2-2ケストナー夫人の戯れ

 シャルロッテにとって、唯一気を休めることができるのは自宅で過ごす一時だ。


 もともとはあまり家に籠もる性質でもなく、むしろ外に出歩くほうが好きだった。しかしアルバートと結婚して以降、急激にその比率は逆転する。


 衆人の目に触れれば、もはや女優でもただの女でもなく「ケストナー大佐の妻」として認識されてしまう。

 それが疎ましくて悔しくて、部屋でひとり本でも読んでいる方がよほどマシに思えてしまったのだ。


 ただし、自室にいるだけでここまで心が落ち着く――否、心が躍るような時間は、結婚してこのかた例がなかった。


「……ええ、問題ありません。どうぞ夫人フラウ、お待たせしました」

「あら、ありがとう軍曹さん」


 高い音を鳴らしてソーサーに乗せられるティーカップ。毒見を終えて目前に差し出されたそれを、しかしシャルロッテはカウチソファーに座ったまま受け取らない。

 軍服を着た彼女はわずか不思議そうな顔をしていた。静かに首を振る。


「昨日からあなたもお疲れでしょう、軍曹さん。問題ないならそのまま飲んでしまってくださいな」

「そういうわけには。これは夫人、あなたのために淹れられたものです。用意してくださった使用人の方にも申し訳が立たない」

「その私を助けてくれたのは軍曹さんよ。お礼くらいさせてください。それとも、紅茶の一杯ではお礼にもならないかしら」


 意識して笑みを強くする。言外に言わんとすることが伝わったのか、目の前の彼女は紅茶を差し出したまま、噛んで含めるような声音でシャルロッテに呼びかけてきた。


「夫人……」

「何でしょう、「軍曹さん」?」


 わざとらしく強調し、にっこりと微笑みかける。意地でも譲歩しない。


 そして数秒ほど無言の攻防が続いた結果、先に折れたのは軍服の女――ヴィルヘルミナの方だった。


「降参だ。ロッテ、頼むから困らせないでくれ」

「ふふ、ごめんなさいミーナ」


 作った微笑の奥から、くすくすと本物の笑みが漏れてくる。今度は素直にティーカップを受け取って喉を潤した。

 ソーサーに乗っていたクッキーはヴィルヘルミナに手渡す。ちょっとしたお詫び代わりだ。


 たったこれだけのやり取りなのに、幸福感が枯れた胸に染みていく。ふわふわとした心地に背を押され、軽く意地悪まで言っていた。


「でもミーナもいけないのよ? 昨日といい今日といい、ずうっとよそよそしいんだから」


 事実、昨日はそのよそよそしさに困らされた。

 勧めてもソファーに座さなかった彼女にシャルロッテが見たのは拒絶の意思だったが、当の本人としては汚れた野戦服で座るわけにもいかないと気を遣っていたらしい。とんだ取り越し苦労だ。意地悪のひとつも言いたくなる。


 そんな彼女も今日はぱりっとした軍服に身を包んでおり、どうやらこちらが常装らしい。

 上下とも真っ黒のそれはいかにも存在感が強く、時折白いラインがアクセントを加えている。腕章や部隊章以外に他の色は存在しない。


 白か黒か。そのはっきり分かれたコントラストは、実直なヴィルヘルミナによく似合っていた。


「よそよそしいというか……まあ、言うなればけじめだよ。君は保護対象で、私は軍人だ。ある程度の線引きは必要だろう」

「なら保護されている側としてお願いするわ。その線引きをやめて。もちろん、あなたが仕事で来ていることは分かっているし、私もそれを尊重するわ。ただ、言葉だけでは私とあなたの間に壁を置かないで」


 カップをテーブルに置き、そっとヴィルヘルミナの手を取る。そして彼女と視線を合わせて機を逃さず訴えかけるのだ。


「せっかくまた逢えたんだもの。寂しいじゃない」


 経験上、こうした駆け引きでは負けない自信があるし、どうやってもその癖は出てしまう。

 しかしヴィルヘルミナには手管によってではなく、ただ気持ちで通じて理解してほしかった。


 ともだちなのだ。彼女への言葉だけは、一片の嘘もなく綴りたい。


「……心得た、我が友ロッテ。確かに友人であり保護対象であることは両立しうるし、保護対象と良好な関係を築くのも私たちの仕事のうちだ。そこについては少々私の頭が固かったな」


 ヴィルヘルミナもすぐに応じてくれる。とはいえ少々歯切れが悪く、すぐに「だが……」と逆接へ繋がった。


「だが?」

「部下の前でこうした振る舞いをするのも、な。なんだかむず痒い」


 そう頬を掻いて横目で見やったのは、扉の前で控えているひとりの部下だった。

 クリーム色の髪をまとめて右肩に垂らした、背の低い華奢な軍人――昨日シャルロッテを箱から出してくれた二人のうち片方だ。


 ずいぶんと若く、女というよりは少女の趣の方が強い。ぽかんと口を開いて呆気に取られたような表情でこちらを見つめ、せっかくの利発そうな顔立ちが相殺されていた。


「え、ええと……ねーさ、分隊長。発言許可を願います」

「許す。言ってみろエーリカ」

「分隊長はご夫人と……つまりはあの、お知り合い、だったのですか?」


 おそらく先のふたりの会話からずっと気になっていたのだろう、目を白黒させている。

 ヴィルヘルミナはそんな部下にいともあっさりと頷いてみせた。


「ああ。ロッテ――ケストナー夫人は私の知己だ」


 知己。改めて言葉にされると照れくさいのか堅苦しいのか妙な違和感があるが、とにかく間違ってはいなかった。


「女学校時代の同窓生でな。昔は共に励んだものだ。彼女は当時から人気者だったよ」

「それはあなたもでしょうに、学園の王子様。ミーナにつけられた沢山のあだ名、いまでもそらで言えるわよ」


 言ってみましょうか? といたずらっぽく微笑んでみると、ヴィルヘルミナは苦笑して首を振る。なんとかの君だとか何々様だとか、こうした呼び名を彼女は当時から恥ずかしがっていた。


「勘弁してくれ。部下の前ならなおのことだ。まあそういうわけでな、図らずもこの任務が久々の再会になった。私の入隊を機に分かれて、もう10年近くになるが……」

「10年? そんなにお会いしていなかったのですか?」


 エーリカと呼ばれた部下が不思議そうに目を瞬かせる。

 確かに、知己という間柄で9年10年顔を合わせなかったというのはいささか不自然だろう。場合によっては薄情とも思われそうだ。


 しかし、ことこの二人については事情が違った。


「約束していたからな。次に逢うときは、互いに誇れる自分になっていると」


 ヴィルヘルミナが肩をすくめる。横目でシャルロッテの方を見ると、申し訳なさげに眉を下げた。


「中途半端な自分ではロッテと向き合うことはできない。そう思っていたら、こんなに時間が経っていた」


 嬉しい、と素直にそう思った。


 ヴィルヘルミナも自分と似た迷いを抱えていたことも、それほど自分を想ってくれていたことにも。

 加えて、自分がアルバートに打ち負かされけっこんし以降抱いていた負い目まで許された気がして、自嘲と安堵がわずかに色を添えた。


 そんな己の浅ましさをごまかすよう、ことさら明るく笑って語りかける。


「とはいえ、軍曹さんで分隊長でしょう。階級が全てなんて言わないけど、立派じゃないミーナ」

「まあ、年の割にはな。我が小隊はなり手が少ないし、なにより歴史が浅い。私は第一期で入隊したから昇進しやすかっただけだよ、別に私が特別優秀なわけじゃない。こんな立ち位置はむしろ分不相応だ」

「そ、そんなことはございません!」


 弾かれたような叫び。エーリカのものだ。


 ふたりが視線を移すと、彼女はびくりと肩を震わせる。しかしどうにも止められないようで、言葉も選べない様子で訴えてくる。


「第一期でもそうでなくても、ねーさまの実力は階級に劣るものではありません! エーリカと違ってずっと経験をお積みになられていますし、それに見合った立場におられるだけです!

 ねーさまが隊長でなければ、この第四分隊なんてとっくに……!」

「エーリカ」


 ぴしゃりと、刺すような声が訴えを断ち切った。


 一瞬にして空気が止まる。余計な抑揚のない、いっそのこと冷たくさえ思える声音が静かに響いた。


「勤務時にその呼び方は控えるようにと何度も言っているはずだが? それに保護対象の前で声を荒げるな、みっともない。

 常々教えているぞ、兵士にとって重要なものは武と忠節と」

「……自制心、であります」

「そうだ。保護対象は我々にその身を預けてくれている。預かった我等は相応の振る舞いを心掛けるべきだ。以後注意しておけ」

「はい……申し訳ございませんでした、分隊長」


 我に帰ったのか、しゅんと肩を落として謝るエーリカ。

 ヴィルヘルミナはその様子を見極めるよう、きつく目を眇めて――そして数秒後、息をついて首を振った。


「だが、まあ。私もいささか卑下が過ぎた」


 エーリカが顔を上げた。先までのひりつく空気を霧散させて、ヴィルヘルミナは小さいが確かな笑みを浮かべている。


「部下に己を下げてまでフォローしてもらうようではまだまだということだ、互いに精進するとしよう」

「は、はいっ! 了解であります!」


 応じたエーリカはばっと敬礼を決めて背筋を正す。今にも尻尾を振りかねない勢いだ。


 なるほど、飴と鞭がしっかりしている。部下から「ねーさま」だなんて呼ばれるのも頷けた。下から軍服の裾を引き、くすくすと笑ってみせる。


「やっぱり立派になったわね、ミーナ。ちゃんと貫禄があるっていうか、上官らしいじゃない」

「そう見えるのなら嬉しいよ。うちはいささか特殊だから色々と緩い面もあるが、それでも軍隊だからな。女の軍人ごっこなどと呼ばれないよう、それなりのことはしたい」


 女の軍人ごっこ。そのフレーズに胸がちくりと痛む。


 きっと彼女も何度となくそんなことを言われ続けてきたのだろう。女の身で、女のくせにと忌々しくもつまらない定型句で。外で弟や兄に混ざって遊ぶことも、料理の手伝いを放り出すことも、大学への進学も許されなかったシャルロッテのように。


 けれど今のふたりは違う。ヴィルヘルミナはくだらない理不尽を打ち壊し、「女」の枠を越えて自らの正義を貫こうとしている。

 一方のシャルロッテはどうだ。夫の呪縛から逃れ得ず、ヴィルヘルミナの信頼に甘えている。このままでいいはずがない。


 どうすればミーナの隣にふさわしくなれるだろう。

 私には何ができるだろう。


 きっとそれを知らなければ、彼女と共に戦うことはできないのだ。


『いっ、だあああああああああ!!??』


 そう物思いにふけったとたん、外から金切り声じみた悲鳴が響いてきた。


 狙撃対策のため窓にはカーテンがかけられ、外の様子は窺えない。しかし悲鳴にはどこか間の抜けたものがあって、あまり緊張感は煽られなかった。


 それはヴィルヘルミナも同じらしい。「自制心を説いた矢先にこれか…」と嘆息すると同時に扉が鳴る。事前に決めていた符丁通りのノックだ。


「入れ」


 ヴィルヘルミナが促すと、軍服の女性がまたひとり入室してきた。

 昨日シャルロッテを保護してくれた、エーリカ以外のもう片方。傍らに軍用犬を連れ、ポニーテールを揺らしながら難儀そうに頭を掻いている。


「失礼しまっす。ぶんたいちょ、外が……っていうか多分副分隊長がうるさい感じですけど。これあたしが様子見に行った方がいいんですかね」

「いや。部屋の門番がシリウス号だけになるのも困る、マルガはそこで待機だ。エーリカに話を聞いてきてもらおう。行けるな、エーリカ」

「はい! お任せください、分隊長!」


 エーリカが意気揚々と敬礼してみせる。挽回のチャンスと思ってはりきっているのだろう。あるいは、ヴィルヘルミナもそのつもりで命じたのかもしれない。


 上官の信頼と、それに応じることのできる部下。立場こそ違えど対等に支え合える関係性。

 足早にドアから駆け出していくエーリカの背が、シャルロッテにはひどく羨ましく思えた。

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