2 黒蝶真珠と砂の王国[ファカーラ]の砂

 蜥蜴とかげの群れにただ独り居る竜の如くに、それは際立っていた。都市の一番外れの場所で、壁一枚へだたった先はもう砂漠しかない。その壁に並び、日差しを避けるように奴隷達が座っていた。腕を縛る鎖はそのまま壁に穿うがたれた杭に固定されている。力なく座る奴隷達の真中に、動かぬ岩のように、それは居た。

 女は真直ぐにそれの前に立った。日除けのベールをつけてはいるが、奥からのぞく眼は若く美しい。身に着ける衣装も装飾の品も、高位の身分であることに相応ふさわしい、洗練された豪奢ごうしゃなものであった。しかし相反する点もあった。似合わぬ大振りな曲刀シャムシェールを腰にいていた。

 女は云った。

「面白いものがいるな、ムダル」

 名を呼ばれた奴隷商は慌てて女に近づき、おもてを伏せた。

「海岸に倒れておりました。遠くに向かう船が難破したのではないかと」

「これほどの黒い肌は初めて見た」女は興味深そうに眺めた。「他には?」

「もう一人男が流れ着いていましたが、既に事切れておりました」

「そうか。……これは、何だ?」

 女はそのつながれた奴隷に近寄った。男の髪は短く縮れ、肌は墨でも塗ったよう。それに背が高かった。鍛えられた戦士の筋肉だ。しかし女の目を引いたのはそれよりも太い首に巻かれた首飾りであった。白い真珠ならば女も知っていたが、五つ連なったそれは、闇に染められたように黒く、それでいて緑がかった不思議な輝きを放っている。

「触るな」

 奴隷は鎖を鳴らして威嚇した。「これは友との誓いの証だ。価値は俺の心臓と同じ。誰にも奪わせはせぬ」

「姫さま。あぶのうございます」

 目をいたムダルが女をかばうが、女は全く意に介さず、さらにかんばせを近づけてささやく。

「お前は戦士か。そのからだは見掛け倒しか」

 彼は女を睨みつけた。

「槍さえくれれば獅子ししでもほふる」

 ふん、と女は笑う。

「この国に獅子はおらぬ。あの飛ぶはやぶさを落としてみよ」

 女は天を指した。ムダルは驚いて、

「そんな無茶な。槍で鳥を射落とせるはずがない」

「ムダル、は私が買った。鎖を外して槍を持たせてやれ」

「姫さま。そんなことをしたら逃亡してしまうでしょう」

「この男はそんな真似はしない。確かな誇りがあるし、それを守り通すだけの力を持っている。外してやれ。もしも逃げたなら私が損をするだけだ。話の種として事あるごとにわらってやるさ」

 黒肌の奴隷は槍を何回か持ち直して重心を確かめた。立ち上がると上背の高さが際立つ。ぐっと腕に力を込めると、くるりと向きを変えて建物の陰に向けて投擲とうてきした。

 悲鳴を上げて弓を構えた男が倒れる。

「敵が多いようだな、姫さまとやら」

「隼を落とせと云うたのに。鬣犬ハイエナを殺してもな。お前の名は何という」

「アラカ・アラク」

「うん? その名は伏せ、アンタルと名乗れ。我らが神と響きが似すぎていて都合が悪い」

「アンタル? どんな意味だ?」

 女はすらりと剣を抜いた。

「古代の、槍の使い手として知られた英雄の名だ。私はファカーラ国第二王女、シファーァ・バッドゥール。アンタルに問う、私に仕えるか」

「お前は俺を買ったのだろう」

「それは支度金と思え。重要なのはお前の意思だ。もう少し落ち着いたら、その黒い真珠のように見たことも聞いたこともないものを見に行く。ついて来い。お前は海のさらに向こうから来たのだろう? 私はこの地に生まれた一握いちあくの砂にすぎぬ。もっと、世界の先を。私は、海が見たいのだ」

 一拍考えたアンタルは、片膝をついてこうべを垂れた。

「我が血の最後の一滴が大地に消えるまで、死力を尽くして姫を守ろう」

「よし」

「ただの砂とて、うまく風に乗れば海をも超えるというぞ」

 アンタルは、笑った。自分を買ったこの女が熱っぽく語ったことは、妙に子供じみて聞えた。だがその熱さこそが己の魂に再び火をつけたのだ、と感じた。

 暗殺者が数人、物陰から現れた。シファーァが云う。

「まずは生き残ることだ。ムダル、商品としてであっても彼を扱ったおかげで助かったな。こんな鎖で猛獣をつなぎ止めてはおけぬ。扱いがひどければお前を叩き殺していたかもしれんぞ」

「そうなのか? わしはお前が話せる事すら知らなんだ」

 アンタルは黙したまま新しい槍を受け取った。シファーァは剣を軽く振る。ムダルは輪に連なった大量の鍵を取り出した。三人はそれぞれに、違う方向に駆け出す。

 

 数年の後。

「行くぞ。待たせたな」

 シファーァはアンタルを呼んだ。漆黒の髪が風になびく。金の髪飾りが日に反射して輝いている。

 アンタルはさらに体積が増したように見えた。背は変わらぬにしても筋肉が増え、立派な革鎧からのぞく多くの傷跡が威圧感を増している。

「視察に行くのか? 今のところ大きな脅威はないようだが」

 王位は兄のナーイフが継承した。差し当たって中も外も混乱は少ない状況だ。

「決まっている。お前はおぼえているか?」

 シファーァは指をすっと指し示す。アンタルの首にかかる黒蝶真珠を。

 憧憬しょうけいを含ませた少女のような笑顔で、彼女は云った。

「──海の、その先へ」


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