2-10上等兵ベアテの功罪

「……さて、と。これでよし」


 門の閉じる音を背後に、グレーテルは密かにほくそ笑んだ。


 とりあえず第一関門はうまくいった。あとはあの少年次第だ。ここで彼が短気を起こして勝手な行動をすれば、すべては水の泡になる。

 しかし西側の柵に接した、青々しく茂る生垣の奥――そこから生えた男児の頭部を目にして、グレーテルは安堵と呆れの息をついた。


「頭隠して……とはよく言うけど、あんた頭も隠せてないわよ」

「うるせえバカ軍人。こんな枝だらけの木、隠れる方が無理だろ」


 悪態をつきながらも、難儀そうに生垣から出てくる少年。柵越えに使ったロープも一緒にだ。極力音が出ないよう手助けしながら、グレーテルは腰のポケットから一枚の紙を差し出した。


「はい、通行証。なくすんじゃないわよ。これが消えた瞬間、あんたはここにいる資格がなくなるんだから」


 通行証は一人一枚。入る時に門番役から受け取り、出る時には返す。敷地内で警備に見咎められた際には、それを提示すれば通行許可を証明できる。そんな仕組みになっていた。


 つまり、通行証さえあれば門番の了承が得られたという既成事実となる。


 グレーテルの通行証はまだ懐に。だから少年に渡したもう一枚は、門番から渡されたものではなかった。


(あいつの手癖の悪さも、まあたまには役に立つのよね。絶対言わないけど)


 思い浮かべるのは、先ほどグレーテルのポケットに余分の通行証を滑りこませてきた女――不埒者と呼ばれたベアテだ。


 ベアテが門番の身体にベタベタ触れて通行証を盗み取る。さらに門番の気を引いている間に西の路地で少年を柵越えさせ、叱責しに現れたグレーテルがベアテから通行証を回収する。そして敷地内で少年と合流し、屋敷に入ってケストナー夫人のもとへ向かう……流れとしては単純明快だ。


 むろん単純とはいえ、ひとえにベアテがどれだけ門番の意識を握り、かつ盗みを働けるかにかかっているのも事実。しかしこの点に関して彼女はプロだ。ものを盗むにしても、男を相手にするにしても。神への祈りを唱えながら、神が禁じることを平然と、いやむしろ好んでやる女。


 要するに、手癖が悪い。

 ベアテという部下についてはここに尽きた。


「さあ、ケストナー夫人がお待ちかねよ。怪しまれるような真似するんじゃないわよ、通行証も招待状もあるんだから堂々としときなさい」


 言って少年の手を握る。夫人の招待状だけでは門番に渋られ、通行証だけでは警備に追及されることが目に見えていたが、ここまでくれば押し切るだけだ。

 門番もあんな辱めに遭えば、ベアテのことはしばらく口外しないだろう。被害者なのに難儀なものだ。


 そう算段を立てて少年の手を引いたが、その足は重石がついたように重かった。


「なあ」

「なによ、無駄話してる暇は……」

「お前ら、軍人だろ。こんなことしてていいのかよ」


 はたと手を引く力をゆるめ、うつむく少年をのぞきこむ。グレーテルの視線から逃げ、しかし唇を引き結ぶ表情は、どうやら葛藤のそれらしい。


「もしかして、気遣ってるの? 自分の心配しなさいよガキ」

「なっ、別に俺は……!」


 反駁しようとこちらを向いた頭を引っ掴んで固定する。まっすぐ彼の目を見つめて言ってやる。


「分からない? 私たちは任務でやってる、ただそれだけよ。だから任務である限り、あんたを必ずケストナー夫人のところに連れていく。あんたとはやりたいことが一致してるだけ、感謝も心配もいらないわ」


 反論の間も与えず、こめかみに拳をぐりぐりねじこむ。少年はわずか抗議の声をあげ、苦い顔をしてグレーテルを睨んだ。

 ふん、と思わず息が漏れる。少年が垣間見せた心の隙間。その柔らかい部分につけこむことなど、グレーテルにとってみれば造作もないのだが……


(ほら、まあ、子ども相手だし。大人気ないし。私の趣味じゃないしね)


 だから別に、その幼い良心に報いてやろうとか、そういうことではないのだ。決して。


「ほら、行くわよ。キリキリ歩きなさいガキんちょ」

「う、うるせえよ。指図すんなクソ軍人!」


 少年の手を握りなおし、裏口へ向かう。正面からではさすがに先の門番に見つかりかねなかった。


 少年の気持ちなどグレーテルには知ったことではない。知ったことではないのだが、まあ、言ったことは違えないつもりだ。

 任務だから、というのと同時に――これはそう――自分のプライドの問題として。

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