第23話 朝会話①――クリスとナターシャ
早朝……まだ、太陽が完全に山の稜線から顔を出しておらず、空がぼんやりと黎明の色に染まっている時間帯。ソファーに寝ていたクリスは、誰に起こされるでもなく、むくりと起き上がった。両親からの教えで、早寝早起きを徹底しているのである。
クリスは起き上がると、軽く水を飲み、それからストレッチを開始する。
入念に、徹底的に、体の隅々までほぐしてゆく……体が硬いとそれだけで怪我の原因となるし、動きの齟齬にもつながる。そして、軽く汗ばむまでストレッチをしたクリスは、毎日欠かさずに行っている早朝訓練のために剣を取って……ふと、アトリエに人がいることに気が付いた。
物陰からそっと見てみれば、アスカとコレットが仲良く寄り添うように眠っているではないか。
――なるほど!
聡明なクリスは一人で納得した。
たまに父上と母上が仲良く寄り添っている時があるが、その時は声を掛けることを躊躇うことがある。つまりはそういうことなのだろう。
アスカとコレットが聞いたら赤面して否定しそうな理由で納得したクリスは、二人を起こさないようにそっと外に出た。
清廉な風が街道に面した草原を爽やかに吹き抜け、クリスの髪を揺らす。
深呼吸を一つ、二つした所で、不意に先客がいることに気が付いた。
「おはようございます! エリアルさん!」
『おや、おはよう、クリス。相変わらず朝が早いねぇ』
深く頭を下げて挨拶をすると、寝ずの番をしていたエリアルが穏やかな声で返してくる。エリアルは穏やかな瞳でクリスを捉えながら口を開く。
『早朝鍛錬かい?』
「はい! まだまだ未熟の身ですから……鍛錬は欠かせませんし、何より自分が落ち着かないものですから!」
そう言って、クリスは鞘から剣を抜き放つ。
大人が使っていてもおかしくないような大剣――しかも、柄にまかれた布や、鞘に刻まれた傷跡を見るに、相当に使いこまれているモノだと言うのが分かる。威風を感じさせる大剣を軽々と構えて、クリスは深呼吸を一つ。
そして、型を確認するように丁寧に、丁寧に、剣を振る。
クリスの剣技は繊細な風貌とは異なる『豪の剣』ではあるが、その稽古の様子は極めて静謐だ。ただ、その瞳は真剣そのもの……その動きの端々まで、一切の妥協を含んでいない。
そんなクリスの稽古を、傍でジッと見ていたエリアルだったが……不意に口を開いた。
『クリス。その剣……覚醒はしていないようだけれど、聖剣イクスエクレールだね?』
「……ッ!?」
ギョッとクリスは目を見開き、その場で硬直した。
まさか、この剣を――聖剣イクスエクレールを一発で見破る存在がいるとは思ってもみなかった。慌てて誤魔化そうとするが、根が正直なクリスだ……すぐにテキトウな言葉が出てこない。
無言であわあわと慌てているクリスに、エリアルが口の端を歪めて笑う。
『もちっとハッタリを効かせる練習もしときな。実直なだけじゃこの世は渡っていけないよ』
「肝に銘じておきます……」
ガックリと肩を落とすクリスに、エリアルがのっしのっしと近付いてくる。
『四聖刃が一つ、聖剣イクスエクレール。魔影大戦において多くの魔影を切り裂き、人類に希望を示した極光の剣。まさか、もう一度この目で見ることになるとはね……』
「あ、あの、スミマセン……このことは内密に……」
この剣が聖剣イクスエクレールだと知られれば、おのずとクリスの素性もバレてしまう。まぁ、逆に言えばすでにエリアルには素性がバレてしまっているということなのだが……。
滝のように冷や汗を掻いているクリスに対し、エリアルは愉快痛快と言った様子でくっくっく、と笑っている。
『分かっているさね。この事が露呈したら、コレットあたりが顔面蒼白になりそうだしねぇ』
「あ、あはは……」
何と返していいか分からないクリスは、苦笑を浮かべたまま、ぽりぽりと後頭部を掻いた。そんなクリスを一瞥した後、エリアルは小さく一つ吐息をつき……アトリエの方へと顔を向ける。
『折角だ。見てるだけじゃないでこっちに来な』
「ん?」
一体何のことかと、クリスがエリアルの視線を追いかけてみれば、小さくコレットのアトリエの扉が開いていた。そして、そこから見えるのは純白の長髪と、漆黒のローブ……。
「あっ」
クリスは思わず声を上げた。そう、昨日、クリスを見て怯えてしまった少女……ナターシャ・クレッフェルがそこにいたのだから。
――あぁ、良かった……熱は下がったんだ。
内心でクリスがホッとした。昨夜の彼女は、まさに熱病にうなされた患者そのもので、とても見てられなかったのだから。やはり、コレットの迅速な看病が効いたのだろう。
彼女はクリスと目が合うとビクッと身を震わせたが、ギュッと両目をつぶって、おずおずと出てきた。目を丸くして硬直するクリスとは対照的に、穏やかな口調のまま、エリアルが言葉を繋げる。
『ほら、こっちにおいで。クリスに何か言いたいんだろう?』
「え゛?」
思わず変な声が出た。
てっきり、クリスは嫌われているものだと思い込んでいたので――そのせいで、昨夜はひどく凹んだ――エリアルの言葉は完全に予想外のものだった。
顔を少し青ざめさせ、尻尾を丸め、彼女はチョコチョコとした小動物のような足取りでクリスに近づいてくる。女の子と相対するのに、抜身の剣を持っているのは失礼だろうと考え、クリスは慌ててイクスエクレールを鞘に納めた。
実はクリス、同年代の少年少女とはほとんど接したことがない。いや、正確にはあると言えばあるのだが……礼節や形式に乗っ取った対応ばかりを必要としていたので、遊んだり、喧嘩をしたりといったことは一度としてやったことがない。
そのため、クリスには素朴なナターシャの姿が、逆に新鮮に映った。
待機していたクリスの傍まで近づいてきたナターシャは、モゴモゴと口の中で何かを言っているようだが……良く聞こえない。
『ほら、良く聞こえないよ。しゃんと背筋を伸ばして! しっかり言う!』
「ひゃ、ひゃい!」
エリアルの鼻面で背中を軽く叩かれ、びくーん! と直立不動になったナターシャは、そのまま腰から九十度折り曲げて、深く頭を下げた。
「あ、あの! 昨日はありがとうございました!」
「え?」
「あの、姉さんから聞きました……命を懸けて、ロード・オブ・トワイライトを止めてくれたって……私、命の恩人にとても失礼なことを……」
「い、いやいや、僕は僕のなすべきことをしただけだから、気にしないで!」
だが、そんなクリスのセリフなどまるで頭に入っていない様子で、ナターシャは少し震えながらもう一度頭を下げる。
「あの、でも私何も持ってなくて……お礼なんて何もできなくて……」
そう言う彼女はなぜか怯えているようで。
なぜそんなに怯えているのか理解できないクリスは、内心で軽く首を傾げながら、目の前で手を振って見せる。
「今、君は僕にお礼を言ってるじゃないか。それで十分だよ」
「え……?」
「ん?」
何か微妙にかみ合わない。
互いに見つめ合って目をぱちくりさせるクリスとナターシャを見かねて、エリアルが途中で口を挟んだ。
『ナターシャ。クリスは、見返りはアンタのお礼だけでいいって言ってるのさ』
「え、でも、そんな……!?」
「さっきも言ったけど、僕は僕のなすべきことをしただけだし、困っている人を助けるのは僕の使命だから。こうしてお礼を言ってもらえるだけでも、とっても嬉しいよ!」
まるで、未確認生命体を目の前にしたかのように、ナターシャは唖然とした様子でクリスを眺めている。対するクリスは、ニコニコと笑みを浮かべており、気負いがない。
そんなナターシャに、エリアルが呆れたように声を掛ける。
『ナターシャ、今回の件……クリスやコレットに弱みを握られたと思っているんだろう? 助けられたから、見返りを要求されるんじゃないかってね。違うかい?』
「え……あ、いや、そんなことは……ッ!」
慌てるのは、実質、肯定の証拠だ。
永い時を生きた、百戦錬磨のエリアルの目を誤魔化すことはできない。エリアルはふん、と鼻を鳴らして、首を左右に振った。
『まぁ、ナターシャの方が価値観としては正常さね。ただ、幸いなことにコレットもクリスも、良い意味でずれている。人種としてはかなり珍しい善人っていうやつさね』
「あの、僕、褒められてるんですかね……?」
『褒めてはいないね。アンタやコレットの価値観は、色々と危ういからねぇ。個人的には、アスカぐらい慎重で、物事に懐疑的な方が良いさね』
何だかんだで、この狼もアスカのことは評価しているようだ。
なるほど、さすがアスカさんだ!――と、内心で納得しながら、視線をナターシャに戻せば、どこか気まずい表情で俯いていた。
彼女は何か言葉を言い募ろうとして……けれど、何も言えずに黙り込むと、再度、クリスに向けて頭を深く下げた。
「あの、本当にありがとうございました。迷惑ばかりかけて、本当にごめんなさい……」
「え、あ、あの、そんなことは決して――」
「それじゃ、失礼します……」
軽く会釈をすると、ナターシャは駆け足でアトリエの中に入って行ってしまった。ぱたん、と無情に閉まる扉を前にして、クリスは完全に硬直してしまった。
『まぁ……育った環境の違いかねぇ……』
そんなクリスを見て、エリアルは小さく、小さく、呟いたのであった……。
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