3-6微笑む高きの絶対支配

 中心街のそのまた真ん中にある、最高級ホテルのレストラン。それが今回の会食の舞台だった。


 赤いカーペットに白いテーブルクロスの席が並ぶ空間はいかにもきらびやかだ。確かここは大窓から見える美しい中庭が評判のはずだったが、警備上の理由か今は分厚いカーテンがかかっている。その代わりとでもいうかのように、レストランの中央では小さな噴水が涼やかな空気を作り出していた。

 鳴り渡るレコードの響き、その軋みを和らげる水流。給仕される食事は彩りも味もいちいち上品で、本革のソファはゆったりと身体を包みこむ。華やかさと安らぎを追求した空間には、居心地が悪くなるほどの居心地のよさがあった。しかし周辺に関係者以外の姿はなく、ほとんどシャルロッテたちによる貸切のような状態だ。


 初老の男はその中心で、白髭に飾られた口元をゆっくりと拭う。


「いや、それにしても光栄なお話ですな。こうして時の人にお会いできるとは。まったく、身の丈に合わない役職にも就いてみるものだ」

「光栄なのはこちらの方ですよ。私は日々の学びも足りない青二才です。視察など身に余る役割ですよ。今回は勉強させていただくつもりで伺いました」


 アルバートがそつなく応じる。その向かい側から、男は人の好さそうな笑みを返してきた。


「ははは。失礼、気を遣わせてしまいましたか。年を食うと若者に謙遜させるようなことばかり言ってしまう、許していただきたい」


 歳のわりに血色のいい顔がくしゃりと綻ぶ。皺で垂れた目元はいつも微笑んでいるようにも見え、ゆるやかな口調は余裕と品を感じさせる。モーニングコートを着込んだ姿はいかにも好々爺じみた風体だ。どこぞの学校の校長や小さな街の町長といった感じにも見える。

 しかしその穏やかな振る舞いに気を取られた者は、彼の素性を聞いたとたんに卒倒するだろう。


「ご冗談を。どれだけ自分の栄光をひけらかしたところで、貴方の前ではすべて謙遜になりますよ。グルーべ中将閣下」


 百点満点の答えを返し、アルバートは食後の紅茶を一口含んだ。


 オイゲン・H・フォン・グルーべ――旧貴族筋の人間にして、かつての陸軍中将。大陸大戦でも中央で参謀を務めていた、掛け値無しの大物だ。

 いくら国民的人気があるとはいえ、アルバート程度の立場では礼を尽くすほかにない。こうして下手に出られるとなおのことやりづらいだろう。それを分かっているのかいないのか、グルーべはなおも柔和な笑みをたたえて白い髪を撫でつける。


「その呼び方はやめていただこう。今の私はただの退役軍人、天下りで館長の座を用意してもらった老輩だ。現役の貴殿にはとても敵いますまいよ、ケストナー大佐」

「私の階級とてただの名誉職です。むろん、軍政府の一員として認められたことは光栄の極みですが……ここで満足してはおれません。妻と二人三脚、軍国のため全力を尽くします。そうだろう、シャル?」

「ええ、アル」


 即座に返して、シャルロッテは完璧な妻の笑顔をかたちづくる。もはや条件反射だった。意識するより先にやっているし、こうしてアルバートに小さく身を寄せるところまでが刷りこまれている。

 反吐が出るような演目だ。記念館の様子を見に出たヴィルヘルミナが立ち会っていないことだけが幸いだろう。


 まるで微笑ましい光景でも見たかのように、グルーべは口元をゆるめる。うんうんと物知りげに頷く仕草がいやに気に障った。


「いやはや、本当に仲睦まじいですな。実に羨ましい。それにしてもこんな時期に本当によろしいのですかな、色々と大変でしょうに」

「いえ、お気になさらず。むしろこうしたことができるのは今だけですからね。騒ぎが収まるのを待っていてはいつになるか分かりません」


 これは本音だろう。脅迫騒動は犯人を捕まえない限り止まらないだろうし、もうしばらくすると選挙活動の時期だ。そこまでこの視察を延ばし延ばしにするわけにもいかなかった。


 そもそもアルバートがなぜ大戦記念館を視察することになったのかという話だが、これはまず記念館の由来にまで遡る。


 大戦記念館は7年ほど前に作られた博物館で、ようやく財政に余裕の出てきた軍国が鳴り物入りで開館させた。民間企業の大物らが提言したこと、軍政府がそれに乗ったことなどから、≪雇用革命≫の記念碑的な側面もあったのだろう。軍政府と市民の協力関係をアピールし、軍国の復興を強調する。そんな当時の一大事業だった。


 だが大戦を記憶するという目的は同じでも、それを叶える方法についての見解は軍政府と市民の間で異なっていた。

 軍政府は大戦の美化……ひいては軍隊の正当性の強調を望み、多くの市民は大戦の悲惨さを嘘偽りなく伝えることを願う。この点では相当揉めたらしく、結果的には「大戦で散った英霊たちの礼賛と鎮魂」を趣旨としつつ、官民共同で展示の内容を決めていったという。


 しかしいかんせん国立博物館だ、開館後のイニシアチブは軍政府に委ねられる。そのため軍政府がプロパガンダ的な展示をしていないか、当初の祈念に背く運営方針をとっていないかを確認すべく、民間企業側から年に一度の視察が入ることとなったのだ。


(まあ、ほとんど形だけみたいなものでしょうけど……その形こそが大事なんでしょうね、お互いに)


 そもそもとして、軍政府と民間企業の癒着が著しいのは周知の事実だ。アルバートのような事業家に名誉将校の地位が与えられていることからもこれは明らかだろう。

 それでも視察が義務化されているのは、軍政府らが国民の意思を尊重しているという演出のためのポーズにすぎない――シャルロッテの見解はそんなものだった。


 視察にアルバートが選ばれたのも、彼の政治的立場を思えば必然といえる。

 市民からの支持が高く、政治的にも信用できる人間。出来レースにはもってこいの人選だろう。アルバートにしても選挙活動の際にこの視察をアピールポイントにできる。どの方面にとっても都合のいい打算だった。


 つまりはこの好々爺めいた退役軍人も、決して善良なだけではない。ふうふうと紅茶を冷ましてから一口啜って、あくまで穏やかな風に問いかけてくる。


「ところで、小耳に挟んだのですがね……リヒター大佐と少々揉めたとか。大丈夫でしたかな」


 きた。シャルロッテが知らず身構えてしまった間にも、アルバートは顔色ひとつ変えないままで応じる。彼は自分よりも役者向きだと、こういうところを見るたび思う。


「お気遣いくださりありがとうございます。大佐ご自身というよりも、衛兵隊に所属しておられる御子息と、ですかね。衛兵隊でいざこざがあったと聞いております。衛兵隊内部のことならば本来我々から口出しすべきでもないのですが……それがこちらの警備に影響するのなら、苦言のひとつふたつは言いたくなってしまうのが人情です」

「いやはや、心中お察ししますな。リヒターも悪い人間ではないのだが、いささか気位の高い男だ。息子にもそこが遺伝したと見える。軍隊では悪目立ちするでしょうなあ」


 同情的にゆるやかな首肯を繰り返す。その動きがぴたりと止まった瞬間、皺で垂れた瞳は剣呑な光を宿していた。

 紅茶をソーサーに戻す音が甲高く響く。口髭の奥の口は、もはや笑ってはいない。


「だがケストナー。それが貴殿の邸宅での警備に影響したというのは、少々早計な考えではないかな。

 実際、リヒターの息子に感化された衛兵隊の面々も、最終的にはデモ鎮圧に協力したと聞く。緊張した局面で出るタイミングを伺っていただけの話、それを悪意と呼ぶのはいささか苛烈だ」


 わざわざアルバートを正式な階級名で呼び、説き伏せるように告げる。威圧を隠さない口調は非情ですらあった。これは助言ではなく警告だと、言葉以外の全てで伝えている。


 そう、彼は旧貴族の血筋――リヒター大佐と同じ、典型的な貴族派だ。要はアルバートたちの政敵である。

 そしてアルバートらは警備の不備に関わったとして、リヒターの息子をはじめとした何人かを名指しで非難していた。これ以上騒ぎたてるなと、釘を刺していることは明らかだった。


 無言の戒めは十秒きっかりで解かれた。ふっと相好を和らげると、グルーべは再びカップを取ってソファに背を預ける。穏健に収める姿勢を見せて同意を誘うつもりらしい。そういう戦略を平然と取るあたり、やはり彼も政治家なのだ。


「不幸な行き違いと、外からはそうとしか見えない出来事でしょう。あまり大仰に構えてはせっかくの寛容さが台無しだ。ここはひとつ、落ち着いて……」

「女性の隊を外の警備に回して外敵の対応に当たらせ、自分たちはただただ出る機を伺う。しかも理由は上官に責任を被せるためときた。それを悪意と呼ばずどう呼びましょうか」


 刃先の閃きさえ幻視する、研ぎ澄まされた切り返しは傍らから。

 胡散臭い微笑みをたたえ、常に鷹揚に構えているはずの夫のものだった。


「……っ!」


 心身が問答無用で凍りつく。アルバートの方を見ることができない。それでもどんな表情をしているかは分かる、分かってしまう。


 きっといつも通り、火傷跡のある頬には爽やかな笑みが描かれているのだろう。眼差しはあくまでも優しげで、ゆるやかに伏せられる目蓋には労わるような色さえあるはずだ。

 

 だが空気が決定的に違う。アルバート自身はなにひとつ変わってはいないのに、一秒ごとに場の軋みが二乗されてゆく。

 まるで大気の方が彼に応じているみたいだ。空間がひび割れていくかのような錯覚がある。


 指先はぴくりとも動かせない。呼吸のやり方さえ忘れてしまう。きっとグルーべも同じだろう。ならば、ここはアルバートの独壇場だった。


「私はね、少々口惜しいんですよ、グルーべ。妻を残してきた家を任せたのは、彼らに対する私なりの信頼でした。それを内輪揉めなどで踏み躙られてはたまらない。穏やかな対応だと自負しているのですよ、この憤りの割にはね」


 朗々とした語りはひたすらに穏やかだ。なのに言葉は一切の容赦も見せず鋭くて、グルーべとはちょうど真逆といえた。しかしそれ以外については比べることもできない。


 急速に失われてゆく反骨心。自分は彼の気まぐれで動かせるちっぽけな人形にすぎないと、全身で自覚させられるような絶望感。とまったく同じ畏怖が五感を摩耗させてゆく。

 これだ。これがあるから、シャルロッテは夫が心の底から大嫌いで――そして、何よりも恐ろしいのだ。


「名誉職とはいえ、私も士官……軍人です。栄光のための闘争に迷いはありませんよ」


 言い切って、その後には誰も続かない。グルーべも、シャルロッテも。沈黙に比例して酸素が張り詰めてゆき、本能的な恐怖が限界だと悲鳴をあげたころ。くすり、と小さな笑声がこぼれるのを聞いて、全身にかかる圧は霧散した。


「とはいえ、この場に妻を連れてきている身で啖呵を切れるはずもありませんがね。本当は家で待っていてもらうつもりだったのですが、私が心配だと妻に言い負かされまして。こうして支えてもらっております」

「……そうですか。いや、さすがは「国民の良妻にして賢母」といったところですな。淑女の鑑だ」


 一度深く呼吸するだけで平静を取り戻し、何事もなかったかのように応じるグルーべ。さすがに取り乱した様は一切見せないが、その勝敗は明らかだった。


 余人にはただの世間話に見えたらしく、必要以上にこちらを気にする様子もない。いつの間に戻ってきたのか、警備にはヴィルヘルミナの姿もある。それを目にしてやっと安堵の息をつくことができた。

 彼女らの並ぶ壁際、大仰な柱時計は一時半を指している。中年の男がグルーべのもとへ駆け寄って告げた。


「館長、そろそろ」

「あ、ああ。もうそんな時間だったか。ご夫妻、お食事はもうよろしいかな?」

「ええ、ありがとうございます。素晴らしいお料理ばかりでした」


 そうはにかむ口元も、あの気迫を受けた二人にとっては白々しいばかりだ。だがグルーべは眉の端をぴくりと動かしただけで流し、「それはよかった」と杖をつきながら立ち上がる。


 そしてこちらに向けた表情は紛れもなく笑顔で、同時に疑いようのない警戒が潜んでいた。


「では、そろそろ向かいましょう。あまり遅れてしまっては貴殿のファンに叱られてしまう。我々の英雄を独り占めするな、とね」

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