3-18その眼に焼きつく、あの一瞬

「ふむ。なるほどな」


 新たな煙草に火をつけながら、小隊長――ツェツィーリアはヴィルヘルミナたちの報告に首肯を返した。


 視察も演説も混乱のうちに中断し、トラブルに伴う各種引き継ぎを終え、ヴィルヘルミナたちは駐屯地に戻ってきていた。

 時刻はそろそろ日付をまたごうとしている。なのにツェツィーリアは眠たげな顔ひとつせず、隻眼はむしろ爛々とした光を放つ。古ぼけた電灯が時折瞬く小隊長室ではなおのこと目についた。


「ひとまずよくやったと言っておこう。貴様らの最優先任務はケストナー夫人の警護だが、それが達成できた上で敵の本命を潰しに行ったならまあ現場判断の範疇だ。後から記念館襲撃が判明してあの場の部隊丸ごと無能呼ばわりされるよりはマシだとも。まあ最悪ではないな」

「いえ」


 首を振る。上官の話を否定するなどもってのほかだが、これだけは伝えておかなければならない。隣のユリアがおっとりと首を傾けるのを横目に、紫煙をくゆらせるツェツィーリアへ進言する。


「一人の狼藉者相手に複数の軍属がしてやられた事実は変わりありません。状況から見て、我々は明らかに手加減されていました」


 してやられたことに気付いてしばし、その実感はじわりじわりとヴィルヘルミナを蝕んでいた。


 ナターリエは命綱の金具を破壊されて狙撃を防がれた。しかしそんなものを狙うくらいなら頭を撃ちぬくことだってできたはずだ。

 ヴィルヘルミナも同じ。徒手空拳にしろ銃への反応にしろ、いや催涙ガスを撒かれた時点で既に、ガスマスクの女はヴィルヘルミナを上回っていた。


 彼女はヴィルヘルミナたちを殺せなかったのではない、殺さなかっただけだ。痛み分けなどとんでもない。


「しかも結果的には敵の策に乗せられ、記念館からの盗難を許しました。我々の完敗です。申し訳ありません」

「結構」


 煙草を挟んだ唇がにっと笑う。眼の光に揺らぎはない。執務机に頬杖をつき、ツェツィーリアはいっそ和やかともいえる調子で続ける。


「分かっているなら尚更言うことはないな。で、その盗まれた品だが。聞いたところによるとポモルスカからの寄贈品らしい」

「ポモルスカから?」

「ああ。政府が作った大戦期の勲章全種だそうだ。今のポモルスカと軍国の友好関係をアピールするものだから、まあポモルスカ難民には面白くないだろう。

 演説の後の会議でもこれの展示について話しあう予定だったらしい。グルーべ卿はお冠だよ。視察を延期しなかったのはケストナー大佐の希望だったからな」


 灰皿に煙草の先を落とすツェツィーリア。今回の視察については衛兵隊も記念館側も延期の提案をしていたという。しかしアルバートは、脅迫がいつまで続くか分からないことを理由にそれを断っていた。

 本格的な選挙活動前に視察を終えておきたいこともあっただろう。だが結果的にはそのせいで記念館が巻きこまれた形になる。要は貴族派と市民派の間にまた新しい火種が落ちてきたわけだ。


 国民に慕われる一方、ポモルスカ人には憎まれ貴族派には疎まれる。シャルロッテの夫は敵も味方も多かった。


「となると、ヴィルヘルミナちゃんたちが戦った女の子もやっぱりポモルスカ人なんでしょうか〜?」

「可能性は高いな。ポモルスカでガスマスクは反軍国のシンボルだ。まして戦前ポモルスカの儀仗兵装ときた。少なくとも連中の一味だろうよ」


 頷き。軍国がガス兵器でポモルスカの土壌を汚染した大戦以来、ポモルスカ人にとってガスマスクは機能以上の意味を持つようになった。反軍国のスローガンの落書きにガスマスクの絵がつくのはお約束になっている。

 ここまではほぼ常識だったが、ツェツィーリアの教養はより深い。ガスマスクの女の軍服についても話だけで分かったらしい。報告の際に特徴を説明するや否や本を開き「これか」と問うてきた。


 その軍装図鑑によると、女の着ていた服は戦前ポモルスカの政府儀仗兵――要はエリートの軍服らしい。


 ポモルスカ共和国は大戦を挟んで政治体制が大きく変わっている。そしておおむねのポモルスカ人は戦前の体制を懐かしんでいた。ポモルスカ人テロリストとしては象徴的な服装といえる。


「まあ、いささか気もするがな……」


 そんな疑念なのか感想なのか分からない言葉を紫煙に混ぜ、ツェツィーリアは煙草を潰した。

 手を叩く。話題を変えるときの彼女の癖だ。そのまま遠慮のない視線でヴィルヘルミナの顔を撫でる。


「にしてもだ。まさか第四分隊の荒くれ者たちがことごとくやられるとはな」

「申し訳ありません。力不足、心より不甲斐なく思います」

「いや、正直私にとっても意外だよ。それだけの相手だ、今後も荒事には顔を出すかもしれん。識別名をつけたい」

「識別名、ですか〜?」


 うむ、と首肯するツェツィーリア。神妙な顔をしているがすぐに分かった、これは面白がっているだけだ。まなじりのぴくぴく緩みかける癖が出ている。

 この状況を楽しめる豪傑肌は頼もしい反面、素早すぎる切り替わりについていけない。ツェツィーリアは椅子に背を預けると、それらしい理由をいくらか口にする。


「名前をつけておいた方が脅威としての情報共有もしやすいからな。分かりやすいのは大事だ。

 ガスマスク女……だとガスマスクを外された時に困るか。それに決まらん」

「う〜ん。ワタシは直接見ていないのでなんとも。ヴィルヘルミナちゃん、なにかいい特徴とかありそう?」


 ユリアがこちらに話を回す。ついにツェツィーリアの唇がにんまり笑いを露わにした。思わず眉を下げそうになりながら、ひとまず思いつくところを挙げる。


「髪は長い赤茶色でしたが……地毛かどうかは何とも」

「カツラの可能性が高いな。衣服も変えられたら終いだ、ちょっとやそっとじゃ変えられないものが望ましい。目が片方潰れてるだの肩脚が義足だの……」

「あら、それって小隊長のことじゃないですか〜」

「ふふふん、バレたか」


 などと笑いあうのだが、この冗談にあの答えを返せるのはユリアくらいだろう。少なくともヴィルヘルミナには無理だった。

 なんとも言えない気まずさから逃げ出すように記憶の海に集中する。そこもまた苦い。敗北の味だ。二度と忘れないよう刻みつけながら、彼女の姿を分解する。


 体格はやや小柄、おそらく160cmに満たない。隙のない身のこなしは賢しい獣のそれ。細部を思い起こそうとしても俊敏な動きとガスマスクの印象が邪魔をする。

 ひりつく嫌悪と苛立ちに刺激されながらより記憶に手を伸ばし――ヴィルヘルミナはその瞬間を掘り当てた。


「……灰の、瞳」

「瞳?」

「鉛玉のような灰色をしていたのを見ました。ガスマスクのレンズを割った際に、わずかですが」


 ガラスの破片と睫毛に隠されたその向こう。今になって思うと本当に幻のような一瞬で、しかし驚くほど脳に焼きついていた。


 他にも特徴はあったのに、と思ってすぐに答えへ辿りつく。逆だ、そこしか印象に残らなかった。

 ガスマスクも旧い軍服もポモルスカ人を代表する記号に過ぎない。無機質にヴィルヘルミナを圧倒するさまは悪魔のように見えた。


 しかし垣間見た素顔だけは、ポモルスカ人の憎しみの象徴ではない、ただひとりの人間を示している。


 彼女を指すのにこれ以上の材料はないだろう。ツェツィーリアも顎に手をあてて頷く。


「眼球の色か。それは確かに変えられんな。ガスマスクの裏を知っているんだ、牽制にもなる。

 ではガスマスクと旧ポモルスカ軍服を着用した脅威につき、今後は『灰瞳の女アッシェ』と呼び習わすこととする。各分隊内にも周知しておくように」

『はっ!』


 反射的に踵を揃えて敬礼。それに鷹揚な頷きを返して、ツェツィーリアは片方しかない目を細めた。


「それにしても心底思うよ。今回は貴様たちに任せてよかった。本当にな」

「え? ですが、我々は……」

「よくやったと言ったろうが。英霊墓地に罠を仕掛けた第三分隊も、正しく事態を見極めた第四分隊も、実に冷静にやってくれた。少なくとも、私や第一第二が行くよりかよっぽどな」


 杖を手に取り、机を立つ。そしてツェツィーリアは背後の窓へと視線を投げた。

 こちらからは眼帯で覆われた右目しか見えない。だから彼女の表情は口元から窺うしかなく、けれど笑みを浮かべたきりの唇は、その内心へ触れる試みを拒絶していた。


「英霊墓地はすべての戦死者のためのものだ。地に呑まれて消えたとはいえ、我々の戦友もあそこにいる」


 ガラスの向こうの星空を見上げ、寄る辺ない声がヴィルヘルミナの胸を突く。ユリアも、いや小隊の者なら誰でも同じだろう。ここで知らない者などいない。


 特別措置小隊の前身は婦人鉄剣大隊だ。大隊のが集まって今の小隊組織を立ち上げた。

 つまりヴィルヘルミナたちの上官――第一分隊長も第二分隊長も、そして小隊を設立したツェツィーリアその人も。みなあの地獄を体験している。


「そこで好き勝手する輩に居合わせてみろ、五体満足で引き渡せる自信なぞない。だから貴様たちでよかったよ。感謝する」


 ここに至って、ヴィルヘルミナはようやく理解した。これが自分とユリアにこの任務が課された理由。

 十月会戦を知る者では駄目だったのだ。「戦争」を肌で感じたことのない世代でなくてはいけなかった。


 役に立てたことで救われる反面、寂しくも思う。階級以上に踏みこめない違いがそこにはあった。永遠のような数メートルを隔て、ツェツィーリアは煙草にまた火をつける。


「なあ、ひとつ聞きたい」

「はい」

「あの地に眠る戦友は、我々の働きに満足してくれているだろうか」


 彼女の言う「あの地」は英霊墓地のことなのか、それとも仲間を奪った奈落のことなのか。


 どちらにせよ軽々しく答えられる問いではなかった。ヴィルヘルミナはあまりに知らない。仲間を遺してゆく無念も、上官たちの見た絶望も、何も。

 だから隣のユリアの存在は救いだった。逡巡に囚われることなく、彼女は答えを返すことができる。


「ええ、もちろん。小隊長はこんなに頑張っておられるんですから。きっと皆さんも見守ってくれてますよ。ありがとう、えらいぞ、って」

「……そうか。そうだな、ならいい」


 言うと、ちらりと見えた歯が煙草をくわえる。それが頬の綻んだ証だと気づくまでにしばらくかかった。


 それ以上の言葉はない。ヴィルヘルミナもユリアもツェツィーリアも、みな窓の外の暗闇を見やりながら立ち尽くす。

 時が経つにつれ鼻をつくのは紫煙の匂い。部屋に滞留し、ガラスに遮られたまま行き場を失っている。


 星々には届かない。今はまだ。

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