3-17無双のふたりの小凱歌
「はいはーい、おかえり。お疲れー」
夕焼けを照り返す河畔にて。川から這い上がってきた同胞に手を貸しながら笑って迎える。ライサももう中年女の姿ではなく、この周辺に住んでいそうなごく普通の娘の皮をかぶっている。
そのまま人目のない路地裏に引き込んでタオルと着替えを渡す。ずぶ濡れだという以前の問題で、ガスマスクに古めかしい軍服という装いはかなり目立った。
いくら大きな遊覧船にくっついて上流へ逃れたとはいえ、敵の目がないとは言い切れない。濡れたカツラを絞りながら母国語で話しかける。
「さっすが、予定どおり。茶々は入ったけどまあ想定内だよね。じゃあ後は着替え――って、え、どうしたのそれ!?」
半ば飛びかかかるようにして肩を掴む。ガスマスクを外した仲間の顔面が血まみれだったらこうもなるだろう。
彼女は相変わらずのポーカーフェイスだが、ライサの側はそう落ち着いてもいられない。無理やり顔を上げさせて矯めつ眇めつ検分する。
「え、撃たれた? すごいバンバン撃たれてたけどあれまさか当たっちゃった? ちょっと診せてよ大丈夫!?」
「弾は当たってないよ。ガスマスクのレンズが割られて、破片でちょっと切っただけ」
言いつつ黒いガスマスクを差し出してくる。右側のレンズの下半分が割れていた。
だからといって安心はできない。破片が刺さっていたり目に入っていたりしたら最悪だ。
されるがままの彼女を、特に透き通った灰色の瞳を重点的に眺め回す。そして傷口を特定しきったところで、ライサは深く安堵の息をついた。
「っはー、よかったあ。そんな深くない。これなら跡もあんまり残らないかな。せっかく綺麗な顔なんだもん、もっと大事にしてよ」
こめかみのあたりから出血していたこと、それが水で希釈されていたことが大袈裟に見せていただけだ。傷自体はそう大したことはない。
実に幸運だったと胸を撫で下ろす一方で、意外な結果に認識を改める。どうやらライサが思っていたほど簡単な事態ではなかったらしい。彼女を解放し、半ば独りごとのように呟く。
「にしても、そっか、そこまでだったかあの人たち。なんだかんだ、私の保険も全部使っちゃったし。侮ってちゃダメだねやっぱ」
言いながら、今回の任務にあたって設けた「保険」をひとつひとつ思い起こす。
まずひとつ、囮としての暴動。あの場には報道陣も多くいた。ポモルスカ人の敵意と自発的反抗を印象づけることもできて一挙両得である。
次に煙とガスマスク。両方を暴動で使用し「煙幕と顔を隠すためのものだ」という先入観を植えつけ、催涙ガスの使用を盲点にする。
さらに分かりやすい誘導。罠を疑わせて背後に余計な気を回させる。この記念館襲撃は「明らかにそうと分かるもの」でなければいけない都合もある。作戦中に誰かと居合わせるのも想定内だった。
そしてその場合、変装したライサが目標物を回収し、ガスマスクをつけた彼女は敵の目を引きつけつつ逃亡する――以上4つの保険は無事機能したわけだが、逆にいえばすべてのカードを切らされた。
こういうものは一手二手残して終わるのが一番いいのだ。ライサが相手を見誤っていた証拠である。
悔しいというよりも不甲斐なく、矢面に立ってくれた彼女へまっすぐに謝罪する。
「ごめん。私の見通しが甘いせいであんたに怪我させちゃった。口うるさい連中がいるっていっても、「基本的に殺すな」なんて言わなきゃよかったね。そんなこと言ったらあんた殺せないでしょ」
「――――」
塗りこめられた絵画のような瞳がぴくりと揺らいだのは、果たして気のせいだっただろうか。
次には彼女がカツラを脱いで顔が隠れたから、もう確かめようがない。
赤茶色のカツラの下からは雪の陰影を写しとった銀髪が顔を出す。見事な色合いをしているのに手入れが適当なものだから、いつもライサをやきもきさせた。軍服を脱いでいるあいだにタオルでごしごし水気を吸ってやる。
「次からは方針変更ね。自分の身が危なくなったら殺していい。殺しちゃいけない相手がいたらその都度言うから、とにかく自分の身を最優先にして」
「わかった」
素直に頷く。こういうところは彼女の美徳だが、本当に律儀に従うので迂闊なことが言えない。
だからこそライサが気を引きしめなくてはいけないのだ。この任務中、彼女を活かすも殺すもライサ次第。その自覚は忘れない。
彼女は濡れた身体を拭き、用意した衣服に手早く着替える。可愛らしいワンピースだ。言わずもがなライサの趣味である。
軍服とカツラはできる限り水気を絞って袋に入れ、小銃も分解して同じく。あとは帰るだけだった。
「まあ目的は全部達成できたし、成果としては十分。あんたのおかげだよ、ありがとね」
「でも、カバン落としたまま逃げた」
「え。あ、ほんとだ」
そういえばあのブリーフケースを持っていない。万一の時は遊覧船の訪れる時間をタイムリミットとして最優先で逃げろと伝えていたので、その指示に従ったのだろう。
目標物はライサが持ち帰っているからそこは問題ないのだが、つまり現場には空のブリーフケースが残された形になるらしい。
「本当しつこかったみたいだね。てことは、多分あっちも気付くかこれ」
「ごめん」
「いいよいいよ、もうあの顔使わなきゃいいだけだしね」
端的な謝罪は笑って流す。彼女ひとりが軍人たちを翻弄し、この黒いケースを奪取し、その上で逃れてみせた。これだけの戦果があれば文句なしだ。
なによりこの娘に罪悪感など持たせたくない。ことさら悪戯っぽい表情を作り、くるりと回れ右をする。
「さあて、それじゃあチップの回収に行きますか守護天使さま。何倍になって返ってくるか、いやはや楽しみですなあ」
ここからが本番だ。頭には冷たい策謀を、傍らには忠実な刃を。ふたつ絡めあわせて切り開く。
心細くはある。警戒すべきことだっていくらでも。けれど大丈夫だ。すべて読みきりねじ伏せればいい。
ライサと彼女が共にいれば、なにひとつ怖いものはない。
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