2-9いち衛兵隊員の受難
その日、衛兵隊のとある隊員は南大通り沿いのケストナー邸正門で警備を任されていた。
同僚のひとりと門前に仁王立ちし、威圧するように大通りを睨みつける。ケストナー夫人は昨日脅迫状を受け取っているし、なにより実際に誘拐未遂の被害を受けているのだ。今日も今日とで何が起きてもおかしくない。
そのとき最前戦で門を死守するのが自分たちの役目で、どういう事態になろうとこれは最低限かつ絶対だった。
(しかし、あの軍人気取りの女ども……)
侮蔑のような忌まわしさのような気持ちが心の隅をざわつかせる。
なんとか小隊とかいう女の部隊が夫人の警護を任せられたらしいが、どうあっても信用できない。そもそも女の身で軍人などと分不相応なのだ。さっきも何やら騒いでいたし結局のところ遊び感覚なのだろう、有事の際にはどうせ役に立たない。
というよりも、役立たずでいてくれたほうがこちらにとっては好都合だ。なぜならば――
「もし、そこなお兄さん方ぁ。ちょっとお時間よろしいですかぁ」
そんなことを思っていると、噂をすれば影。
黒い軍服をまとった女があわい笑みを浮かべ、こちらに近づいていた。
「なんだ貴様。配置に戻れ、こっちは忙しいんだ」
「あらまあまあ、そんなつれないことを仰ってないでぇ。神も仰っています、貧者には常に与えよと。少しばかりお聞きしたいことがあるだけですよお」
腰まである長い髪と豊満な胸を揺らし、女は上目遣いに同僚を見上げる。仕草がいやに艶めかしい。堅苦しい軍服を身につけているにもかかわらず、身体のラインが浮き上がって見えるようだ。
「なにせ、自分たちの小隊はか弱いか細い女の部隊ですしぃ。上官がたにも警備のノウハウなんてないので心細いんですよねえ……衛兵隊の皆さんとは違って」
ぷっくりとした唇が微笑む。要するに自分たちにこっそり指南を請いたいと、そういうことらしかった。
身のほどを知っているのは嫌いではない。それにここでごねられても警備の邪魔だ……
むろん断る理由も山ほどあったが、天秤は自然とこの女に応じる方へ傾いていた。
「……手短に済ませろ。俺たちも暇じゃない」
「ありがとうございますぅ。ええーとですねえ、これなんですけどぉ」
言うや否や、同僚に身を寄せ、腰に手を回す。まるで抱きつくかのように。
固まる同僚、呆気にとられる自分。我にかえって声を荒げようとすると、女の手が同僚の下肢――正確にはそこに提げられている装備――を撫ぜていることに気がついた。
「警棒ってあるじゃないですか、あれってどうにも手に馴染まなくてぇ。何が悪いんでしょうねえ。自分が平和主義者なこともあるんでしょうけど……やっぱり、手の大きさが違うんでしょうかあ?」
警棒を愛撫した指が、硬直した同僚の手に触れた。骨をなぞり、指間を揉み、手のひら同士を交歓させる。
なぜか目を逸らしたくなるような、それでいて目を離せないような、妙な衝動がせめぎあう。当の同僚など哀れなほど戸惑い、数歩退がる間もなく閉じた門に退路を阻まれていた。
「お、おい!? お前、一体何を……」
「うわあ、おっきい……これだけ大きくて逞しいなら、それはそれはお強いんでしょうねえ。さすが天の主が造られたお姿です、自分たち女とは比べものにならないくらい骨太で、男らしい……」
うっとりと濡れた声は否応なく聴覚を刺激する。同僚に密着したままの身体は、軟体生物じみた滑らかさで男の手を舐めている。
ただ手で触れあっているだけなのに、ただ語りかけられているだけなのに。
なぜこんなに身体が疼く。一部に集まった血が煮立ち、鼓動が逸る。まるで脳の生理的な部分を素手で
これ以上この女を見ていたらおかしくなる――その危機感を察知したかのよう、女は同僚を嬲りながら、ぐるりとこちらに視線を向けた。
「あなたは、どうですかあ?」
ゆっくりと音を刻む唇の奥。ほのか垣間見えた肉の色。それに思わず生唾を飲んだ瞬間だった。
「いったい……なあにしとるんじゃあんたはあ!!」
高らかに鳴り響いたのは、女が頭を叩かれた音だ。例の女の後ろから黒髪をボブにした女――伍長階級の肩章をつけている――が姿を現し、盛大に怒鳴りつけている。
場の淫靡な空気はあっという間に霧散した。女は叩かれた後頭部を押さえながらも、ゆるゆると上官に向かって口端を緩める。
「なにってグレーテル伍長、ご指南を賜っていたんですよお。百戦錬磨で金城鉄壁の警備隊の方々からぁ」
「やかましい!! さっさと配置に戻んなさい、副分隊長命令!」
乱暴な手つきで背を押して部下を追い払う女伍長。そして部下の長い髪が角の向こうに消えると、長いため息をついてこちらを向いた。
「うちの部下が失礼しました。で、早速ですが、分隊長に定時報告があるので通していただけます?」
ぞんざいな敬語で言う。自分と同僚はどちらも上等兵なので階級としては彼女の方が上なのだが、男女という絶対的な差の前にはほとんど意味をなさない。
通行証を差し出しつつこちらも敬語で応じるものの、敬意など毛の先ほども含んではいなかった。
「女性は大変ですね。あんな不埒者まで入隊させなければならないなんて、人手不足はよほど深刻とお見受けする」
「ええ。ああやって身を寄せられても特に何も思いませんから。男性と違って」
遠慮のない軽蔑の視線がふたりの下肢を射抜く。前屈み気味になっても隠しきれない、男性特有の生理現象を。
かっと頭が熱くなる。羞恥と屈辱。悪いのはお前の部下だとかこうしたものは見て見ぬ振りをするものだとか、そもそも女なら恥じらうものだとか常識が色々悲鳴をあげるのだが、今は何を言おうと決まらない気がする。生意気な女伍長がまた息をついた。
「あの馬鹿にもよく言い聞かせるので、こんな醜態は私たちだけの胸にしまっておきましょう。では、
通行証を掠め取るように奪い、勝手に門を開けて入っていく女伍長。
それを制する気にもなれず、同僚と二人してなす術なく見送り……そしてどちらともなく肩を落として、何事もなかったかのように門を閉じた。
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