柄な上官。

 出会って以来変わらない、祖母の話では母の出征前に切ってもらったのと同じ、黒いボブカットを弄んでいる。歯切れは子どもが悪戯を告白するように悪く、彼女にはとても珍しかった。


「ちょっと優越感っていうか、そういうのがあったのよ。あんた分隊長相手でもまるきりダメなのに私とだと会話できるし。あのやりたい放題の連中のなかでまともに私に礼儀払うのもあんたくらいだったし。

 だから、あ"ー……」


 ここで一度息を吐き、大きく吸う。胸がすこし膨らんだと思った次の瞬間、グレーテルは破れかぶれの高慢をかなぐり捨て、真っ赤な顔で声をあげた。


「ちょっと調子乗ってたの! あんたが頼れるのは私だけかと思って! ……悪かったわよ」


 あのとき以来の謝罪。言い切ると、脱力気味にうつむいて肩を落とす。

 まるで風船が萎むみたいだ。額に手を当て自嘲する姿は、なんだかとても、見ていられない。

 だがタマラを突き動かしたのは、それにも増して聞き逃せない単語たちだ。


「ったく、世話ないわ。世話焼いてるつもりがだのだの思われてたなんて……」

「ち、違い、ます!」


 叫びは掠れながら裏返り、空き部屋へ無様に響きわたった。

 物干し紐がぴりぴり震えている。喉がひりひり痛みを覚える。自分がこんな大きな声が出せることを、タマラは人生ではじめて知った。


 負の可能性を思い描く時間も挟めなかった。ただ必死だった。これだけは言わなければいけないと、怯えを覚えるより先に思ったから。


「き……嫌いじゃ、苦手じゃ、ない、です。思わないです、そんなこと……」

「……は?」


 ぽかんと口を半開きにして、数秒。

 ここでようやくタマラの発言が理解できたのだろう、眉間がぎゅっと険しい谷を作る。タマラが逃げ腰になるのも待たない。数歩の距離を遠慮なく詰め、タマラの両肩を引っ掴んだ。


「はあっ!? なにそれ、私謝り損じゃない!」

「ひっ!? す、すみませ、ごめんなさい!」

「やかましい!! ていうかあんた、じゃあなんであの時逃げたわけ!?」

「あ、ぇあ、その……急に聞かれて、びっくり、して。すみません……」


 謝罪が尻すぼみに消えるのは罪悪感ゆえだ。タマラが曖昧にしか答えなかったために勘違いさせてしまった。そして今伝えた理由がであることも、またちいさな良心を突き刺している。


 ――だいたいね、こんだけ私が世話焼いてるのよ。

 ――苦手だの嫌いだのなる要素がないじゃない。ねえタマラ?


 グレーテルは誇らしげにそう言った。これはまさしくその通りで、タマラが彼女を嫌う道理などまるでない。

 しかし思ってしまった。よく似た別の気持ちになら覚えがある。タマラにとっての原初の感情は、彼女の背を見つめるたび渦を巻いている。


 ――こわい。

 ――この人はこわい。

 ――意固地で、不器用で、それでも高潔な優しさが、なによりも。


 横暴なのに公平と情を捨てられない彼女が怖くて、彼女に期待してしまう自分が怖くて、それでも一度もタマラを裏切らなかった彼女が怖い。


 もっと信じていいと思ってしまう。もっとそばにいたいと願ってしまう。

 これが恐怖でなくてなんだろう。「苦手」や「嫌い」よりよほどタチが悪い。あの日は、そう考えていた矢先に話を振られて反応を間違えた。


 だがグレーテルはこんなことを知らなくていいのだ。彼女が疑う様子を見せず呆れてくれたのは、タマラにとって救いだった。


「あーもう、しょーもない……じゃああんた、私にやってほしいこととかないわけ?」

「え?」

「聞いてあげるわよ、この機会に。部下との相互理解も上官の務めだから」


 ほら、こういうところだ。


 上官の務めとは言うものの、これは気遣ってくれているのだろう。グレーテルに不満がないか問うているのだ。

 一方でその肩は緊張を示さず、安堵に緩んでいた。タマラに嫌われていなかったことで胸を撫で下ろしてくれている。そこに喜びを覚えてしまう浅ましさも、タマラにはまた恐ろしい。


 けれど一番恐ろしいのは、こうしてグレーテルに求めてしまう自分自身だ。


「……後悔、しない、で」

「は?」


 言葉にしてしまってから、猛烈な恐怖が襲いかかってきた。


 後悔だけはするな。2年前タマラにそう言ったことなど、グレーテルはきっと覚えていない。

 逆説的にグレーテルが後悔するようなことをしているのだと取られるかもしれなかった。となると彼女に対するこの上ない侮辱となる。


 そうやって様々な不安が巡りくるのに、グレーテルは不可解と不機嫌を割ったような表情をするだけだ。


「す、すみませ、あの」

「聞こえたけど。後悔って、何によ」

「…………ぜんぶ、です」


 あなたの選んだ、あなたの決断した、そのすべてに後悔しないあなたでいてほしい。

 半分は魂を絞るように言い切り、もう半分は心に仕舞いこんだ祈りも、グレーテルには馬鹿馬鹿しいほど自明なことなのだ。


「あんたも大概分っかんないわねー……するわけないでしょ、んなもん」


 はあ、と息をついて憮然として、それでおしまい。グレーテルにとってはただの当たり前だ。わざわざ頼まれるまでもない。

 彼女のそんな在り方にタマラは安堵し、恐怖する。


 やがて、廊下を走る誰かを感知した。多数が行き来する宿舎なのでこれは珍しくない。

 こちらに向かってくるのがわかった。この空き部屋は一階の人気がない方にあるので、少し奇妙だ。

 そして足音が直接聞こえてくる段になると、タマラも事態の特異性を確信できていた。体力の消耗を極力抑える、効率的な走り方と軽い足音はナターリエのもの。彼女は滅多に廊下を走らない。なにか急ぎの用件がない限り。


 グレーテルも気づいたのだろう、開け放しの入り口を振り返る。その瞬間にナターリエが部屋へ飛びこんできた。グレーテルの姿を認めるや否や、救いを求めるように眉を下げる。


「副分隊長、よかったまだいたぁ!

 大変です、ベアテさんとイルちゃんがなんやかんやで爆竹詰めたウィッカーマンを駐屯地中に仕掛けてキャンプファイヤーでスタンプラリーしようとしてます!! アネットちゃんが混ざる前に止めてください!!」

「あぁ!? あいつら何やらかしてんのよ!?」

「よく分かんないです……あっ、あと副分隊長の居場所聞くときマルガさんにも伝えたんですが、すっごい面白がってる顔して飛んでいきました!」

「絶っっっっっっっ対もっと面倒なことになるやつじゃない教える相手選んでよ!!」


 苛立ちの声はどんどん悲鳴じみていく。しかし頭を抱えてばかりのグレーテルではない。心底嫌そうにしながらも黒いボブカットを払い、踵を返す。


「ったく警備で大変な時期だってのに考えなしどもめ……ふん縛ってでも止めるわ、行くわよタマラ!」

「は、はいっ」


 肯定を言葉にして、少し低い彼女の背を、歩幅を合わせて追いかける。そこに救われた。それが怖かった。

 恐怖はタマラの人生を縛りつけてきた。今でもありとあらゆるものに怯えを捨てられない。これは厭うべきもので、できるものなら失くしてしまいたくて、けれど、ただひとつ。


 望んでしまう。

 この恐怖やさしさだけは終わりませんように――なんて、信じさせてくれる絵空事を。

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その仇花で撃ちぬいて 橘こっとん @tefutefu

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