2-13ケストナー夫人と少年の対話

(お話をはじめましょう――ね)


 ドアもなくひとつづきになっている部屋の壁と向かいあい、寝室のソファに座したシャルロッテは苦笑する。


 我ながらなんと白々しい。敵意を向けている相手にこんなことを言われて、少年もさぞかし苛立たしいだろう。実際、返ってきた言葉は煮立った怒りに満ちており、堪えられているだけでもたいしたものだった。


「……話なんてするつもりねえよ。俺はオトシマエをつけにきただけだ」

「オトシマエ?」

「お前とケストナーのクソ大佐のせいで、父ちゃんは憲兵警察なんかに捕まった。ぜんぶお前らのせいだ」

「どういうことかしら」


 「しらばっくれんじゃねえよ」と吐き捨てて、少年は少しばかり押し黙る。


 先に事情を話させようとする魂胆が読まれたのかもしれない。沈黙はただの反発なのか、これから続ける言葉を考えているのか。どちらにせよ聡い子だった。


「……父ちゃんは体の弱い母さんや俺たち兄弟のために働いてた。こっちの国にきて大変なことばっかで、せっかくいい仕事もらえても取り上げられて、ポモルスカにも帰れなくて。ずっとつらい仕事ばっかさせられてた」


 やがて開いた口からぽつりぽつりとこぼれてきたのは、よくある一家の話だった。軍国のポモルスカ難民ならばありふれている境遇で、しかし当人たちにとっては唯一無二の理不尽。

 そんなことを思ってしまえる程度にはシャルロッテもポモルスカ難民に対して所詮は他人事であり、客観的であり、そして実情を知ってしまっていた。


「だけど父ちゃんは頑張ってくれてたんだ。俺たちや母さんのためならどんなことでもやってやるって言ってたんだ。だからきっとあのことだって……」


 そう捲したてた直後、ぐっと言葉が詰まる。次に叫びがあがるまでのわずかな間隙、手負いの獣のような呼吸が震えていたのに、シャルロッテは気がついていた。


「お前らの、ぜんぶお前らのせいなんだからな! 父ちゃんはお前らがやったことに仕返ししようとしただけだ! それの何が悪い!!」

「暴れるな、座っていろ!」


 隣室がにわかに騒がしくなる。ヴィルヘルミナが押さえてくれるにしろ、少年の忍耐はもはや限界だろう。自らの窮状を語るにはなんらかの感情が煽られるものだし、シャルロッテ――アルバートの身内が相手ならば尚更だ。


(≪雇用革命≫の影響はまだまだ終わらない、ということね……)


 ≪雇用革命≫が広まって10年。多くの軍国民はポモルスカ人の自業自得だと心寄せることもなく、窮状に堕ちたポモルスカ人は軍国のすべてを憎んでいる。過去の遺恨をなくすにはあまりに短く、新たな諍いを産むには十分すぎた。

 ここまで深くなってしまった溝はもはや容易には埋まらない。だからシャルロッテがすべきは、反駁でも理論的な論破でもなかった。


「そう……謝るわ。ごめんなさい」


 背後のポニーテールの軍人――マルガといったか――が軽くぎょっとしたのが分かった。実際に頭も下げたのが分かったわけではあるまいが、隣室からも息を呑んだ気配がする。やや戸惑いをにじませて、けれど怯むことなく少年は声をあげた。


「あ、謝ってすむ話かよ!」

「そうね。でも、元はと言えば私が昨日軽はずみに外へ出たのが直接の原因だわ。部屋にこもってさえいれば、あなたのお父さんも私をさらおうとせずにすんだのにね」


 沈痛の色を帯びて流れてくる言葉は、紛れもなくシャルロッテの本心だ。それでいて計算ずくの発言でもある。結婚生活の中、絶えず演技を繰りかえしてきたからこその曲芸だ。

 理解を示す姿勢を見せ、これは喧嘩ではなく対話なのだと印象づける……それが最善手と判断できるくらいには、シャルロッテもこの手のことに慣れていた。


「だからその点は謝ります。ごめんなさい」

「……じゃあ、父ちゃんを帰してくれるのかよ」

「それはできないわ」


 首を振る。この一点には応じられない。

 シャルロッテにその権限がないことはもちろんだが、彼女自身の信念としても、ここで肯うことはできなかった。


「家族のためだったかもしれないけれど、あなたのお父さんは確かに誰かを襲った。それは相応の罰を受けるべきことだわ。たとえさらおうとしたのが私でなくてもね」

「だから、それは元々お前らの……!」

「理由があれば、「わるいこと」をしていいの?」


 斬りこむように問いかける。無理に話を遮るのは悪手だが、堂々巡りの泥沼に付き合うつもりもない。少年が怯んだのと同時、声音を柔らかくしてフォローする。


「誤解しないで。あなたたちポモルスカ人が声をあげることが悪いと言ってるわけじゃないの。むしろ誇るべきことだと思ってる。

 でもね、どんな理由であれ、自分が起こした行動には責任を持たなきゃいけないわ。それを人のせいにするのは、自分が人間である権利やプライドも捨てるということよ」


 意味、分かるかしら? そう語りかけても返ってくるのは沈黙だ。

 しかし彼は聡い少年だと、シャルロッテはこれまでのやり取りで知っている。しばらくして投げかけられた言葉がその認識を裏づけていた。


「……じゃあ、何してもバカにされて怒られて、それが俺らのセキニンなのかよ」


 呟きがぽつりと落ちていく。むきだしになった心が牙をむき、シャルロッテの理論武装を食い破ろうとする。


「お前らに分かるもんか! セキニンだのなんだの、お前らの都合のいいこと言ってるだけだろ! じゃあお前らは取れるのかよ、自分たちのやったことにセキニン取れるのかよ!」


 糾弾はほとんど嗚咽だ。幼い、まっすぐな怒りが胸を衝く。


「俺たちがこんな目に遭ってる責任は、誰も取ってくれなかったくせに!!」

「……そうね。私たちは分かり合えないのかもしれないわ」


 静かに頷く。自分の中の理解をいくばくか正しながら。


 男に対する女、軍国人に対するポモルスカ人――社会的に軽んじられる立場であることは同じでも、その内実には圧倒的な隔たりがある。それを横に置いて、自分には彼らの気持ちが分かると思ってしまったのは傲慢でしかない。


「でも――」


 それでも、シャルロッテはもう傍観者にはならないと、諦めないと決めたのだ。

 ならば引き下がりはしない。


「でも、私は私の責任を果たす。

 あなたのお父さんたちが私を捕まえようとしたのはそれなりの責任を取るべき、わるいこと。でも、私が考えなしに外へ出たのも同じよ」


 少年の父親がシャルロッテを攫おうとしたのもシャルロッテがその危険を知りながら逃げ出したのも、重さこそ違えど双方に非があることには変わりない。男も女も、軍国人もポモルスカ人も関係なかった。


「軍国の人間だから許されるとか、ポモルスカ人だからしょうがないとか。そういうの、嫌じゃない?」

「……」

「やったことはやったこと。それをした人の立場なんて関係ないわ。少なくとも、私はそういう考えでありたいの」


 声にわずか微笑みを乗せて言い切る。少年がそれに心動かされることを、半ば確信しながら。


 ここでシャルロッテが徹底すべきは公平性――彼らが乞い願って、けれど決して手に入らないもの。

 どれだけ立場が違えど、いや違うからこそ、この選択は彼らに響く。それが痛いほどに理解できる。


 自分やヴィルヘルミナも、同じものを求めてやまないのだから。


「だから、私はこの件、」

「ストップです、夫人」


 決め手の言葉を遮ったのは、女性にしてはごつごつした手だった。


 マルガが背後から腕を伸ばし、シャルロッテの口を塞いでいる。それに反感を覚えるよりも、空気の変化を感じ取る方が先だった。


「ぶんたいちょ」

「分かっている。表のほうが騒がしくなってきたな」


 ごく短いやり取りで考えを通じあわせるヴィルヘルミナとマルガ。耳を澄ませれば確かに、窓の外からざわめきらしいものが聞こえてくる。なにやら浮き足立っているようだ。


「まさか、あいつら……」


 そう、少年がひとりごちた言葉に問いかけようとした矢先だった。


 鳴り響いたのは銃声――続けざまに三発が鼓膜を打つ。


 耳を塞ぐ間もなく軽くマルガに庇われた。しかしこちらに向けられたものではないようで、着弾の様子はない。隣室から届いたヴィルヘルミナの声も平静そのものだ。


「ロッテ、心配はいらない。今の発砲はおそらく……あっ、よせ、暴れるなと言っただろう!」

「離せ! いいから外だ、カーテン開けろよ!」


 叩きつけるような叱咤に、半ば裏返りかけた反駁が続く。なおも厳しく御そうとするヴィルヘルミナだったが、少年の決死の剣幕を疑問に思ったのだろう、やがて小さくカーテンを開く音がした。


「あいつら、なんで……」


 少年が呆然と呟く。眼下の景色を見下ろしながらであろうそれは、間もなくやり切れない叫びへと変わった。


「待ってろって、ちゃんと俺がやるって、言ったのに……!!」

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