その仇花で撃ちぬいて

橘こっとん

序:あの娘は戦場へ行った



 貴様らは幸運だと誰かは言った。


 近々大攻勢が予定されているという噂。数日ごとに交代で塹壕にこもり、いつ来るとも知れない砲弾に怯える日々はすぐ終わる。

 勇敢にも敵陣地へ突撃し、こちらが敵を脅かす側となるのだ。着任早々としては華々しい幕開けだろうと、数日前、塹壕への交代前にすれ違った傷痍兵が笑っていた。


 自分たちも笑った。そのときが楽しみだとさえ思った。

 音に聞いた数々の英雄譚にも負けない輝きを放ち、この戦場に勝利を捧げてみせる。そんなチャンスがすぐ訪れることに色めき、不安がる者の肩を叩き、己のなかの恐怖を押しつぶす。

 そしてみんなで約束を交わしたのだ。祖国のため、家族のため、自分たちの未来のため。そんな希望を胸に抱いて。


 そう――彼がこんなものを幸運と呼んだとしたのなら。

 この世の幸はきっと、突きつけられた切っ先にも気づかぬ盲目にこそある。


「あ、ぅああ……」


 枯れ果てた声は自分にさえろくに届かない。

 背丈よりも深い塹壕をひたすらに駆けぬけながら、少女ははじめて戦場の狂気に身をさらしていた。


 轟音が耳で渦巻いている。

 砲弾が地を削りとる。

 悲鳴は誰のものかも分からない。

 ひび割れ地盤をさらした大地が砲撃にまた穿たれて、ぎざぎざとした歪な稜線を空の果てまで刻んでいた。


 砲撃を防ごうと退避壕にひそむ友軍は、みな不安と焦りと理解不能の表情をしていた。

 それらを渡り歩いて塹壕を走る彼女にしても似たようなものだ。ただひとつ、目の当たりにしたものが違うだけ。


 これまでの道中には少なくない数の骸が転がっていた。

 砲の直撃を受けてぐずぐずに融解してしまった死体。落ちてきた岩盤に押しつぶされた死体。もうもうと吹き上がる黒い煙の中から垣間見えた赤黒く焼けただれる死体。

 名誉も誇りも感じられない、ただただ無残なだけの血肉が散らばっている。夢に見た英雄の死などどこにもなかった。


(どうして、こんなことに)


 分からない。ただひとつ理解できるのは、こんなはずではなかったということだけだ。


 斥候兵たる少女が初陣で与えられたのは攻勢前の偵察の任だ。こちら側の陣地である高地から敵の動向を観察し、どのような配置になっているか報告する、シンプルだが重要な任務。

 担当の塹壕をはなれ、班の仲間と慎重に慎重をかさねて辿りついた尾根で、彼女は全てが崩れていくのを目にした。


 はじまりは大きな地鳴りと揺れだった。立っていられないほどの衝撃が襲いかかり、思わず頭を抱えて身を伏せる。ようやく起き上がったときには、見下ろす地形は一変していた。


 山が崩れ、地が割れる。

 ここに来るまで歩いていた小さな谷に土砂が雪崩れこんでいくのが見えた。

 遠くの傾斜は歪な亀裂を描き、一瞬にして巨大な塹壕が掘られたようにも思える。

 時折また揺れと爆発音が襲ってはあちこちで黒い煙があがり、ふたたび大地が崩れ落ちていった。


 わけが分からなかった。世界の終わりとさえ思った。呆然としているうちに敵陣地も慌ただしくなり、そのうちに攻勢の準備まで見て取れた。

 はっと我に返った班の面々と引きかえそうと、あわてて踵を返したのだ。その途上がこれだった。


 仲間たちとははぐれてしまった。砲撃はとっくにはじまっている。敵の兵が攻めこんでくるのもそう遅くはないだろう。

 彼女たちの得た情報などもはや今さらでしかないし、そもそも自分にも何が起こったのか分からない。だが何をしなければいけないのかだけは明らかだった。


 行かなくちゃ。

 みんなのところへ行かなくちゃ。

 約束したから、みんなで一緒に戦うって。

 だから、この足千切れてでも行かなくちゃ――。


 頭にあるのはそれだけだ。たどる塹壕が崩れてしまっていても砲撃の衝撃が身をかすめても、両腕も広げられないほど狭い道をやみくもに進みつづける。

 強烈すぎる危機感は逆にこの光景から現実味を失わせて、悪い夢を見ているようですらあった。


 そう、この恐怖はすべて夢だ。

 割り当てられた塹壕まで戻りさえすれば、仲間はみな彼女を迎えいれてくれて、実戦偵察をこなした一人前として褒めてもらえて、勇気を取りもどしてみんなと一緒に戦える――それこそが彼女の現実に違いないのだから。


 みんなに会いたい。

 みんながいれば、何も怖くない。


 心を満たす願いと信念だけが、今の彼女を支えていた。


「あ……!」


 目的地が見えてきた。第二陣四号支援壕東部。数時間前、彼女が任務を帯びて発った土地。


 息に混ざる喘鳴が安堵に変わる。多少目印の丘が崩れてこそいるものの、ここ数日寝ても覚めても見ていた景色だ、間違えるはずがない。

 早く行かなければ。ジグザグ状の塹壕をわざわざ使う余裕はない。近道をしようと、はやる思いで塹壕を抜けだし地上に出た。


 軽くなった脚が転げそうに駆ける。ただ地の切れ目だけが目に映る。

 地表に浮かぶ塹壕の幅がだんだんと広くなって、深くなって、けれどなにかが心の端に引っかかる。


 なにかがおかしい。なにが? 分からない。まだなにも見えない……そうだ、誰の姿も見えないのだ。

 まさか皆どこかに行ってしまったのだろうか。ならば追いかけなければ。そう寂しさと焦りに最後の背を押されて、一気に塹壕を覗きこんだ。


「……え?」


 なにもなかった。


 とても静かで、なにもないそこに、彼女ひとりがただ立ち尽くしている。


「……マイアー隊長?」


 自分たちを率いてくれた、度量ある農婦のような勇ましくも優しい小隊長。


「ヴィッテンバッハ軍曹」


 いつも凛と取り澄まして、けれどその眼は欠かさず部下を追っていた上官。


「エッダ、ミリアム、レオノーラ……」


 同じ小隊の、ちがう中隊の、けれどみな等しくひとつの大隊に属していた同期の友たち。


 誰もいない。すべては闇の奥底に。


 数時間前まで仲間たちが身を寄せあっていた場所で冗談のようにぽっかり開く、深く暗い亀裂の中に――


「あ、ぁあ…………あああああああああぁああぁぁぁあ!!!」


 叫びが思考を裂き破る。

 それが自分の口から迸るものだと気づいたのは、萎えた脚が膝をついてからだった。


 奈落。一言でいえばそれだった。

 彼女が過ごした塹壕よりはるかに広く、はるかに粗く、はるかに深い。壁の補強に用いていた木板の破片がむきだしの地盤のあちこちにひっかかり、嫌でも元の姿を連想させた。

 左右を見渡しても底の見えない深淵ばかりが続き、どこにも足を踏みいれることなどできない。


 ましてや、元々そこにいた者たちの行方など……


「――がう、違う……!」


 絞りだした否定で思考をさえぎる。


 みんながここにいるわけない。そんな妄念だけが頭を埋めつくす。

 もうみんなは指示を受けて前線に出て、崩落する前にこの塹壕から離脱した――そうに違いないのだ。


 信じようとして、なのに震える手は斥候兵の武器のひとつ、双眼鏡を取りだしてしまう。


 証拠が欲しい。ここに彼女の仲間はいない、だから大丈夫だと、安心できるなにかが欲しかった。

 萎えそうになる腕を叱咤して双眼鏡を構える。レンズは絶えず揺れている。いつもより数倍悪い手際でピントを調整し、やっと岩盤がはっきりと像を結んだところに、なにか場違いに鮮やかな色があった。


 呼吸が詰まる。見たくない。けれど何でもないことを証明したい。

 叫ぶ衝動がせめぎ合いながらも倍率を高め、ピントを合わせ、その先にあるものを視界に刻んだ。


「……ぁ、あ……」


 双眼鏡が亀裂すれすれに落ちる。

 言葉もない。先までの激情が嘘だったかのように胸を空虚が満たし、もうなにも感じることはできなかった。


 尖った岩壁に引っかかっていたのは敗れた腕章だ。国花と剣をあしらった、軍隊には不似合いなほど可憐な紋章が縫いつけられている。

 仲間の証――自分たちの部隊章。


 それが意味するものを、理解できないままならよかったのに。


「……」


 いつしか、世界が揺れていた。


 ぐらつく頭がもたらす錯覚なのか本当に地が震えているのか判別がつかない。もう地に伏せることも思いつかず、脱力に身をまかせる。

 だから彼女の座す大地に細い亀裂が入り、地盤を滑り、亀裂めがけて崩れていったときにはもう遅かったのだ。


 浮遊感が全身を抱きとめる。すべてがゆるやかな速度で進んでいく。

 振りかえるように身をひねれば、彼方で輝く太陽と目があった。


 絶えず巻きあがる土煙と黒煙の向こう、仰ぐ空は嘘みたいに青く澄みわたり、こちらのことなどまるで気にかけてもいない。


 悲しくて悔しくて遣る瀬なくて手を伸ばす。視界の端で腕章が揺れる。

 刺繍された一輪の華と交差する剣、それらを囲む言葉がささやいた。


 Jungfrauen, kämpft mit den Eisenschwertern――

 乙女よ、鉄の剣を抱きて闘え――

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